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 第11回 お金の歴史 8 ── 日本における紙幣の誕生
              (世界戦略情報「みち」平成20年(2668)10月15日第281号)

 わが国では飛鳥時代に鋳造貨幣が誕生して以来、鋳造貨幣の時代が長らく続いてきた。
 紙幣が登場するのは江戸時代の慶長一五年(一六一〇)に三重県の伊勢山田で山田羽書という私札が発行されてからである。ただ、鋳造貨幣はそれ以降も日本のお金の主役として機能し、金貨や銀貨が大量に流通していた。
 私札とは、政府(幕府)以外の者が幕府の許可を得て発行し流通させた紙幣である。
 私札の種類には、街道の宿場で発行された宿場札、神社仏閣が発行元となった寺社札、旗本が発行した旗本札、各村や町が発行した町村札(自治体札)、鉱山などで発行した鉱山札、土地の有力者・商人が発行した私人札等があり、その形態や性格は多種多様だ。
やがて、これらの私札が藩札への発行へとつながり、全国の藩でも独自の紙幣を発行するようになる。
 最初の藩札は寛永元年(一六六一)に福井藩が発行したといわれる。その後、特に銀中心の経済地域である西国の諸大名を中心として、多くの藩が藩札を発行した。
 明治四年(一八七一)に政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約八割に当たる二四四藩、一四の代官所、九の旗本領が紙幣の発行を行っていた。
 藩札発行の目的は藩内の貨幣の不足を補い、通貨量の調整機能を担わせることだった。
 そのためには十分な正貨準備が不可欠だったが、実際には藩札発行で得られる金貨や銀貨の鋳造貨幣の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消を試みる場合が多かった。
 藩は独自の流通規則を定め、藩札以外の貨幣の流通を禁じた藩もあったが、藩札と幕府貨幣の両方の流通を認めた藩も多かった。
 藩札は藩の取り潰しなどがあれば紙くずになるリスクがあった。また、藩の財政状況が悪化すれば藩札の信用も低下する。
 藩札は金貨や銀貨などと兌換できることが保証されていたものの、実際にはそれだけの正貨が用意できた藩は少なかった。
 明治政府は同年の廃藩置県を機に藩札回収令を発布し、各藩札の正貨との実交換相場による藩札回収を始めたが、処理が完了したのは明治一二年(一八七九)であった。
 廃藩置県後、新通貨が整備されて普及するまでは、藩札に似たさまざまな紙幣が流通していた。
 太政官札、民部省札などの政府発行紙幣、旧幕府領に設置された府県のいくつかが発行した札、新政府が各地の商業中心地に開設させた為替会社や通商会社が発行した札や、藩札に円銭厘の単位を示した大蔵省印が加印された藩札が、新貨交換比率が設定された寛永通寶銭などの銭貨と共に使用された。
 明治五年(一八七二)、国立銀行条例が制定された。
 明治維新後、新政府は欧米のさまざまな制度を模倣して導入したが、国立銀行条例もその一つである。
 名前は国立となっているが、実際には政府が作ったものではない。銀行は民間が所有し、銀行券を発行できる権利が与えられていた。
 民営でありながら国立と称されているのは、米国で銀行券を発券するナショナルバンクをそのまま訳したことによる。
 制度だけでなく、名前までそっくりそのまま真似たわけである。ここにも明治維新の本質の一端をうかがい知ることができる。
 発足当初から財政難に悩まされた明治政府は、先に述べた太政官札といわれる金銀の裏付けのない紙幣を発行していた。この太政官札の消却を目的としたのが、国立銀行だった。
 国立銀行に資本金を不換紙幣である太政官札で政府紙幣を納入させる一方、代わりに兌換紙幣である銀行券の発行を認めた。
 つまり、政府は銀行設立者が出資する金貨や銀貨をあてこんで、国の借金を国立銀行、正確には民間に肩代わりさせようとしたのである。
 ところが、出資者もバカではない。このような紙切れ同然の紙幣ではなく、価値ある金貨や銀貨を保有したいと考えるのは当たり前だ。
 さらに、不換紙幣の太政官札と兌換紙幣の銀行券が並存すれば、太政官紙幣の方は価値が下落することは火を見るより明らかだ。
 結局、不換紙幣回収という国立銀行設立の目的は失敗に終わった。
 財政難を逃れようとして苦肉の策として編み出された仕組みであり、藩札の発行事情と似ている。
 一般的なお金の歴史では、金貨や銀貨の鋳造貨幣の裏付けのある預証紙幣の次に不換紙幣、あるいは不換紙幣が発行されるが、日本ではこの逆であるところも興味深い。
 その後、政府は西南戦争でさらに乱発した不換紙幣の回収を目的として、明治一五年(一八八二)、銀行券の独占発行権を持つ日本銀行を設立する。以後、わが国のお金の歴史は世界のそれと軌を一にしている。 
(つづく)