大東亜戦争敗戦六八年 
  (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年9月1日発行第388号)

・昭和二〇年八月一四日、御前会議で昭和天皇のご聖断によりポツダム宣言受諾が決定され、終戦の詔勅が発せられ、連合国に対しポツダム宣言の受諾を通告した。
・八月一五日、玉音放送により、国民及び陸海軍にポツダム宣言の受諾と軍の降伏の決定が伝えられた。大本営は日本軍に対し「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令。
・八月一六日、大本営は自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令。
・八月一九日、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対して、八月二二日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令。
・八月二二日、支那派遣軍を除く外地軍に対しては、八月二五日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命令。
・八月三〇日、マッカーサー元帥、厚木海軍飛行場に到着。
・九月二日、昭和天皇は「誓約履行の詔書」を発し、日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が、降伏文書に調印し、即日発効。
・九月一一日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、事前通告なしに、元首相東條英機をはじめ三七人を戦争犯罪人として逮捕、拘留。
・九月二七日、昭和天皇、マッカーサー元帥と初会見。

●日本政府は八月一五日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、天皇皇后両陛下のご臨席を賜わって、全国戦没者追悼式を主催している。
全国戦没者追悼式は昭和二七年五月二日に新宿御苑で昭和天皇・香淳皇后のご臨席のもとで行なわれたのが最初。昭和四〇年から日本武道館にて八月一五日に行なわれるようになり、現在に至っている。
 追悼の対象は大東亜戦争・第二次世界大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約二三〇万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約八〇万人。式場正面には、「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれる。
八月一五日は昭和二〇年の同日、玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日である。この日を全国戦没者追悼式と決めたのは、昭和三八年当時の池田勇人内閣である。
池田内閣は岸信介前内閣が行なった日米安保改訂政策が国民総反撃(六〇年安保騒動)を招いたことを受けて、自民党根幹党是である憲法改正を棚上げにする「所得倍増」政策を掲げた。すなわち、敗戦後の米占領統治政体を是正する一歩としての占領憲法の改正を諦め、対米従属下での経済成長をわが国の国是と定めたのである。この本旨を逸らすため、改めて八月一五日を「終戦記念日」と位置づけ、同日を「戦没者追悼、平和記念日」と定めて今日に至っている。この日以降、わが国では終戦認識が定着し、敗戦認識は消滅した。
●われわれは八月一五日を「終戦記念日」としている。だが、大東亜戦争における敗北を「終戦」と受け止めることで、他人事の何かが「終わった」という錯誤を当為と受け止めて、当事者としての認識すら放棄している。
多くの日本人にとって八月一五日は、不可思議な空白の一瞬として受け止められた。
 当時、大多数の国民は本土決戦を覚悟していた。婦女子すら含めた総特攻構想が練られ、竹槍による突撃訓練が行なわれ、最後は自決用の手榴弾が配布される予定であった。多くの日本人はそのことに疑義を抱かず、死を当為と受け止めていた。しかし、八月一五日の玉音放送によって突然、終わりが告げられた。
 受け止めた当事者にとっては死から生へと生まれ変わることを告げられたも同然で、敗北を認識することもなく、ただ、終わりの瞬間だった。その空白の一瞬について、哲学者長谷川三千子氏が最近上梓した『神やぶれたまわず ◉昭和二十年八月十五日正午』で、詳細に解き明かしている。
大東亜戦争の敗北を終戦と位置づけたわが国は米軍の占領を受け入れたが、彼らを「占領軍」とせず、「進駐軍」と定義付けた。あまつさえ、「大東亜戦争」という呼称すら忘却し、米占領軍が押しつけた「太平洋戦争」という用語に疑義すら呈せず、あの戦争の意義を矮小化している。
 その思想的間隙を狙われ、支那や韓国は総理大臣の靖国神社への参拝に因縁をつけ、わが国政府は戦没者が祀られている靖国への参拝を躊躇う体たらくに終始している。果たして、靖国に祀られている英霊達はわが国の現実を如何に受け止めているであろうか。
