尖閣戦時対応への一考察 
   (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年2月1日第375号)

●昨年九月、沖縄県・尖閣諸島をわが国が国有化して以降、支那軍用機が東支那海上空で日本領空への接近飛行を繰り返していることが分かった。支那軍機は日本領空の外側に設けられた防空識別圏をたびたび突破、その都度、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)し対処しているが、防衛省は事実関係を発表していない。尖閣周辺での相次ぐ挑発を受け、政府は警告射撃など自衛隊の対抗措置を強化するかどうかの検討に入った。
 複数の政府高官によると昨年九月一一日の尖閣国有化後、支那軍機が頻繁に日本領空への接近飛行を繰り返すようになった。軍用機は「Y8」で、情報収集機型と哨戒機型の二種類ある。日中中間線のガス田付近まで南下した後、再び北上したり西方に飛び去ったりするケースが多い。
 防衛省は尖閣国有化以降の支那軍用機に対するスクランブル事例として、昨年一二月二二日から今年一月五日までの間の五件を発表したが、いずれも支那国家海洋局の航空機「Y12」への対処。軍用機である「Y8」へのスクランブルは発表していない。
 一月五日、安倍晋三首相は、米村敏朗内閣危機管理官らに尖閣周辺での領域警備で対抗措置の強化を検討するよう指示。具体的な措置としては、領空侵犯機が無線での警告に従わない場合、曳光弾を使った警告射撃を行なうことや、海軍艦艇が領海付近に進出してくれば海上自衛隊の艦艇を一定の範囲内に展開させることが柱となる。曳光弾発射は、昭和六二年に領空侵犯した旧ソ連の偵察機に実施した例がある。
 一月一一日、政府が閣議決定した緊急経済対策で、沖縄県・尖閣諸島周辺での支那による領海侵入や領空侵犯を踏まえ、領域警備体制の強化策を盛り込んだ。これを受けて一五日に閣議決定された平成二四年度補正予算案に、航空自衛隊のF15戦闘機四機の近代化改修、海上保安庁の領海警備体制の強化などの経費が計上された。
 閣議決定された緊急経済対策は「安心の確保」の項目で「変化する安全保障環境への適応」「領海警備体制の強化」などを掲げた。
 これに基づき、防衛省は支那軍用機の領空侵犯時にスクランブルしているF15の改修のほか海上自衛隊の哨戒ヘリコプターSH60K三機分、〇三式中距離地対空誘導弾一個中隊分の整備費が補正予算案に盛り込まれた。
また、北朝鮮による長距離弾道ミサイル発射を踏まえ、空自のパトリオット(PAC3)ミサイル取得の経費も計上。大規模災害に備え、輸送ヘリ一機、救難ヘリ二機、掃海・輸送ヘリ二機も整備する。
 補正予算案での防衛関係予算の計上額は約二一二四億円。そのうち約一八〇五億円が「緊急経済対策」として計上された。
●一月一一日、支那国防省は、支那軍の戦闘機などが東支那海にある日本の防空識別圏に入ったことに関連して「最近、自衛隊の飛行機が中国に対する偵察活動を強化し、活動範囲も拡大している」として、支那軍が「高度に警戒している」と牽制した。
 同省によると、一〇日、浙江省温州の東の海上で「通常の飛行」をしていた支那軍の輸送機が航空自衛隊のF15戦闘機二機に至近距離で追跡された。国防省は日本側が同じ空域に別の偵察機も飛ばしたと指摘し、支那軍が戦闘機「殲10」二機を発進して監視を行なったとしている。
 国防省は「断固として国家の空の安全を守り、正当な権利を防衛する」と強調、日本に対して「国際法規を尊重して、安全を脅かさないよう」求めた。
一月一三日、支那軍の戦闘機が今月一〇日、東支那海上空で米海軍のP3C哨戒機と空軍のC130輸送機に緊急発進し執拗に追尾していたことが、分かった。同じ時期から自衛隊機に対する緊急発進も過剰になった。支那軍用機による日本領空への接近飛行を受け政府が対抗措置の強化を検討していることに反発し、支那側は対応をエスカレートさせている。
 P3CとC130はいずれも日中中間線付近を飛行していたところ、支那軍の戦闘機がスクランブル対処として接近・追尾した。米海軍は電子偵察機EP3も運用しており、支那側はEP3にも接近したとの情報もある。
 政府高官は「自衛隊機だけでなく米軍機にもしつこくつきまとっている」と語っている。支那軍の戦闘機は情報収集などにあたる自衛隊機の一部にも緊急発進で距離を詰めるなど過剰な対応をした。戦闘機はJ10(殲10)やJ7(殲7)とみられている。
 これら一連の行為は自衛隊の能力を測定し、同時に米軍の対応を見極めるものでもある。支那側のメディアは、こうした軍事的なエスカレーションを習近平が「養光韜晦」から、「有所作為」へと(つねに実力を見せず蓄積し、やるときは一気に)旗幟を鮮明に切り替えたのではないかと分析している(多維新聞網、一月一一日号)。
