黒潮文明論    索引  

                    

  63 日本列島は同一言語圏である
         (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年1月15日第352号)

●西郷隆盛の号の意味を追求してきたところで、洲が「ひし」であり、川の中洲であることに至った。大隅国風土記に隼人の言葉として必志(ひし)と漢字をあてており、現在の鹿児島県の志布志の菱田川の河口に比定されて残っている。熊野大社の旧社地が川中の大斎原(おおゆのはら)だったことにも言及した。南西諸島から台湾に至る島々には、西郷が流された奄美の島々を含めて、珊瑚礁が潮の干満で水面上に顔を出す部分を特定して「ひし」と呼んでいる。沖縄では、これがpの音になり「ぴし」となる。珊瑚礁の内側の海水は、日の光を浴びて、エメラルドグリーンで輝くようであるが、珊瑚礁の沖の深みの海水の色は、コバルトブルーである。海と陸とが訣別する場所が色で区別される。「ひし」は言わば、海と陸との中間地帯で有り、満潮の時には海となり、干潮には陸になる。陸に谷間があるように、珊瑚礁の切れ目もあり、そこは口と呼んでいる。沖縄の那覇港には、出入り口が三つあって、やまとぅぐち、とおぅぐち、みやこぐちがある。それぞれが、帆船の時代に、大和や、唐や、宮古島に出て行く港の出入り口の名前として今に残る。「ひし」と海岸との間の潮だまりを「いのー」という。夜の珊瑚礁の漁労を「いざい」と呼ぶが、アセチレンのガス燈を点けて足で珊瑚礁の白砂をかき分けていき、車エビが尻尾の方から夜光を放って水中を後ずさりして砂の中から飛ぶように逃げるところを網で掬う。夜光虫がルシフェリンの光を星屑を散らすように放つ。沖縄に与那原(ゆなばる)という地名があるが、これは、珊瑚礁の死骸が砕けて砂になって打ち寄せた砂の原の意味だ。ユナが砂だから、「いのー」の透き通った潮だまりの海底は純白の砂地である。貝や海老が住む海の畑(はる)である。
●本当に驚いたのであるが、「ぴし」は、アイヌ語の浜辺を意味する「ぴす」と一致する。アイヌ語の「ぴす」から出た言葉に、「ぴそい」があるが、これは、魚の腹の線、手刀にもちいる小指から手首までの外側の線、足の小指からかかとまでの外線、それに、磯辺を意味するから、要するにアイヌ語の「ぴす」は、外縁部を表していることになる。「ひし」は、「きし(岸)」にも通じていることは、pからk、kからh、hからpとの変化が想像できる。その変化は、坂を意味するアイヌ語がぴらで、それが、古事記のよもつ比良坂のひらになり、ひらが奄美では「しら」になり、徳之島の松原の坂の名前はしるしんしら(海から眺めて澪標(みおつくし)の坂の意か)と呼ばれ、美空ひばりが沖縄を唄った「花風(はなふう)の港」の歌碑が建つ那覇港を見下ろす小禄(おろく)の公園はガジャンビラ公園、つまり蚊の坂公園の名前である。宮古島の平良(ひらら)は、当然のことながら坂の多い集落を表現している。
●「いのー」は礁池であるから、浅い天然のいけすの様でもある。珊瑚礁の切れ目があり、そこか魚がウニやナマコや、タコが住む。針を使わないで、貝殻に紐をつければ、タコがとびついてくる漁法があると思えば、魚が酔う草木があって、それをすりつぶして、その潮だまりに撒けば、魚がふらふらになって浮き上がってくると言う具合だ。子供が大人になる通過儀礼で、魚の骨を喉にひっかけないようになることが元服の印として食べるのが「しゅく(すく)」の魚である。アイゴの稚魚である。不思議な魚で、珊瑚礁の潮だまりに寄ってくる日が毎年決まっていて、最初が、旧暦の六月一日の前後の大潮の日である。「さらゆい」と言う。天気が不安定であるが、夏を告げる南からの風波が珊瑚礁の池に魚を送り込む。二度目に天然いけすに寄せるのが、旧暦の七月一日前後の大潮である。「あきぬっくゎ」という。あきとは、稲の収穫のことである。大群が押し寄せる。老人や子供でもとれる。三度目の寄りは、旧暦の八月初めの大潮である。「またべぬっくゎ」と呼ぶ。「またべ」とは、一度刈り取った稲の株から生えて来たひこばえのことで、「くゎ」は子供。ちなみに、沖縄民謡で、「たんちゃめ(谷茶目)の浜にするるぐゎーぬゆ(寄)てぃち(来)んどおぉえぇー」との歌の「するる」は魚の「きびなご」である。
●言語の変化の規則性が見いだせない時代には、沖縄と日本本土の言語が異なるものであり、異民族であるとする言説が横行した時代があった。アイヌ語と日本語と琉球語とを、それぞれ異系の言語として大日本(おおやまと)の国家統合を分断する策謀を感じる。東京の環状線の電車の中で、どちらの国から来られましたかと聞かれたのでは、外国軍隊に占領された南方同胞ですと答えるわけにもいかなかったが、琉米和親条約を別の条約にした根拠が無いことを言語学という科学が解決することになった。沖縄は日本語の大系の一部であると、言語学が決着をつけた。単に外形だけをごまかして、ペリー提督が来たときにわざと支那服を着せたような滑稽なことが二度とあってはならない。アイヌ語と日本語との違いもそんなことではないだろうか。アイヌ語も、日本語も、沖縄を含む南島の言語も、長い時間を経て、枝分かれをしただけではないのか。「洲(ひし)」が、南と北で、海陸を繋ぐ磯辺の原で豊饒を神に祈る場として厳然としてある。