黒潮文明論    索引  

                 

 33 黒潮の島々への疾病の侵入
       (世界戦略情報「みち」皇紀2670(平成22)年9月1日第322号)

●昨年の一〇月一一日、バチカンは、ダミアン神父を聖人に加えた。列聖の式典は聖ペトロ広場で行なわれ、ベルギー国王・同妃・首相・閣僚などのベルギー国民、ハワイからの数百名の巡礼団に加えて、日本人が数百人参加して、数万人の規模だった。ダミアン神父はハワイのモロカイ島でハンセン病患者の世話をしたが、自らも発症し、一八八九年に四九歳で死去したベルギー人の司祭である。列聖に当たり、ハワイ出身のオバマ米国大統領も神父の功績を賞賛する声明を発表した。ハワイのハンセン病は最初の発症が一八四八年にあり、支那から渡来した病気だとされる。モロカイ島のカラウパパには療養所が建設され患者が収容されたが、モロカイ島にダミアン神父が赴いたのは三三歳の一八七三年五月九日である。ハワイが米国に併合される以前だから、リリウオカラニ王女(最後の女王)がモロカイ島を訪れて、慰問している。
 日本では、昭和六年、貞明皇后からの下賜金を基に「癩予防協会」が設立された。ハンセン病患者の治療の為にハワイに赴いた日本人の後藤正直という漢方医に寄せた「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いたいのだ」とのダミアン神父の言葉が残っている。ダミアン神父が奇跡を起こしたとする修道女の名前はオードリー・トグチだから、沖縄人(うちなんちゆ)の末裔なのかも知れない。新たな支配者となりつつあった白人新教(プロテスタント)の教会はダミアン神父に対して、感染したのは不注意からだ、と的外れの非難をしている。
 聖人となったダミアン神父の偉大な業績を思い起こすことは、ハワイ王国衰亡の大きな理由が外国からの輸入感染症であったことを想起することでもある。外来の伝染病や風土病を放置することが列島を孤立させ、黒潮同胞を苦界の苦しみに置いたからである。ハンセン病は特効薬プロミンの開発で治る病気となった。
●梅毒もナバンと呼ばれて恐れられた外来の性病である。南蛮人と梅毒症状とが一緒に見られた可能性すらある。イカの塩辛はナバンに良くないとか、硫黄の温泉が治療に効くとか、俗説もあった。「ガラスの吸玉」なる療法?も行なわれた。つまり、厚手の丸い形状のガラス容器に石油を染みこませた綿か紙に火をつけて放り込み、それを背中等の患部にカミソリで傷つけて、くっつけると、中の空気が抜かれ真空状態になって、血を吸い出す。古血を吸い出して捨て、新しい血を作り出すのだ。台湾や沖縄には民間療法のスイダマ、ブーブーが今も残る。梅毒は抗生物質の登場で少なくなった。特にペニシリンは特効薬となり、注射針の使い回しや消毒不足で、注射後の化膿がむしろ問題だったが、ショック死もあったにせよ、おかげで結核も含めて死に至る病が大きく減少した。黒潮の島々や沿岸の奇病や風土病が衛生環境と医療手段の向上で治る病気となった。
●風土病としてのフィラリアも減少した。草ぶるいとも呼ばれ、夏の暑い盛りに布団を着るほど体が震える病だ。フィラリアが昂じた症状に、象皮病がある。足が腫れて象の足の様に肥大化する。睾丸が腫れ、大きく垂れ下がる。明治の英雄、西郷隆盛は、奄美の島に流刑になったが、そこでフィラリアに感染し、陰嚢の肥大化があったという。南の島だけではなく、日本全国にその原虫の保有者がいたから、沖永良部で罹患したと断定するわけにいかない。昭和三〇年代の高知県の沖の島と鵜来島では、フィラリアが猖獗を極めた。発症部位により、「ホテアシ」(布袋足)、とか「イッショウギンタマ」(一升金玉)と呼ばれたという。荒木初子という保健婦の保健衛生の改善に献身した記録が『孤島の太陽』という映画になった。講談社が昭和四二年に刊行した伊藤桂一の小説、『「沖ノ島」よ私の愛と献身を 離島の保健婦荒木初子さんの十八年』を映画化した黒潮の島を守る物語だ。
●マラリアも少なくなった。マラリアは、明治時代には北海道にもあった。福井、石川、富山、愛知で患者が多く、福井では大正時代に、毎年一万人から二万人のマラリア患者が大量発生した。沖縄の八重山ではマラリア被害は王朝の時代から深刻な感染の歴史があり、大東亜戦争中には大量感染があった。石垣島のマラリアは土着ではなくて、より古い時代にオランダ船がもたらした病との説がある。いずれにしても、マラリアを媒介するハマダラ蚊の数が減ってきたことや、蚊がいても吸血を防御する薬剤や方法、あるいは網戸など住宅構造の改善が図られて来たことによって、土着のマラリアはほとんど発生していない。蚊取線香は日本人が発明したものが、線香の原料の除虫菊は長い間、ドイツから輸入していた。今は和歌山県などで栽培されている。 美空ひばりが沖縄をテーマにした歌を一曲だけ出している。「花風(はなふう)の港」という歌謡曲だ。歌詞の碑(いしぶみ)が那覇の港を見下ろす小禄(おろく)の丘の公園にあり、公園の名前をガジャンビラ公園という。ガジャンが蚊であり、ビラが坂だから「蚊の坂」だ。今ではヤブ蚊も少ない明るさで、紅(べに)の手巾(てさじ)を奥歯で噛む如き、永訣の哀愁は更にない。
(つづく)