黒潮文明論    索引  

                   

 34 月は虧(か)け、そして月は盈(み)ちる
           (世界戦略情報「みち」皇紀2670(平成22)年9月15日第323号)

●市場原理主義が絶頂を迎えたそのとき、世界の空港の書店は、ニューヨークの新聞記者が書いた『世界がフラット化した』と題する政治宣伝本を山積みした。一方で、夫人がカナダ総督を務めたジョン・ラルストン・サウルというカナダ人の小説家・随筆家が、「グローバリズムは崩壊した」と警世の本を書いても、当時は、空港書店の片隅に置かれた。去年やっと、国際ペンクラブの会長に就任した。フラット化したとの喧伝とは逆に、空港検問は異常に厳しくなり、指紋を採り、顔写真を撮り、個人情報はどこかへ行って、米国の大学院を卒業したシンパの日本人などが、薄汚い取調室で訊問されて、航空会社の係員が救出する異常が常態化した。世界がフラット化するとの言い方は、黒潮の民からすれば、月食の時には地球の影が月に写り、航海すれば月(ちつきゆう)と地球は同類で、丸いことは大昔からわかっていることで、水平化したとは嘘の託宣できっと陰謀があるか、隠されているに違いないと疑った。
 情報通信が発達して米国内からインドのコールセンターに電話がかかることが日常茶飯事になり、国内の額に汗する労働が外国に移転して、頭でっかちの濡れ手に粟の仕事が残って、山師の様な連中の往来が水平化したとして、諸文明が連結・緊密化したと誤解する礼賛本で、日本でも、翻訳が出されたのは滑稽なことであった。情報通信の技術革新の成果が、仕事がないよりマシだとする経済効果を生み出した程度の内容で、社会経済格差がどう縮小するのか、カースト制度がどう変わるのか、オリーブの園がどう平和に関わるのかといった基本の命題を議論しないで、軍事力を大規模に投入すれば、政治混乱が収束して、経済が活性化して、独裁者が排除されて、繁栄がもたらされるとの単純迷妄の水平化議論であった。西部開拓史の延長で、富士山麓の大沢崩れのように、見えないところで、拝金の勢力が支配するようになってから、却って国の内外でのいがみ合い、争いが急速に増加して来た事実には触れようともしない。レバノンで、キリスト教徒とイスラム教徒が、隣り合わせに甍を並べていて、恋を囁いていた若者が僅かに三〇年前にいたことを忘れたのだろうか。抑圧された者が抑圧者に転ぶことがあるのはそれまでだが、アイヒマンをエルサレムに連行して、裁いた正統性はどこに行ったのか。山上の垂訓は、人はひとりで生きるものではないとの希望を与える。山を下る時の説教だ。マグナムの写真も残る。
●船の往来の頃には、島を離れることが上りで別れのテープが投げられるからわかりやすい。鉄道は東京駅に向かうことが上りで、去ることを下りとした。天頂に向かっては、いかなる方向からも登り坂であるし、去るのは、下り坂である。四方津比良坂(よもつひらさか)と言うが、平(ひら)が実は坂の意味であるから、その頂上の意味と寓意を黒潮の民はすぐ直感して理解できるだけではなく、凪(なぎ)の平らな海面と、時化(しけ)の時の荒れ狂う姿に、平和と戦争、安寧と混乱とを二重写しにして見ることもできる。台風・地震の災害があれば、壊れた住宅街を更地にして、再開発をしてひと儲けを狙うようなカトリーナの時の災害資本主義の動き方はできない。付け加えれば、台風の後先に海岸端に寄せ物を拾いに行って命を無くする振り者(ふりむん)がいるにしても、野分の夜と朝に略奪の話を聞いたことはない。世界の中華街と韓国人街で略奪があっても、日本人街で略奪が発生したことはない。神戸の大震災の時には、長田区あたりで黒潮の民が貧しき人々の風体をしていながら命を投げだして共同体の復興に力を尽くしたことは事実である。弱い者を助ける、道に困る者に頒布することが、任侠道の原点であるが、天頂であれば四方が下り坂だ。ハヌカの夜に家族で集まり、外の通りを悪魔が通り過ぎるのを祈る過越祭の光景を見ただけに、全てがそうではない、偏見に陥ってはならないと自らを窘めてきたのである。地球がフラット化したとする、ニューヨークの袢纏(はやりのはんてん)こそ破綻した。
●「一九九七年になって初めてフランス軍が仏領ポリネシアにおける癌と核実験の関係に関する調査の予算を認めた。国立健康医療研究所が調査を行ない、同年に報告書を提出したが、未だに公表されていない」との記述を読むと、黒潮の民の末裔としてはフラット化の主張が幻影であると断言するだけでなく、黒潮の民の嘆きの救済援助の為に何ができるか自問自答して行動に移さなければならない。ムルロア環礁では一九六六年から三〇年間に約二百回の核実験が行なわれた。多くの男達が核実験の建設現場へ駆り出され、島に残った女達は船が港に着く度に、いつ帰るともわからない男の姿を探し求めたという。ハワイからタヒチまで仏領の島々を結ぶ五千キロの海底通信線「ホノトア」が本年六月に完工したが、上り下りの情報を島嶼を中心に発信されて初めて、波浪の予測、凪と嵐について科学的な予報ができる。黒潮文明は長い旅を続けてようやく足跡を広げる段階に至った。受難を経てアジアだけでなく生き残りの思想を世界に提供できる。日本は上り下りして先導する力強い役目がある。(つづく)?