黒潮文明論    索引  

                

 11 「お白洲」は黒潮の思い出である
           (世界戦略情報「みち」皇紀2669(平成21)年7月15日第298号)

●「シラス」と書くと、南九州の火山灰の台地の土で、梅雨の頃には泥状になって崖が崩落したりする。宅地造成地で道が排水路になってしまうぐらいに亀裂が入りやすく、土の粒子が水分を吸収しないからだ。最近ではビニールの覆いを掛けたりコンクリートを吹きかけたりして、災害防止をしている。白砂ではない。似て非なるからカタカナで書いてある。海砂の方はわざわざ真砂(まさご)と呼んでいる。白州や白洲もある。川の流れの中にもっこり砂が溜まって水面上に顔を出しているのは、白洲である。地名の白子はしらこと千葉などでは訓んでいるし、伊勢湾ではしろこであるが、砂ではないようだ。白須の姓はあるが、地名にはほとんどない。新羅のしらに近いか。
●お白洲と「お」をつけると、裁判・評定の場所となる。お白洲(しらす)は江戸時代の奉行所などで被告が座る場所である。江戸南町奉行所の平面図によれば、最上段には奉行などが座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられ最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座ったという。奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いていた。お白洲には突棒、刺又、袖搦などの怖い捕物道具がおいてあったという。お白洲と言うからには、そこに撒かれた砂は純白でなければならない。白は無実の前提であり、裁判の公平と神聖さとを象徴している。お白洲のない時代には、浜辺の処刑場が首切り浜となった。岬の陰の、湧水があり木陰があるような、一見長閑な場所。冬場の寒風を遮り、照りつける夏の日差しを避けるための木陰があり、人気はなく、土間の茶色の土ではなく、砂地の浜が広がる崖の下が適地である。波頭が寄せては返す景色が遠く望めるような場所である。
●神社の参道なども土埃の立つような道ではなく、砂利を敷いてあるのは、海との往還の名残である。古い時代の様式を留めておれば、鬼が一晩でつくったとかの伝承を伴い、山を駆け上がるようにして玉石を海岸から大量に運んで積み上げ、階段代わりにしてある参道などもあるが、洗練されるほどに、砂の形は小さく、そして細かくなり、色はどんどん白くなる。大量の白砂を調達することは難しいから、海の黒い石で、できれば玉砂利でとなる。砂丘でも近くにあれば簡単であるが、それがかなわない場合には、大事な所だけに白砂が撒かれる。お白洲で、白砂が罪を清めていく。白砂は海辺の生と死の象徴であるが、社の柱が立てられる中心の場所などにも白砂が盛られる。白砂は潮の結晶たる塩の象徴でもある。冷蔵庫の氷室のないところが日本列島の大半であるから、塩をまぶして塩蔵することで腐敗を防いで、食を豊かにしたわけである。海から遠く隔たった山の住人となっても、塩の代わりに白砂を敷いて清浄を思い出した。黒潮の大海に連なる思い出をこうして保存することに何の不思議もなかった。
●現代のわが国の裁判所のお白洲は、どうだろうか。腐敗を防止する盛塩や白砂が大切にされているだろうか。
 黒潮洗う列島の白砂はまず珊瑚礁がコナゴナになって石灰のようになった砂もあれば、貝殻が砕けて砂になっている所もある。珊瑚礁の固まりの石であれば、水分を含ませて乾燥すれば、天然のセメントのように堅くなるから、デコボコ道の歩きにくさを改良するために、石灰石を割って入れた。貝殻の砂であれば、実際に星砂のように星の形をした小さな粒子の集まりもある。掌に掬うと、指の間から、ハラハラとこぼれてしまうような細い砂もある。
 南島では、人が死んで一定の年月が経てば、墓から取り出し骨を潮で洗い清めていた。もともとは風葬だった。岬の陰で太陽の方向に向かった崖の下に葬屋を立てて肉体が朽ちて行くのを待ったのだ。子が親を思い、生きた証の人骨が浜辺の風雨に晒されて海辺の砂に戻っていくことを確認する儀式である。生と死の境をはっきりさせる、厳粛な儀式ではあったが、肉親の骨を洗うのは残酷であり、しかも専ら女がその作業をしなければならないから、泣女になるような苦労話である。
●浜は波が寄せるばかりではなく、海と人とが接する場所でもある。黒潮の力で巌が砕けて海の砂となり、大量に運ばれて堆積する場所である。ガラスの尖った欠片は肌に触れるとすべすべの状態になる。岩はそのうち丸まって玉石となる。ビーチロックにもなる。磯はいそごに砕け、砂は今もいさごである。黒潮の民にとって浜は入会の地であり、私物化することはなかった。
 明治の頃に陸奥の浜をプライベートビーチ化して住民を寄せ付けないようにしたことがあった。異国の風俗が「浜に口を吸い合う者あり」などとからかわれたが、沖縄で外国軍が浦添の浜から住民を閉め出して六〇年が経ち、横浜の精油所や工業地帯にある海岸線も立入禁止になったままだ。しかし、皇居前の広場には今も玉砂利が敷かれ、江戸湾の磯の香りを残して、さながら常磐の松原の防風林の趣がある。海側の埋立地に乱立した拝金の楼閣からの風当たりを、白砂青松が遮蔽しているかのようである。(つづく)