●だが、他人事のような終戦ではなく「敗戦」を味わされた人もいる。たとえば、満洲に居留していた日本人。彼らは関東軍の庇護を受けられず敗者の悲惨を舐め尽くした。
 そして何より、現実に本土決戦を行なった沖縄県民である。彼らにとって、大東亜戦争は「終わった」のではない。言葉の正しい意味で「敗北」したのである。だから、過去と断絶して新しい再生を目指すことなど不可能である。ここに、本土の人々との根本的な心理の違いがある。
 本土と沖縄の心理的隔壁を繋ぐものがあるとすれば、それは特攻隊員である。特攻隊員は、文字通り命を懸けて沖縄県民との一体感を守ろうとした。また海軍の戦艦大和、菊水作戦、陸軍の義烈空挺隊、いずれも軍事作戦としての目的だけでなく、そこで散華した兵士の命が沖縄県民との一体感を守るという約束の証であった。
●昭和四一年、作家の三島由紀夫は短編小説『英霊の聲』で、沖縄特攻で散華した英霊たちに「などてすめろぎは人間となりたまひし」と語らせる、衝撃的な問題を提起した。
『英霊の聲』で「などてすめろぎは人間となりたまひし」と、あたかも昭和天皇を呪詛するかのような怨念をぶちまけているのは、二・二六事件に決起して処刑された青年将校の英霊兄神と、沖縄特攻で散華した神風特攻の英霊弟神である。彼らは、繰り返し繰り返し「などてすめろぎは人間となりたまひし」と、あたかも無念を晴したいとばかりに呪詛して、小説は終わっている。
そして三島は、昭和四五年七月七日付産経新聞に「私の中の二五年」と題する小論を寄稿し、その中で「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない……日本はなくなって、その代わり無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」と予言。そのほぼ四ヶ月後の一一月二五日、市ヶ谷台で決起して、盾の会の森田必勝と共に壮絶な自決を果たした。
筆者は、三島は『英霊の聲』で提起した問題に対して、壮絶な自決で自らケリを付けたと理解している。
●筆者は三島氏と数回面談した経験がある。その内一回は、紹介者を介した差しの面談である。また、森田必勝とも面識があり、二人の壮絶な自決に衝撃を受け、今なおその衝撃を克服するまでに至っていない。
『英霊の聲』を読んだ直後、筆者にとって兄神が「などてすめろぎは人間となりたまひし」と呪詛したのは比較的例解しやすかった。それは、大東亜戦争の開戦と敗戦にまつわる昭和天皇の責任を問題提起する体裁で、戦後の知的空間の盲点である終戦認識ではなく、敗戦認識を含めた、日本人自らの目線で戦中・戦後史を見直すための問題提起だと理解できたからである。
しかし、何故弟神が沖縄特攻で散華した英霊達なのか、当時の筆者には理解できなかった。特攻隊のみならず、天皇の名の下に散華した英霊たちは、たくさんいる。だがあえて、沖縄特攻の英霊達が弟神として昭和天皇を呪詛したのか? 筆者が、ここに沖縄問題が潜んでいるのではと理解できたのは、その数十年後の数年前である。
 数年前、米国が昭和天皇とマッカーサーの会見録の公開に踏み切ったことで、昭和天皇が戦後日本の安定と皇室護持のため、米軍の沖縄直接統治を認めたことが明らかにされつつある。天皇陛下の大御心を窺うすべはないが、三島が沖縄特攻に命を捧げた英霊たちを弟神に仕立てて怨嗟の声をあげた真意をそれなりに理解できた。
 現代の沖縄問題の根源は、終戦ではなく敗戦の苦渋を舐めさせられただけでなく、戦後も本土と切り離された、二重の意味における本土の裏切りにある。すなわち、戦後、本土は敗戦を迎えた沖縄を切り捨てて米軍統治に託し、忘却してきたのである。
●今年は戦後六八年を迎える。終戦という認識で過ごしてきた結果、われわれは、何のために大東亜戦争を戦って多くの犠牲者を出したのか? 何故に敗れたのか? この問題をすべて忘却の彼方に押しやって目を背けてきた。
 われわれは、これらの問題に改めて向き合う必要がある。
米国は、当初、米軍による占領統治に当たって、徹底した日本弱体化政策を推し進めた。彼らは日本を農業主体の軽工業国家とすべく、戦前の財閥企業が温存していた重工業製造装置をすべて解体、戦争賠償としてフィリピンなどに放出する計画を進め、軍の再建など決して容認しない強い意向を持っていた。その思惑を頓挫させたのが、朝鮮戦争の勃発であった。
 朝鮮戦争は昭和二五年六月二五日に始まり、昭和二八年七月二七日に休戦し、現在も休戦状態にある。朝鮮戦争は戦後日本の経済成長に起爆剤の効果を及ぼしただけでなく、警察予備隊、保安隊から現在の自衛隊への実質的な軍備の充実にも寄与した。すなわち、朝鮮戦争の最大受益者はわが国なのである。逆説めくが、大日本帝国の残置国家を目指す北朝鮮が米国の対日弱体化政策に歯止めをかけるため朝鮮戦争を仕掛けたと見ることもできる。
現在、米国は彼らの必要性に基づいて自衛隊を国防軍に昇格させるため、現憲法の改定を是認する動きを見せている。同時に、安倍総理の靖国参拝に警戒感を示している。さらに、無自覚な政治家の発言が国際社会で波紋を投げかけている。
 八月一五日への想いを再認識して、対米従属の強化を策す米国の思惑を逆手にとって対米自立への道筋を見極めながら、わが国が再生すべき時がきているのだ。  平成二五年八月一八日記