金融ハルマゲドン前夜 
   (世界戦略情報「みち」皇紀2674(平成26)年2月15日発行第398号)

●一月下旬、欧米やわが国の専門筋の間で、一月三一日に支那で「リーマンショック」に匹敵するデフォルトが起きる可能性が高いとの懸念が出回った。このデフォルトを機に、支那の金融システムの半分の残高を占めるとされる「理財商品」の信用が失墜して支那の金融バブルが崩壊し、金利の高騰、企業倒産、社会不安が広がり、支那の共産党政権の崩壊につながるかもしれない、という予測も報じられた。
 だが、一月二八日、デフォルトに陥りかねなかった「理財商品」の元本が返済されることになり、国際金融市場ではひとまず不安心理が収まった。
 高利回り・高リスクの「理財商品」は新興国不安の震源地の一つ。支那当局が市場混乱を避けるために元本返済を決めた模様だが、損失をどう処理するのか、ほかの理財商品でも元本が保証されるのかといった疑問は残る。
 元本返済の対象になったのは大手信託会社の中誠信託(北京市)が運用していた理財商品「誠至金開一号」。二〇一一年に設定され、販売会社の中国工商銀行が約七〇〇人から三〇億元(約五〇〇億円)を集めた。だが投資先の採炭会社が資金繰りに行き詰まり、一月末の償還が危ぶまれていた。
 この理財商品がデフォルトに陥るという懸念から、一月二〇日には支那の短期金利が急上昇。市場の不安を抑えるため、中国人民銀行(中央銀行)は二一日の公開市場操作(オペ)を予告する異例の措置を取ったほどだった。
 事態が大きく動いたのは二七日。中誠信託が唐突にこの理財商品を「第三者の投資家が買い取る」と発表し、三一日までに元本が返済されるとされた。
 金融市場はデフォルト回避を好感。二八日は上海総合指数をはじめ、アジア各国・地域の多くの株価がいったん落ち着きを取り戻した。
 もっとも、理財商品の元本返済の枠組みには謎が多い。採炭会社は実質破綻しており、無価値とみられる理財商品を簿価で買い取る投資家の正体や意図は不明。市場混乱を恐れる中央政府の意向を汲んで、地方政府が救済に深くかかわった可能性がある。
●「理財商品」は、支那で流通している高利回りの資産運用商品。銀行や信託会社などの金融機関が、主に個人向けに販売している。集めた資金の運用先はさまざまだが、銀行からの融資を受けにくい不動産会社や地方政府系の企業への投・融資が多く、なかには利回りが年一〇%を超える商品も登場している。デフォルトが懸念された理財商品は年九・五~一一%の予想利回りを投資家に提示し、販売されていた。
 支那では預金金利の上限が規制されており、一年物定期預金の金利は現行で最高三・三%。物価や住宅価格の上昇率に比べた預金金利の低さに不満を持つ国民が多く、これが高利回りの金融商品に対するニーズになっている。銀行は理財商品を預金類似商品として販売しており、元本保証と誤解している投資家も多い。
先般、中国銀行が公表した理財商品の昨年六月末の販売残高は一六〇兆円に達している。
 一年前、中堅銀行の華夏銀行が発行した理財商品が返済不能となる事件が起きているのにもかかわらず、その後も膨張を続けており、実際の残高は二五〇兆円から三〇〇兆円に達していると推測されている。それは実に支那の国家予算の数倍に該当する額である。
今回、中誠信託の「理財商品」の債務額が少額であったことから、政府が支援しデフォルトを回避した模様である。今後も政府は「理財商品」の破綻を防ごうと、あれこれと手を打つだろう。だが、現在の中央政府には一〇〇兆円を超す余剰財源は残されていない。
●支那の金融バブル大崩壊が懸念されると同時に、世界のいくつかの新興市場が危険な状態になっていると指摘され始めている。
 一月二三日、アルゼンチンで通貨当局が通貨ペソを防衛しきれなくなってペソの対ドル為替は数時間で一五%も暴落し、同時に株価も一二%下がった。アルゼンチンの危機は、同国と密接な経済関係を持つ隣国のブラジルに伝搬するのでないかと推測されている。同日には、トルコや南アフリカの通貨も五%前後急落した。
 アルゼンチンなど新興市場諸国の金融市場が急落しそうな最大の理由は、米国の連銀(FRB)が二〇〇八年のリーマン危機以来断続的に続けてきた量的緩和策(QE、ドルを大量発行し米国債からジャンク債までを買い支える政策)を、今年一月から縮小するからである。QEは米国で強い資金余剰(金余り)の状態を作り出し、余った資金が世界各地の高利回りの新興市場に投資され、新興市場の金融の活況を作り出してきた。昨年末、連銀が資産状況の悪化に耐えられずにQEの縮小を決め、金余り状況の解消が予測されるなか、新興市場諸国から資金が流出し始めている。
 一月一五日、世界銀行は「(米連銀や日銀など)先進諸国の中央銀行が量的緩和策を唐突に縮小して最悪の事態になった場合、新興市場に流入している資金の八割が流出に転じ、世界経済に大打撃を与える」と警告していた。
