黒潮文明論    索引  

                  

 59 黒潮言語(島言葉)の豊かさ
       (世界戦略情報「みち」皇紀2671(平成23)年11月1日第348号)

●言語は文化の中心から周辺へと伝搬する。柳田國男が「方言周圏論」を論じて「蝸牛考」と題したのは卓抜な命名で、カタツムリの殻のように渦を巻いて言葉が伝わっていく寓意であろうか。長い時間が懸かるが悠久ではない。故郷六〇年と慨嘆するうちにも、あっさりと言葉は変わってしまう。還暦と同様に言葉は、六〇年で世代交代するというのが、体感できる仮説である。沖縄で一昔前は、占領軍の言語を流暢にする者が金門(ゴールデンゲート)クラブなどと名付けた留学組のクラブを組成して、丁々発止の勢があって、英語でちゃんと啖呵を切っていたが、交渉する気力が弱くなって、地元では、方言(しまことば)がラジオの番組の一部になったりと標準語(やまとぐち)に圧倒されている。成人式の日に、ヤッコ(奴)さんのような袴を着て、酒を飲んで暴れている姿を見ると、黒潮の島の誇りある若者がこれでは情けないと眉をひそめることである。強い蒸留の酒ではなく、頭を錯乱させて二日酔いの残る醸造酒を飲む習慣が加わったことを恐れる。ハワイや中南米の移民の間に、昔ながらの首里や那覇の正調の言葉が残っているが、山原(やんばる)や宮古(みやーく)や、奄美や、波照間、与那国をはじめ、その他の島々の独特の方言(しまことば)の運命は推して知るべきで、東京や大阪や神戸に島から出て来て、まさか、自分が方言(しまぐち)を話す最後の世代で、なにか世界遺産にでもなったか、あるいは黒ウサギやハブのように古生代からの生き残りのような感懐に捕らわれるのは、やはり、言語が強い者にまかれて弱者の言語は、亡びてしまう運命にあるかと疑ってしまう。しかし、それでも、その小さな言語が豊かな表現を保持して、どこかにその形跡を残し、人間世界の言語全体が豊になるなら、単に嘆き悲しむばかりではなく、言語文化の伝承に努めようと思うのが、おおらかな島人(しまんちゆう)の気合いである。元ちとせ氏の島唄のコンサートの話を書いたが、月の夜の黒潮の浜辺の悲唄(エレジー)が日本列島から世界に広がっていく可能性も考えられて、おもしろい。
●さて、島の中の言葉のことを言うと、外側から見ると、そんな小さな島の中で、同じだろうと思うと、これが大間違いである。こんなに違うのかと思うほどに、隣の集落と全く異なる言葉が日常生活で使われる。川に橋が架かり、道路ができてバスが走るようになれば、他人の集落にも出かけるようになるが、標準日本語を理解するよりも隣の集落の言葉の方がより難しいこともままある。奄美の徳之島の方言で検証すると、方言の地図を作れば、モザイクになり、実に多様性がある。「この島なりに中心があって、そこから周辺に伝播したらしいことがうかがえる。(以前、代官所があった)亀津(かめつ)がその中心地である」と書いていても、隣の奄美大島の名瀬や古仁屋(こにや)とも関係が無いほどに言語の変化がゆっくりとしていても、隣の集落とのご縁が積み重なって、例えば、通婚が可能になるまでには、それこそ世代がかかっており、男女の糸をたぐり寄せて夫婦が世帯を持って定着してもなお、集落毎の言語の個性が継続している。別の表現をすれば、島がその島なりに「独立国」であり、集落が集落なりに自給自足を果たして、「独立」していたのであるが、交易が進み、相互依存が進んで、ようやく、その独立ならぬ孤立が克服される。
 奄美大島の大和(やまと)村は船で通う陸の孤島であったが、トンネルができて、中心の名瀬から通勤圏になった。祖母が大和浜の教師になってオルガンを弾くために赴任した大正の時代には、船に乗ったという話を聞いたし、記憶が斑になった母親が、鹿児島の女学校に行かずに、奄美の女学校に行ったのは、船酔いのせいで、七島灘(しちとうなだ)を船で越える気力がなくなり、名瀬で中途下船をしたからだと聞いたのも初めてのことだったが、「各集落が、シマと呼ばれる独自の世界をなしている」ことは驚きではない。辺境に古語が残るのは、言語地理学の主要な仮説であるが、徳之島の中でどの集落の言葉が古いかというと、島の南北両端の手々(てて)と伊仙(いせん)のことになる。沖縄では、島の南部を島尻と呼んでいる。豊饒をもたらす神は東からやってくるから、綱引きは、必ず西方に勝たせなければならない、道路の方向ではないと、その沖縄の言い伝えが、ちゃんと徳之島の島尻の綱引きに残っている。
 端的な例であるが、猫は、島の大部分でマユと言うが、ミャウとニャウとの音韻が東海岸から広がっている。膝のことを古語で「つぶぶし」と言うが、徳之島では、ちぶし、ちんしである。奄美大島では、ちぶしである。ナメクジをナンタクジラといい、カタツムリをチンナンディラと言う。パパイヤは、マンジョマイと呼び、別の集落ではモッカというが、パパイヤが入ったのは最近の大正時代である。サツマイモは島の南部できれいに分布して、伊仙でヤンと呼ばれ、他では、ハンシン、ハンジンという。首里ではハヌスと呼んでいるから、本当は、古いヤンと共通語のカライモとは異なる植物だった可能性もある。琉球王国の氏族が島の南部の伊仙に多いせいか、他ではヤーと言うが、伊仙ではウラと言う。下は、シャー(した)と、シュー(しも)の区別もできる。フクロウは、ツクフが古いが、モグラはいない。 (つづく)