お金の本質   索引  

                    

 第10回 お金の歴史 7 ── 日本初のお金=富本銭
              (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)10月1日第280号)

 前回まで一般的なお金の歴史の概要を追ってきた。
 お金の歴史は文明や地域によって異なり、タイムラグもある。
 しかし、お金が商品貨幣から金属貨幣、鋳造貨幣、預証紙幣、不換紙幣へとその装いを新たにしていった点では共通している。
 さて、わが国のお金は、どのような歴史を辿ってきたのであろうか。水上宏明『金貸しの日本史』(新潮新書)を参考にして、少し探ってみることにしたい。
 日本最古の鋳造貨幣(コイン)は「富本(ふほん)銭(せん)」であるとされる。平成一一年(一九九九)にこの学説が発表されるまでは、和銅元年(七〇八)に発行された「和同開珎(わどうかいちん)」が最も古いというのが通説だった。
 それ以前は米や布といった商品貨幣が広く流通していた。
 当時、日本は律令国家体制の整備に余念がなかった。そのモデルとなったのが海の向こうの超大国・唐である。遣唐使や唐と朝鮮半島からの渡来人がもたらす文明は、大和王朝にとっては垂涎の的だった。
 中央に孔の開いた富本銭もそのひとつだった。初めて目の当たりにする珍しい金属片は、お金ではなくコレクションとして人々に珍重された。富本銭の最大の用途、それはなんと厭(よう)勝(しょう)銭(せん)だった。厭勝銭とは宗教的な儀式物のことだが、実際には双六用のチップとして使われた。
 富本銭が出回った頃、世の中は天武天皇の治世下にあった。天武天皇は賭博好きで、博戯とよばれる双六に興じていたようだ。
 人間の欲望をストレートに刺激する賭博にはまったのは、天武天皇だけではなかった。役人や庶民も富本銭を片手に双六の勝負に熱くなっていた。
 よほどの加熱ぶりで社会問題となったのであろうか。六八九年、持統天皇は日本で最初の賭博禁令となる「双六禁止令」を出した。
 六九八年、次いで七五四年にも同様の禁令が発布された。特に後者の内容は、違反した場合には六位以下であれば百回の杖打ちの刑、それ以上の者は現職を解任し土地は没収といった厳しいものだった。
 その理由が『続日本紀』には次のように書かれている。

 この頃、官人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双六を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これではついに家業を失い、また孝道にも欠けるであろう。

 銅銭と双六は支那から輸入したものだった。支配者たちは先進的な支那の制度や文化を模倣し追いつこうとしたのである。
 しかし、双六は純粋な遊びに止まらず、人々の欲望と結びつき、もの珍しい銅銭を追い求める手段となった。
 銅銭と双六が導入されると、いずれも負の側面ばかりが引き出され、社会的な大混乱を引き起こしてしまった。「先進的」と評された支那文明の本質とその限界を見事に象徴している。
 支配者は銅銭を決済手段や価値尺度として機能させ経済活動を通じて円滑に流通する過程で、価値貯蔵手段としての機能を漸進的に強めていく青写真を描いていた。
 だが、彼らの目論見は見事に外れてしまった。人々は銅銭の決済手段としての機能に目もくれず、銅銭そのものを手っ取り早く入手して自分の手元に貯め込む行動に走ったのだ。
 このように日本では、お金の形態が商品貨幣から金属の延べ棒や塊などの金属貨幣を通り越して、富本銭などの鋳造貨幣へと一足飛びに移行した。
 一方、西洋ではヘロドトス『歴史』に小アジアのリディア王国で鋳造貨幣が初めて使用されたことと、人類史上初の賭博の記録が残されている。
「飢餓のときには何も食べずに丸一日、ダイスを転がし賭博にふけり、食欲を忘れ次の日に食事した」
 鋳造貨幣の誕生と賭博用チップとしての用途は、洋の東西を問わず同じだったのである。
 鋳造貨幣はお金というよりも一片の貴金属だった。虚栄心を満たし、力を誇示して他人を支配する権力欲の実現手段。それが貴金属であるお金に対する評価であった。
 金属貨幣や鋳造貨幣が発明された頃は、穀物や塩、保存のきく貴重品などの商品貨幣がお金として十分流通していた。それらは決済手段や価値尺度としてより強力に機能していた。
 金属貨幣や鋳造貨幣がなくても世の中はうまく回っていたのだ。
 商品貨幣と金属貨幣、鋳造貨幣は、同じお金とはいえ、当初その性格は大きく異なっていた。
 それなのに、あえて金属貨幣や鋳造貨幣をお金として導入しようとしたのはなぜなのだろうか。
 表向きの理由は支那文明の模倣だが、実は、お金の価値保存機能をいっそう強めようとする支配者の秘められた意思が強力に作用していたと思われる。
 つまり、支配と権力を強化する道具の行使を人々に認めさせようと試みたのである。(つづく)