黒潮文明論    索引  

                   

 56 西郷隆盛の南島憧憬
   (世界戦略情報「みち」皇紀2671(平成23)年9月15日第345号)

●以前簡単に書いたが、美空ひばりが歌った唯一の沖縄を題材にした歌謡曲が「花風(はなふう)の港」(西沢爽作詞、猪俣公章作曲)である。レコード会社の倉庫に眠っていた原盤が見つかり復刻されて作品集に入れられた。今ではカラオケに入っている。那覇の港を一望する丘の上の公園に、ひばりファンの石原エミ氏が尽力して二〇〇七年五月に建設した碑が建つ。ひばりの歌は戦後の沖縄の女を鼓舞したという。録音されたことは確認されていたが、市販されていないので名曲も広まらないと、石原氏から原盤を探すように催促された筆者は係累を辿り日本コロンビア社の重役を説得するに至った。発売に至る労をとられた恩人が後日、在京の薩摩・大隅・日向の由緒ある郷友団体会長に就任されたが、これは西郷の敬天愛人の思想に繋がる人事の結果と思い当る。歌詞は一番が、赤いさんごの波散る島を何であなたは捨ててゆくのかと、那覇の港の三重城(みいぐしく)で、紅の手巾(てさじ)を前歯で噛んで見送る女の姿を描き、二番では、船の航跡が(みをのいと)消えてしまえば、二度と会う夢はない、と嘆き、三番で、誰も恨みもしないで、石になっても待ちましょう、と締めくくる。歌には、荘重な王朝風の賑やかな音楽ではなく、黒潮の島々の基調に流れる短調の、裏声が似つかわしい満月の夜の浜辺で演奏するかのような蛇三線(さんしん)の伴奏がある。「花風(はなふう)」は琉球舞踊の雑踊りの名作だ。
●熱海の伊豆山神社の由来については既に書いたが、伊豆半島の下田に近い白浜の海岸に白濱神社と通称される伊古奈比当ス(いこなひめのみこと)神社が鎮座する。ご神木は千五百年の樹齢を数える柏槙(びやくしん)であり、神域は、アオギリなどが自生する森になっている。御祭神は三嶋大神の后神とされ、三宅島の阿古から、伊豆白浜に遷座したとの伝承である。磐長(いわなが)姫命と木花開耶(このはなさくや)姫の母神でもあり、その他、伊豆十島の神々の母でもあり、「天武天皇の御代白鳳十三年十月に土佐国の国の田苑五十余万頃を一夜にして没して海としたまひ、その夕伊豆国西北に三百余丈の地を築出し賜ひぬ」と伝わるから、天災地変の火山活動、地震を鎮める神様である。伊古奈とは古代の東国の言葉で、伊が神を祭る「斎(い)つ」であるから、祭を行なう女性の意味だ。伊豆に通じて厳に至り、対馬の厳原(いづはら)や安芸の厳島も伊豆沼も斎灘も伊豆田峠も、みな神を祭る場所である。三宅島が御焼島であり、御島とか三島と呼ばれるようになり、白濱神社は、明らかに火山の噴火と地震を神の怒りと恐れおののいて遙拝する聖域であることは言うまでもないが、故郷の島に残した係累に関わる祭祀が残る。例祭は一〇月二九日であり、前夜には神社南側の砂丘に伊豆七島を象徴する七基の松明とその中心にある大松明が点火される。中心の松明を火達(ひたち)座と呼んでいるが、神社境内の山、火達山の頂きで、火を起こして、伊豆の島々との交信を行なった。多良間の島には今でも狼煙(のろし)を上げた楼台があるし、沖縄本島の近くで、外国の中距離弾道弾の発射基地があった、今では青少年の研修施設が建つ、渡嘉敷島の丘の上にも狼煙台があったから、何も不思議ではない。例祭の最後の二九日の落日の直前に御幣(おんべ)を流すが、丁度季節風が吹き始める頃であり、島に相模湾の潮に乗せて便りを流そうとする儀式である。伊豆の島々に、花風の港の、紅の手巾を前歯で噛んで石になっても待ちましょうと決意した情熱の伝統が今も残っていることを確かめる例祭であるが、一方で、火山活動と地震に苛まれる島に係累を残したまま、その故郷を捨て脱出してきた三島大神と伊古奈比唐フ悲しさにも想到しなければ、黒潮文明を伝承する甲斐がない。
●西郷隆盛が南洲と号していたことを不思議に思っていたが、最近その謎が氷解した。月刊『日本』七月号に三浦小太郎氏は渡辺京二氏の西郷論である『維新の夢』(ちくま学芸文庫)を紹介して、「明治維新の指導者のうち、ただ一人、近代国家の建設ではなく、政治権力と最も遠いところで生を受け、人知れず死んでいく民の位相を自らの思想の原点としていた。この姿勢は、渡辺氏によれば、西郷の遠島体験に深く根ざしている」との一文に注目している。
 西郷は一回目の島流しでは早く島を脱出したいとしているが、二回目は、島から二度と出ようとも思わないで、「骨肉同様の人々をさえ、ただ事の真意も問わずして罪に落とし、又朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや、馬鹿らしき忠義立ては取りやめ申し候、御身限り下さるべく候」と激しく薩摩藩政を糾弾している。元治元年二月に島を出て江戸に登り、維新の指導者となったが、皇城のつとめが終われば、南島へ帰るつもりだったようである。「獄にありて天意を知り、官に居て道心を失う」とあるから、道の島の体験を原点としたのだ。石になって待った奄美の妻に再会することはなかったが、島に残した子供の将来を案じ、教育を外国友人に托し、京都市長等に大成させたのは代官役人(でさきのこやくにん)には真似できない希有な事だ。憶うに、西郷は白濱神社の御祭神の如く島の精神に学び、永訣と哀愁を孤島幽囚の楽に変ずべく南洲と号したに違いない。(つづく)?