黒潮文明論    索引  

                 

    76 クスノキの船
   (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年8月1日第365号)

●沖縄特産品として土産物店に並ぶ枕は、クスノキの一枚板をくりぬき、細工をして二枚の板が絡み合うようにして、枕になるように拵えられている。本島南部の南原町の工芸所で年間二〇〇〇個ほどが製作されている。枕は、西洋風に頭を支えるようになってから柔らかい枕が殆どになってしまったが、髷があった時代には、むしろ首を支える箱枕が殆どで、中には、硬い丸太を半分にしただけで木の塊のままの枕もあった。クスノキを細工した枕は、柔らかくはないが、芳香が漂い、安眠を誘い、蚊や蚤などの虫除けにもなり、枕は長く使用しているとダニが発生するから、クスノキは衛生を保つ為にも好都合の素材である。炎天下で舟にのり、沖合で漁労をした後に、クバの傘を直射日光からの日よけにして顔を隠して、クスノキの折りたたみ式枕を取り出し体を横にして、波のたゆたいに舟を任せて居眠りをすることも、黒潮の民の至福の一瞬であったことを想像する。南島では、居眠りのことをユニブイと言い、居眠りをすることをユニブイを漕(こ)ぐと言う。波の正弦カーブの周期に対する感覚が黒潮の民の記憶に残り、生と死の境界にあるようなまどろみの状態を、無意識に舟を漕いで波を乗り切ることのように形容している。
●クスノキは造船の素材として最適である。日本書記によれば、素戔嗚尊は、髭から杉、胸毛から檜、尻の毛から槇(まき)、眉毛からクスノキを生成したのであるが、杉とクスノキを木製の船である浮宝の材料として、檜は瑞宮(みずのみや)、つまり立派な宮殿の材木とし、槙は葬送の棺にすると用途を定めている。古事記下巻の仁徳記には、今の大阪府高石市富(との)木(き)を流れていた川の西に巨木があって、朝日が当たれば、その影が淡路島に達し、夕日が当たれば、その影は、大阪府と奈良県との県境をなしている高安山を越えたと書いている。その木を伐って船を造ったら、快速船だった。その船の名前を枯野(からぬ)と呼んだ。この船を使って、朝夕淡路島から清水を汲んで天皇に献上した。この船が破れて壊(こぼ)れたので、塩造りの燃料にして、焼け残った木を使って琴をつくったが、その音は、七里に響(とよ)む音色だった。歌にも残り、「からぬを、しほにやき、しがあまり、ことにつくり、かきひくや、ゆらのとの、となかの、いくりに、ふれたつ、なづのきの、さやさや」とある。高石市富木には等乃伎(とのき)神社があるが、その位置は古事記に書かれた高安山から夏至の日に太陽が上がり、冬至には大阪の霊峰金剛山から朝日が昇るという特殊な位置にあり、真東に三輪神社、長谷寺、室生寺、伊勢神宮があり、太古からの意味のある緯度の上に位置する。巨樹がクスノキであったとの記述はないが、船の材料にして、燃え残りから琴をつくったとあるから、クスノキであった可能性が高い。日本書記には「応神天皇五年十月に伊豆国に命じ長さ十丈の官船(みやけのふね)を造らせた」とある。長さ十丈というと、三〇メートルにもなるから巨船だ。その船の名前も枯野(からぬ)としているが、当て字である。狩野川沿いの丘の上に、延喜式の古社である軽野神社があるところから、枯野が軽野となり、軽野が狩野(かの)川の狩野となっていったに違いない。実際に、伊豆半島には、クスノキの巨木があちこちに今も残ることは既に書いてきたとおりである。崇神天皇に献上した巨船を建造した場所も、西伊豆町仁科の入江に鍛冶屋浜の地名で残っている。鉄をつくる人々が住み、剣を鍛えた地名だ。昨年の六月一日号(第三三九号)にも書いたが、常陸国風土記には、「軽野(かるぬ)より東の大海の浜辺に流れ着いた船があった。長さは十五丈(約四五メートル)で、内側の幅が一丈あまり、朽ち崩れて砂に埋まって今に残っている。天智天皇の御代に、朝廷の統治下に入らない東北奥地の探検調査をさせること、国覔(くにまぎ)に派遣しようとして、陸奥(みちのおく)の国石城(いはき)の船造りに令(おほ)せて、大船を作らしめ、ここに至りて岸に着き、即て(やがて)破れき」とある。前号で、クスノキの太平洋岸の北限を尋ねる小旅行記を書いたから、いわきの海岸に人手で植えたクスノキの巨木があり、その木を使って造船が盛んに行なわれた光景が実感できて納得できる。ちなみに、常陸風土記では、香島郡の海岸の軽野の南に童子女(うなゐ)の松原があり、そこに住む、歌垣で出会った若い男女の恋物語を記録している。歌垣(うたがき)は、黒潮の民の通過儀礼の習俗である。播磨国風土記逸文には、造船の為に伐られた巨木がクスノキであることが特定されており、「明石の駅家(うまや)の駒手の御井(みい)は、第十六代仁徳天皇の御世に楠が井戸の辺に(ほとり)生えた。その楠は、朝日には淡路島を陰(かく)し、夕日には大和嶋根を陰しました。その楠を伐って舟に造ったところ、その早いこと飛ぶようで、一楫(かじ)で七つの波を去(ゆ)き越えた。そのため早鳥と号(なづ)けた。そして天皇の御食事用の水をこの井戸から運んだのですが、ある日、御食事の時間に間に合わず、歌を作って、水を運ぶことをやめた。その歌は、住吉(すみのえ)の大倉向きて飛ばばこそ 早鳥と云はめ 何か早鳥」とある。相模国風土記逸文には「足軽(あしがら)山の神杉を伐って舟を造ると、他の山の木で造った舟と違って舟足が軽く早いので、足軽の山と名付けた」とある。 (つづく)