 二〇〇七年から胡錦涛前総書記は「養光韜晦、有所作為」というケ小平の遺言に二字を付け加え「養光韜晦、積極有所作為」と主張するようになっており、習近平新総書記が急激に路線を変更する気配はまだない。
しかし、支那人民解放軍を指揮する総参謀部が全軍に対し、二〇一三年の任務について「戦争の準備をせよ」との指示を出したことを、一月一四日付の軍機関紙「解放軍報」などが明らかにしている。
 解放軍報によれば、総参謀部が全軍に向けて出した二〇一三年の「軍事訓練に関する指示」のなかで、「戦争準備をしっかりと行ない、実戦に対応できるよう部隊の訓練の困難度を高め、厳しく行なうこと」と記されている。総参謀部は昨年も訓練指示を出していたが、「軍の情報化や部隊間の横の連携の重要性」などを強調する内容が中心で、今年のような戦争を直接連想させる表現はなかった。
 同紙は今年の訓練目標について、昨年一一月に就任した習近平・中央軍事委員会主席の重要指示に基づいて作成したと解説している。すなわち、支那の新指導部が戦争準備に向けて大きく一歩踏み込んだことがうかがえる。
 また、支那の主要メディアは今年に入って、「尖閣戦争」を想定した番組を連日のように放送している。支那軍事科学学会の副秘書長、羅援少将や、元海軍戦略研究所長の尹卓少将ら多くの軍関係者が出演し、主戦論を繰り広げている。そのほとんどは習総書記と同じく太子党(元高級幹部の子弟)のメンバーで、習総書記の意向が反映している可能性が高い。
 一方、日本と外交交渉を通じて尖閣問題の解決を主張する学者らはほとんどメディアに呼ばれなくなった。ある日本研究者によると、最近北京で行なわれた尖閣問題に関するシンポジウムで、「論争の中心は対日戦争を小規模にとどめるか、全面戦争に突入するかが焦点になりつつある。小規模戦争を主張する人はハト派と呼ばれ、批判されるようになった」といわれている。
 共産党筋によれば、習近平総書記は昨年一一月の党大会で、軍人事の主導権を胡錦濤国家主席が率いる派閥に奪われた。習は現在、軍内の保守派と連携して日本との軍事的緊張を高めることで、自身の求心力を高め、主導権を取り返そうとしているとみられる。
 日本政府が領空侵犯する支那軍用機への警告射撃を検討していることについて、支那人民解放軍の彭光謙少将が支那のメディアで「日本が曳光弾を一発でも撃てば、それは開戦の一発を意味する。中国は直ちに反撃し二発目を撃たせない」(一月一四日)と発言して支那国内で大きな反響を呼んでいる。彭少将は退役後の現在は国家安全政策委員会副秘書長を務めている。
 インターネットには「よく言ってくれた」「原子爆弾でお返しをしよう」といった支持の声が多く寄せられ、支那国内で好戦ムードが高まっていることを裏付けている。
この問題については、支那外務省の洪磊報道官が一月一〇日の定例会見で、「日本側の行動の拡大には高い警戒心を持っている」という控えめな表現を使い、ネット上で「弱腰」「売国奴」といった批判が殺到していた。
●一連の支那の動きを単なる威嚇として捉えていては、方向性を見誤る危険性が高くなるであろう。鍵を握る米国の動向だが、米国務省のサリバン政策企画局長が南支那海で衝突が起きる危険性がある、と発言している。
 彼は、衝突を回避するために支那とASEANとの間で、法的拘束力を持つ「行動規範」の策定が欠かせないと、支那に対する交渉を求めているとのことだが、現状の支那が交渉の席に臨むことは期待できないことを米政府は承知済みであろう。むしろ、この政策企画局長は、南支那海の危険性以上に、尖閣での軍事衝突が高まっていることを匂わせている。米国は対支那のために日本及び周辺国の軍備増強を促し、自国は後退していく戦略を採っているのである。それゆえ、支那の対日強硬姿勢を許している。
 米国の思惑を忖度するかのように、安倍内閣の閣僚や安倍総理自身がASEAN諸国を歴訪し、支那包囲網を積極的に強化している。
 一月四日、麻生太郎副総理兼財務・金融・デフレ脱却円高対策担当相はミャンマーのヤンゴン近郊にあるティラワ経済特区を訪れ、同国に対する新たな支援の実施を確認した。
 岸田文雄外相は一月九日から一四日にかけてフィリピン、シンガポール、ブルネイ、オーストラリアの四ヶ国を訪問した。フィリピンに対しては巡視艇を一〇隻無償供与することを決めた。実質的な軍事支援である。
 安倍総理は一月一六日からヴェトナム、タイ、インドネシアを歴訪した。ヴェトナムから要請があれば巡視艇を無償供与することを決め、また同じくインドネシアには巡視艇三隻の無償供与を決めた。
 一連の安倍内閣のASEAN外交は対中包囲網強化で支那を牽制するためには、軍事支援も惜しまないとする日本外交の指針を内外に示したものである。米中戦略対峙の狭間で翻弄されることなく、米国に使嗾されるのでもなく、わが国の自主・自立のために独自の目線で支那との戦時対立も覚悟する必要性に日本が覚醒する時がきているのである。
平成二五年一月二〇日記