 特に、国内資金の対外投資や輸出に比べて海外からの資金の国内投資や輸入が多く経常収支が赤字の国、赤字でなくても巨額の資金流入を受けた経常黒字の減少が急だった国は危険だとされている。昨年からトルコ、南アフリカ、チリ、インド、インドネシアの新興市場諸国が「脆弱な五ヶ国」と名指しされたが、最近はそれにブラジル、ハンガリー、ポーランドを加えて「不安な八ヶ国」と呼ばれている。
 さらに反政府運動による政治危機が続くタイやウクライナも資金流出が起きており、政府が資金不足になって国債を返済できずデフォルトするかもしれないと指摘されている。タイの国債デフォルトで始まった、一九九七年の「アジア通貨危機」の再来を予兆させる不気味な動きである。
●しかし九七年のアジア通貨危機と今回は、根本的な状況が大きく異なっている。
 今回の危機は、米国の通貨当局が、リーマンショック後復活できない米国の金融システムを支えるために大量の資金発行で世界的な金融バブルを煽った結果として起きたものだ。対照的に九七年当時、米国など先進諸国の金融財政状態は良好だった。
 アジア通貨危機は、米英投機筋がアジアの新興市場諸国の通貨や金融を潰し、その後、先進諸国(米国)の代理人としてIMFが、強烈な財政緊縮策を条件に、潰れた新興市場諸国に金を貸して救済した。すなわち、米国がマッチポンプ式に発展しそうな新興市場諸国を潰したり支配強化を試みた策だった。今回の危機も米国の都合で起きているが、米国の金融システムがリーマンショックから蘇生できず、QEなど自己救済策も尽きそうななかで、ドルや米国債に対する信用失墜を防止するため、先制的に新興市場の経済を潰そうとする、米国にとっての防衛作戦の一環である。
 米国を中心とする世界の金融システムで最大のものは、米国債を頂点とする債券市場である。サブプライム危機からリーマン倒産までの米国金融の崩壊は、債券に対する信用失墜で起きている。米国の金融システムを守るには、債券市場を守らねばならない。米金融界は、債券市場を守るためなら株式市場を潰すこともやりかねない。
 二〇一一年にS&Pが米国債を格下げした直後、債券市場が下落しそうななかで、米金融界は株式市場の暴落を誘発し、投資家が資金を株から米国債に逃避するよう誘導し、米国債を頂点とする債券の相場を守った過去がある。すなわち、今回の金融危機は、米国がドル覇権を維持するため、興隆が著しかったBRICSなど新興経済圏の息の根を止める金融帝国主義戦略に転じたことから生じている。そしてその余波は、世界的な取り付け騒ぎの予兆ともなっている。
●英国系の大手銀行である香港上海銀行(HSBC)が預金者による預金の引き出しを制限していたことが英国で報じられ、銀行に対する信用を失墜させかねないと問題になっている。一月二四日、英BBCラジオの個人投資家向けの番組が数人の預金者とHSBCに取材して報じた。
 報道によれば、一般市民の預金者が五〇〇〇ポンドから一万ポンド(一〇〇万円前後)の預金を英国のHSBCの支店で引き出そうとしたところ、支店の銀行員がおろした資金の使い道を証明する文書を持参しないと出金しないと申し渡し、預金者が請求書など資金の支払先を示す文書を見せても、証明書として不十分だと言われ、引き出したい額の一部しかおろさせてくれなかったとされている。
 銀行側は預金の引き出し制限をしたことを認め、預金者に迷惑をかけたことを謝罪しつつも、資金が不正な用途に使われることを防ぐため、昨年一一月からやっている措置であり、防犯策なので理解してほしいとBBCに対してコメントした。
 HSBCだけでなく、米国系の大手銀行JPモルガンチェースも、昨年末から同様の規制を開始しているとの指摘がある。HSBCやJPモルガンなど米欧の最大手銀行は、リーマン危機によって崩壊した最先端の債券系の金融投資を危機前に急増したあげく、危機後は米連銀のQEに頼って延命している。だが、今年一月末からQEが縮小されていくなかで、HSBCやJPモルガンにおける預金流出や信用失墜が懸念されている。預金引き出し制限が発覚するのと前後して、HSBCに八〇〇億ドル相当の不透明な問題資産(不良資産)があるので経営が危ないという指摘も出ている。
一連の動きは、現在の世界金融秩序が修復不能な混迷に落ち込み、米英(ユダヤ型)金融資本勢力が最後の悪足掻きに呻吟している内実・金融ハルマゲドン前夜にあることが暗示されている。その余波で世界の株式市場は動揺し、世界同時株安から世界恐慌前夜への様相をも呈している。それは同時に、かのラビ・バトラーが預言した資本主義の終焉を予兆させてもいる。バトラーは、その後は個人ではなく共同体重視の日本型金融・経済理念が国際基準となって、世界経済の混乱を救うとしている。
平成二六年二月八日記