黒潮文明論    索引  

                 

 18 太陽と月と航海・経綸の神の社
          (世界戦略情報「みち」皇紀2669(平成21)年11月15日第305号)

●元旦の午前五時半に、今上陛下は四方拝をされる。伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代各山陵、武蔵国一宮・山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮が対象である。このうち東国にあるのは鹿島と香取の神宮で、ともに利根川の下流にある。今では横利根川、常陸利根川と、板東太郎の異名をもつ利根川などに分かれているが、埋め立てられるまでは広大な水面が潮来あたりを覆っていたものと思われる。香取神宮の苑の断崖の下は香取の海と呼ばれていたし、常陸と下総の国境を成す内海で、鹿島の神宮までは、北東にたどること一二キロほどの至近距離にある。なるほど、赤松宗旦が著した利根川図志を読むと、今の柏の近くの布佐あたりでも、水量も滔々たる豊かさであったから、香取の海に浪逆(なさか)の浦の地名が残るように、川と風波とが逆巻く様が想像できる。
●蘆原中津国の平定の為に、香取神宮の御祭神となった経津主神(ふつぬしのかみ)がまず推挙され、天の岩窟に住む鹿島の御祭神となった武甕槌神(たけみかづちのかみ)が応援を申し出て、共に派遣されたから、その子孫が今の利根川下流の銚子のあたりから船を乗り入れてそれぞれ根拠地を定めた時に、香取の海の入口の両側に至近の距離にそれぞれ共同体を形成した。一旦緩急の時の協力が必要であったから、香取の海の両岸に陣取ったのだ。香取神宮の御祭神は津々浦々を経由するという意味の経津の文字をあてていることからも、香取の神々は航海を専門にした神々であった。香取は楫(かじ)取りからくる。要石が両神宮にあるが、鹿島では神宮の東側に凹形、香取は本殿の西側に凸形で地上に一部の形を出しているように、航海の技法に長けた香取の神々と武威に優れた鹿島の神々との一体となった盤石の共同作業が伺える。なるほど、香取神宮の往古の表参道は利根川に向けて開けており、香取大神は海路で、現在津の宮と呼ばれる場所に上陸したと伝えられる。鹿島神宮から眺めると、冬至の太陽はまず一の鳥居のある明石の浜にあがり、鹿島神宮の本殿を照らし、そして香取神宮を照らして、富士山に沈みゆく。一方、夏至の太陽は筑波山に沈むという。富士山に沈む太陽の延長線上に伊勢皇大神宮があり、吉野山があり、高野山がある。夏至の日に二見浦の石の間から太陽が昇る。先にも書いたが、諏訪の大社と、出雲の大社と鹿島の神宮は東西線上にあるとされるから、太陽の動きを本にして、神の社が建てられたことが分かる。海人にとっては、太陽もさることながら、月の盈虧が潮の干満と関係するから、月を読むことが重要であるから、香取の社は月の動きとの関連を推測するが今後の考究の課題としたい。
 鹿島、香取と並んで、東国三社のひとつである息栖(おきす)神社は、香取神宮の真東の九キロ地点にある。そこからは、利根川の河口はほど近い。大昔であれば、島であったのだろう。香取神宮の亀甲山から見れば砂州に見えたから沖洲(おきす)との名前になったのかも知れない。上総と下総に海上(うなかみ)郡があったが、海原(うなばら)を生業の場とする神々の栖(すみか)であろう。
●香取神宮の宝物館に、昭和天皇の欧州遊学の際、御召艦香取の艦長であった沖縄出身の海軍少将、漢那(かんな)憲和(けんわ)の書が残っている。

皇太子殿下の第二十回ご誕生を地中海にむかえ奉りて
  ふぇにきやのむかし栄えしこの海に御子あれまし日を祝うかな

 海人の拠点の香取や息栖から眺める筑波山は、海上を旅するものにとっては、航海の目印となる格好の山容である。海上からすれば、数十キロの沖からも遠望できる。黒潮が銚子の先で東進することになるから、親潮で北の国から南下してきた者、あるいは、これから東国に向かって北上しようとする者双方にとって、目印となる重要な山塊が筑波山であることが想像できる。太平洋を渡る船が、日本列島の岸辺に近づき遠望する富士山の姿を眺望したときに船の乗客や乗組員がどよめく船中記が多く残るが、遠来の海の旅人を癒すような山が列島に連なる。岩手の三陸の沖から眺める早池峰の秀麗な姿もそうだし、金華山は南島の立神と同様に屹立する。遣唐使の船が薩摩の坊津に向けて航海しているときに、笠沙の岬の野間岳を遠望して紙幣を焚いてお祝いをした気分がよく分かる。江戸上りをする時の琉球の使節が、開聞岳を望んで、海上の旅の終わりの近いことを知り、荒海の七島灘が終わり、錦江湾の浪静かな湾にはいって、船酔いの苦しみからまもなく解放されることを喜び合う場面も想像できる。
●鹿島立ちの言葉があるように、筑波の嶺は出立の人を優しく見送る山でもある。筑波の嶺の麓には伊勢の国司であった北畠氏の領地があり、北畠親房がそこで神皇正統記を書いたが、日和さえ確かなら船の旅の方が陸路よりも遥かに易しい旅だから、伊勢の領地があっても不思議ではない。三大神宮を黒潮の大道が結んでいる。新渡戸稲造の伝記には、明治の頃でも札幌に行くには東京から船便の方が、岩手の盛岡を経て陸路で旅するより容易だったというから、海路の往来は現代より古い昔の方がより活発だったことは間違いない。(つづく)