黒潮文明論    索引  

               

 39 海幸彦山幸彦物語考
  (世界戦略情報「みち」皇紀2670(平成22)年12月1日第328号)

●海幸と山幸の物語は道具を取り替え、山幸が海幸から借りた釣針を失くしてしまうことが発端だ。山幸は泣く泣く海中に戻り、鯛がくわえた釣針を見つける。海神から、潮の満ち干を起こす玉と、洪水を起こす力を土産にもらう。元々は、山を拠点としていた山幸が、海神の娘を娶ることで力を備え、元々の海を司っていた、しかも兄である海幸を従えるようになるという複雑な筋書きの神話である。
 釣針をなくして、山幸が自分の剣を溶かして、針千本を作って返そうとして謝っても海幸が受け取らなかったのは何故だろうかと久しく考えていたが、その失った針というのがやはり、鉄でつくった針ではなく、鹿や猪の骨でつくった針でもなく、ましてや硬い木や香木でつくった針でもなく、夜光貝の殻でつくった針でもなく、人骨で出来た針だったからではないかと思いついた。
 日本では、鹿骨でつくった釣針が知られているが、ハワイ島の南端の先史遺跡では、人骨の釣針がしかも組み合わせ式の釣針として、五千本もの遺物として大量に発掘されている。しかも一様の形ではなかったという。イースター島では、人骨による釣針が普通につくられていて、西洋の宣教師が入るようになってやめた。普通は真珠貝の釣針が多く、おそらく水中ではきらきらと光を反射し魚を惑わすような擬餌針(ルアー)も重宝されているが、ニュージーランドや、イースター島などの真珠貝が余り育たないようなところで、骨を合わせた釣針が発達した。人骨の針は、茶色の干からびたような色であるから、表層の魚を捕まえるのではなく、堅牢な素材として大型の魚をつりあげるのに重宝されたに違いない。ハワイには、骨を取られそうになった男が逃げ込める安全な場所の話や、結婚するために釣針を要求され、父親が足を切って息子の願いを叶えた凄惨な伝説があったそうだ。
 死者を埋葬して、十三回忌等の時が満ちた頃に、白骨を潮(うしゆ)の水で洗って墓にしまい直すのが南島の習慣だったから、海幸が先祖の形見に釣針をこしらえて大事にしていた可能性はある。単に魚を捕るだけの目的ではなく、呪(まじな)いの装身具にしていたのかも知れない。
 横須賀市にある縄文初期の時代の遺跡である夏島貝塚から鹿や猪の骨で出来た釣針が出土しているが、ハワイの釣針と酷似している。材質に違いはあっても、ハワイの組み合わせ釣針の形と見分けがつかないという。夏島貝塚は炭素分析で七千年から九千年前と特定されているが、ハワイの場合には千年前そこそこの産物だから、日本の釣針の方が古い。余談であるが、夏島貝塚では、愛犬埋葬の習慣も確認されている。
 海幸の大切な釣針が、陸地から遠く離れた海神の宮の鯛の魚が引っ張っていって残っていたとの筋書きに矛盾はなく、犬、豚、鶏の明らかに東南アジア起源の動物が三種の家畜として南の島に渡り骨が発掘されているから、鉄の釣針が広がる以前に鳥や豚の骨で海幸が製作した釣針が、縄文の頃から舟や魚によって太平洋のあちこちに運ばれたにちがいない。
●伊勢海老の偕老同穴の話を先回書いたが、海老の天敵はタコである。タコとりの漁具で有名なのが、鼠の囮(ねずみのおとり)と呼ばれる、子安貝をつけた釣針である。褐色の斑がある子安貝の一種から卵形の切片を切り出して椰子の葉の葉肋(ろく)を縛り付けて、鼠の尻尾のように針をつきだしているタコ釣りの道具である。子安貝は、タコ釣りに使われるだけではなく、イカ釣りの囮にもなる。子安貝は別の呼び方で宝貝とも呼ばれる。東アジアの一大産地は宮古島の近くの大珊瑚礁(チービシ)で、清朝西太后がネックレスに使っている油絵が、米国ボストンのハーバード大学燕京(えんちん)研究所の会議室に掲げられていたことも記憶にある。
 宝貝に紐をつけてタコをおびき出すのは今でも有効な漁法である。支那人は宝貝を装身具や貨幣には利用したが、鮹(たこ)の伝統料理はない。鼠の囮は、遠くに針を投げる釣竿とは異なり、手探りでタコやイカをおびき出す感触が魅力である。特に、暗夜にガス燈を点して、珊瑚礁の潮だまりを歩けば、色を変えて囮に飛びかかるタコを捕ることができる。イカはまるで湧き出るように数多く繁殖するから、イカの豊穣の海を烏賊海(いきやうん)といい、墨を吹きかけられないように、囮の紐は注意深くたぐることになる。
 珊瑚礁の内側(ラグーン)の海の畑に当たる場所がイノーであることも先回書いたが、徳之島の井之川(いのかわ)は、イノーに注ぐ川のある集落の名前である。島の一番高い山が、井之川岳だから、海の豊穣が山の高みに結びついていることを端的に表現している。井之川の隣の裏手の集落が久志(くし)で、そこの珊瑚礁の浅瀬で、石打ち漁が行なわれた。大綱引きの時のような網が浅瀬に張られて、板つけの丸木舟(さばに)から、石を木の皮で出来た紐を結わえて海面を叩くと魚は追われて、網が狭められていく。亜熱帯ではシュロの葉で網を作るが、太平洋の島々では、もちろん椰子の葉でつくる。捕れた魚は村の長が公平に分ける。紀州の錦あたりの初夏にかけての黒潮を回遊するブリの捕獲と分配が、全員参加で大敷網を維持する株分けの組合方式で行われているのと同じように、集落は総出の追い込み漁を楽しんだ。これが原始共産の黒潮の海の収穫祭だった。(つづく)