検証・北朝鮮  北朝鮮索引  

                    

  第86回  渤海国と今後の日朝関係 47
                (世界戦略情報「みち」平成19年(2667)9月15日第257号)

  矢野祐太郎は、出口王仁三郎の入蒙工作を積極的に進めた。
 当局の監視の目を逃れて聖地綾部を出発した王仁三郎一行は京都に向かい、矢野夫人から切符を受け取って、一路奉天を目指した。
 奉天でも当局は追跡の手を緩めなかったが、矢野は廬占魁将軍に協力を仰いで救出している。
 蒙古人には何でも大陸的なのがよいからと、王仁三郎を聖師と改称し、白紙四ツ切りほどの特大名刺を作るなど、宣撫工作も怠らなかった。
 その数ヶ月後、張作霖による討伐指令により、一行はパインタラで包囲、逮捕されてしまう。
 矢野は直ちに奉天軍や関東軍の特務機関に助命嘆願し、またしても間一髪で窮地を救っている。
 王仁三郎の救出に奔走した人物は、ひとり矢野だけではない。大アジア主義者・堀川辰吉郎もその一人である。
 堀川は明治天皇と女官千種任子(ちくさことこ)の間の隠し子とも噂されるが、その真偽のほどは定かでない。
 頭山満や井上馨の庇護を受けて育ち、孫文と生死を共にして支那革命の成功に邁進した。
 支那革命運動の最中、堀川は張作霖と知り合い、互いに尊敬する間柄だったという。張作霖の息子張学良とは兄弟の契りを交わしていた。
張作霖に捕らえられた王仁三郎一行が危ういところで救出されたのは、堀川と張父子との特別な関係によるところが大きかったと思われる。
 これは運命のいたずらなのか、それとも神々が仕組んたシナリオなのか。
 堀川は日満を永遠に結ぶものは宗教しかないという信念から、支那の新興宗教・道院の外郭団体である世界紅卍会と手を結び、その名誉会長に就任している。
 一方、出口王仁三郎の人物に惚れ込み、大本教に接近した。そして、大本と世界紅卍会を結びつけることに尽力した。
「中国の道院は日本の大本、日本の大本は中国の道院なり」という道院の壇訓(だんくん)(扶乩(フーチ)という自動書記による神託)が、両者提携の根拠となっている。
 二人は「アジアの大同団結」で意気投合、王仁三郎が入蒙経綸構想を密かに堀川に打ち明け、これに共鳴したことは、想像に難くない。
 王仁三郎の入蒙をお膳立てするため、矢野とは異なるルートで裏工作していた可能性が高い。
 入蒙経綸とはいうものの、蒙古は第一の目的地に過ぎず、王仁三郎は当初、五~六年かけてエルサレムまで進撃する予定だった。
 エルサレムに至る各所にも協力者を配していたことは十分考えられる。
 王仁三郎がこの大ユーラシア横断計画の最初の目的地として蒙古を選んだのはなぜか。
 王仁三郎はその著書『月鏡』の中の「義経と蒙古」で、次のように明確に語っている。

 蒙古とは古の高麗の国のことである。百済の国というのは今の満州で、新羅、任那の両国を合したものが今の朝鮮の地である。これを三韓というたので、今の朝鮮を三韓だと思うのはまちがいである。
 玄界灘には離島があって、それをたどりつつ小さな船で日本から渡ったものである。義経はこの道をとらないで北海道から渡ったのであるが、蒙古では成吉斯汗と名乗って皇帝の位についた。蒙古には百六王があって汗というのが皇帝に相当するのである。
 蒙古にはまた面白い予言があって、成吉斯汗起兵後六百六十六年にして蒙古救済の聖雄が現われる……。
また成吉斯汗の子孫母につれられて日本に渡り、五十四才のとき蒙古に帰りきたって滅びゆかんとする故国を救う、という予言もある。
 わたしの入蒙古はちょうどその年すなわち五十四才にあたり、また成吉斯汗起兵後六百六十六年に当たっているのである。かかるがゆえに蒙古人は私を成吉斯汗すなわち義経の再来だと信じきったのである。
 義経はアフガニスタン、ベルジスタンにも行き、ついに甘粛にて死んだ。元の忽必烈はその子孫である。元というのは源の字音からくるのである。

 衣川で自刃したかの源義経が北海道から大陸に逃れ、さらに大蒙古帝国の創始者ジンギスカンになったという「義経=ジンギスカン説」がある。
 この説を『成吉思汗は義経なり』で小谷部全一郎が主張し、学界や言論界を巻き込む一大論争を引き起こした。この著作が出版されたのは、奇しくも王仁三郎が入蒙した大正一三年(一九二四)のことである。
 霊能者では王仁三郎の他にも、物理霊媒師の萩原真、神道家の荒深道斉が証言している。
 王仁三郎は、「源日出雄」を名乗り、行く先々で病気を治したり、突然雨を降らせたりと数々の奇蹟を行ない、住民から畏怖の念をもって崇拝された。
 古来から伝わる英雄・救世主伝説を利用する手法は大東亜戦争時のビルマで「ボ・モージョ伝説」を利用し民心を掌握した南機関の情報工作と酷似しており、興味深い。(つづく)