黒潮文明論    索引  

                    

 2 黒潮洗う大日本の島々に神々は宿る ②
            (世界戦略情報「みち」皇紀2669(平成21)年3月1日第289号)

 黒潮はトカラの島の近辺で太平洋に抜け、大隅の佐多岬をかすめて北東に流れる。足摺岬と室戸岬の沖を経て、紀州の潮岬にぶつかる。そこから尾鷲、熊野の沖を流れ大王崎を経て東進する。遠州の沖からは石廊崎をかすめ、伊豆の島々を抜けて九十九里の浜に寄せ、銚子の犬吠埼の辺りから漸く日本列島を離れる。
 黒潮の流れが洗う岸辺の東端にあるのが鹿島と香取の神宮である。香取と鹿島の明神はそれぞれ上総一宮と常陸一宮となっているが、二社でひとつの信仰をなしている。熊野三山や後述の大洗(おおあらい)と酒列(さかつら)の磯前(いそざき)神社と同様である。香取と鹿島の社は神宮と呼ばれるからには、天津神の東の端の守りであり、おそらく夏場の南の風を得ることに限られるとはいえ、黒潮に乗って比較的容易に順風で航海できる東の限界なのである。
 黒潮の流れの本州の東の端を観察してみることにする。さて、鹿島を過ぎれば、海流の向きが変わる。親潮が北から南に流れてくるからだ。鹿島灘で、暖流と寒流がぶつかり、波が逆巻く。冬場には、寒流の鰯・鯖が、夏場には暖流の鰤・鰹が獲れる豊饒の海である。北は那珂川、南は利根川で区切られる。銚子の犬吠埼から北方の大洗辺りまでは砂浜が続く。那珂川にたどり着けば、そこから常陸の内陸山間部を抜け阿武隈や磐梯の山につながる街道に入ることができる。銚子であれば、利根川の水運を利用して、関東の要所に行き着くことができる。上流にダムができて水量の減ってしまった今の川面と異なり、かつて満々たる水が奔放に流れていたものと思われる。『利根川図誌』の挿絵は白帆の船が堂々と遡航する姿を描く。武蔵国の山からは木材が筏を組んで流され、我孫子のあたりには、その木材を陸揚げしたことから、今も木下(きおろし)の地名が残る。
 ところで、大河の河口は風と波の向きによっては三角波が逆巻く海面ともなる。大雨が降れば濁流となるから、河口から直接遡航することは難儀である。湊は河口に直接位置することなく、少し離れたところに位置するのが安全である。そこに船を繋いで風の強弱、波の高低を見て、凪いだときに一挙に船を進める。鹿島灘であれば潮はもう北から南へ流れているから、夏の南風が強ければ却って波と風がぶつかり、操船は至難の業となり、難所であることは間違いない。銚子の場合は利根川の右岸が発達し、那珂川の場合は左岸に那珂湊の町ができあがって、そこで波風を見極めたに違いない。
 香取と鹿島の場合には、犬吠の先を廻って一息ついた所で、しかも古い時代には香取海という大きな湖があったようであるから、その両岸に大社が一体となって建立されたものと想像する。香取から眺めて鹿島のお社は正確に北東の位置にあるといい、その誤差もわずかに五メートルであるという。北東といえば、鹿島灘では河口に打ち込む波が低くなり、航海がたやすくなることも確かめられるから、常陸と下総の往来の簡便も想像できる。
 視点を逆にすれば、大洗と酒列の社は北方からの親潮の流れの南端と考えられる。日本海を流れる黒潮の支流が津軽海峡を抜け、そこから親潮の南流に乗る往来も想像できる。大奈母知(おおなもち)命が大洗の主祭神、酒列の方は少比古奈(すくなひこな)命が主祭神となり、しかし一体となって創建されたという。大黒様が大洗で、えびす様が酒列の主祭神となり、それぞれ力を合わせる。何れの磯前神社も南北七キロ離れてはいるが、岬の丘の上に鎮座まします。大洗の社は岩礁の海に面しており、酒列の社殿は磯崎の丘の上に西を向いている。文徳天皇の斉衡三年(皇紀一五一六)に建立された記録があるが、祭神は「昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰って来た」と託宣されたという。えびす様と大黒様とが共に出雲の美保の岬に降臨して国造りを行ない、それを終え出雲の熊野の岬から常世郷に去ったとしている。津軽海峡を廻って戻った故地が那珂川を中心として、大洗から阿字ヶ浦までの土地だったのかも知れない。那珂川を遡れば水戸で、纏まりのある豊饒の平野である。北関東にも抜ける。山は金銀の宝の山もある。酒列の磯前神社から北方の海は関東平野の砂浜の海とは様相が異なり、山が海に迫ることとなる。時々は黒潮と親潮が混じり合うから、時折の海の霧も深く、また潮の色と香りも違うので、特に大和からの航海であれば、異境に差し掛かったと感じたことだろう。親潮からの南行であれば、水温が変わり木々の様相が色濃くなったことに驚いたはずだ。
 余談ながら、北畠親房は、筑波山の麓の小田城で神皇正統記を記している。領地の伊勢から海上の道を経て筑波嶺の麓にたどり着き、北方の国津神の世界と高天原との往来交流に思いを馳せながら、「大日本は神の国也」と断じることができたものと思う。
 遠く琉球の島々にある浜下りの行事は、相模にもあり、津々浦々の祭りとして、福島から茨城にかけても残る。山海の民の交流の証であり、黒潮の民が先祖の上陸地点を確かめる儀式とも思われる。    (つづく)