黒潮文明論    索引  

                   

 66 島の人々の渡来地が邪馬台だった
           (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年3月1日第355号)

●黒潮の流れに沿って、島々が点々と連なる。与那国島から波照間島、黒島、新城島、西表島、小浜島、竹富島などの八重山群島と呼ぶ島々と、下地島・伊良部島や大神島と来間島・池間島・宮古島からなる宮古諸島との間には、水納島・多良間島がある。宮古島から、沖縄本島までは四〇〇キロの距離がある。沖縄本島から九州までも「道の島」と呼ばれるように、次々と島伝いである。奄美でも沖縄でも、種子島と屋久島以北をヤマトゥと呼んでいるが、内地や本土などと呼ぶのは植民地風になってからで、本来はシマとヤマトゥを並列した。奄美群島とは、与論島、沖永良部島、徳之島、加計呂間島、与路島、請島、喜界島、横当島である。沖縄県に今では所属しているが、徳之島の西方にある、硫黄鳥島も奄美群島に含まれる。北緯二九度と三〇度線の間にある島々が、吐噶喇(とから)列島である。宝島、小宝島、悪石島、臥蛇島、諏訪之瀬島、平島、中之島、口之島などがある。口之島の北端を北緯三〇度線がかすめている。北緯三〇度の北には、屋久島、口永良部島、黒島、硫黄島、竹島、馬毛島、種子島がある。そして、大隅海峡の先には、佐多岬があり、薩摩半島の先には、開聞岳があり、薩摩富士と呼ばれるコニーデ型の流麗な山の先に長崎鼻が突き出ている。山川という噴火口が水没した天然の良港が、指宿(いぶすき)の先にあり、頴娃(えい)、枕崎がある。遣唐使の時代からの港だった坊津も薩摩半島にあるし、笠沙の宮に比定される岬もある。枚聞神社は、開聞岳を拝むように建てられているし、開聞岳を眺望できる距離に船が入ると、波静かな錦江湾の入口を示すことになるから、長旅の緊張や風波の恐怖や航海の不安から解放されることになる。シマからヤマトゥに到達したと実感する瞬間を持つことになる。種子島や屋久島は鹿児島県の熊毛郡となっているが、大隅国に属していた島である。日向の国は今の鹿児島県と宮崎県の地域が合わさっていた地域で、日向が大隅と唱更(はやひと)と日向国に三分割され、唱更が薩麻(さつま)となり、後に薩摩国となっている。隼人の本拠地が今の志布志の方面にあったのではないか、祈る場所のヒシとは、隼人の言葉であると縷々書いてきた。ちなみに、今の徳島県の南部の、その昔の海部郡に薩麻郷があったとの記録が残っているから、阿波の忌部氏が、海部と呼ばれる航海の専門家集団とともに、黒潮の流れに乗って北の安(あ)房(わ)に抜けて下総(しもうさ)、上総(かずさ)の国を作りながら、移動していったことはもう明白な歴史の事実となって理解されているように、今の徳島県の阿波(あわ)や海部(かいふ)の人々が薩摩半島と往来して、薩麻の国をつくったことが想像される。ちなみに、今の千葉県は安房の国と、下総、上総の三つの国から成っているが、総(うさ)とは麻を意味する。麻生と書いて「あそう」と発音して読むことからもソが麻の衣を意味すると分かるが、熊襲のソも麻衣との関係を伺わせる。ソに龍の衣という字をわざわざ当てたのは、薩は「邦産みの植物」で、その麻で紡いだ高貴な白妙の衣を着るからである。
●栃木県の小山市の生涯学習センターで、阿波忌部の研究者が講演会を開いたが、小山市内には安房神社がちゃんとあって、しかも粟や麻を栽培していた農家が近辺にちゃんと今に残ることは驚きであった。関東の北部の平野を西から東に貫流して常陸に抜ける川の名前が那珂川で、徳島の南部にも那珂郡があるように、四国の阿波との繋がりが色濃く残っている。ちなみに、宮崎県の砂土原の近辺も昔は那珂郡と呼ばれていたが、阿波の海部の人々や忌部の人々は、北に移り住んで安房国をつくり、南に移り住んだ海部の人々が日向の一部の今の宮崎県に所縁の地名を残していることになる。小山市の安房神社は今の千葉県の安房から勧請されたというが、その先は四国の阿波で、粟の作物と関係することは間違いない。安房神社の御輿は、普通の御輿ではなく、粟の茎と実で屋根を葺いてあるし、地名は粟の宮という地名である。
●大和朝廷は神武東征があって後に今の近畿の大和(やまと)を都としたことは言うまでもないが、故地とされる日向は今の宮崎県にとどまらない。神武天皇の故地の日向は、後世の薩摩、大隅、日向の全てを含むことになる。シマからの航海で到着する場所こそがヤマトゥであれば、元々の神武東征以前のヤマトゥは薩摩半島であり、大隅半島であり、あるいは、今の宮崎県の地域であることになる。鹿児島神宮も、霧島山をご神体として拝殿が作られており、神代の昔の三山陵と呼ばれる重要な古墳や陵(みささぎ)が実際に薩摩と大隅と日向に存在する。大和三山とは奈良の盆地に浮かんだ島のような「畝傍山」「耳成山」「香具山」のことであるが、元来は、耳成山とは開聞岳のことで、薩摩国を意味し、香具山が櫻島の大隅国を代表し、畝傍山が霧島山の日向国を象徴していたと考えれば、分かりやすい。邪馬台国が今の薩摩と大隅と日向が合わさった南九州の土地にあったとすれば、邪馬台国が黒潮文明の強い影響下にあって、大陸文明とは異相の国であったことが容易に理解できる。邪馬台国とは、シマの人々が呼ぶヤマトゥのことだったのである。(つづく)