黒潮文明論    索引  

                 

  77 黒潮の民の植林と育林
    (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年9月1日第366号)

●クスノキは、朝鮮半島では巨木になれず、沿岸部と済州島に僅かな植生があるにすぎない。飛鳥時代の日本の仏像は、クスノキを彫刻したものが殆どであるから、渡来仏ではなく日本で彫られた。クスノキが、飛鳥時代の仏像の素材になぜなったかについては、もともと仏像が金銅でできていたから、金属の堅い素材のように見えるクスノキが重宝されたとの説である。法隆寺夢殿の観音や、法輪寺の虚空蔵菩薩、中宮寺の弥勒像などを見ると、木彫像ではあるが、金銅仏に近い硬さが感じられる。法隆寺の百済観音にしても、百済伝来の由緒であったが、素材がクスノキであることが判明してから、日本で彫刻された可能性が高まった。百済観音は、浅くて硬い彫法と強い直線的な衣紋の様式に、当初は鮮やかな色彩が重なっていたとすると、木彫の柔らかさはない。金銅仏の趣が強い仏像である。法隆寺の四天王像もクスノキであり、木彫仏よりも金銅仏のように見える。朝鮮半島では、仏像の材料としてクスノキの代わりに、アカマツが使われた。ソウルの南大門がアカマツでできており、火事で焼けて再建しようとしたときに、韓国内で大木を入手できないので、北朝鮮の山に残るアカマツを入手したいと、韓国側から敵対関係の北朝鮮に依頼したことがある。飛鳥時代の仏像を代表する国宝の弥勒菩薩が、京都の太秦の広隆寺に二体あある。宝髻弥勒は朝鮮渡来で、宝冠弥勒は日本で製作されたとの説であったが、前者の素材がクスノキで、後者の本体はアカマツが素材であることが鑑定されて逆転した。脚の部分がクスノキであったから、全体がクスノキであるとの思い込みがあったが、顕微鏡での鑑定は予想に反して、宝冠弥勒はアカマツでできていることから、朝鮮からの渡来仏である可能性が高まった。法隆寺の「玉虫の厨子」は、装飾に使われている玉虫の羽を調べて見ると、日本産の玉虫のものだという説が出されている。ともあれ、アカマツが彫刻の素材になる感覚は日本にはない。五葉の松は、ヤニが少なく柔らかであるからヒノキの代用品として仏壇になる場合もあるが、アカマツは、刃物の刃をこぼつだけの代物だとの感覚が日本にはある。朝鮮の螺鈿細工の箪笥などは、アカマツが素材で美しいものではあるが、木目を塗り固めてあるのが普通であり、木の素材の表面の美しさを愛でることはない。
 日本での仏像は、奈良時代に入ると、ヒノキやカヤを素材にするようになる。槇(まき)は、日本書記では葬送の棺桶にする木材であると書いているが、槇は朝鮮半島にはないから、百済の王陵から出土した高野槇の棺は日本の列島から運ばれたことになる。済州島にはカヤの林がある。江原道には、アカマツが残っている。いずれも保存林とされている。
 戦前の日本は朝鮮半島で植樹祭をやっていただけに、森林がどうなったか関心があるが、金日成将軍は、段々畑を造成するために山林を伐採してしまった。七〇年代から始まった「全国土段々畑化」政策によって山々の頂上まで切り開いて段々畑にした。農業生産が拡大するように思えたが、実際には水害の原因となり、その段々畑で工業原料のトウモロコシを栽培し、民族の主食を日本や中国と同様にコメだったものをトウモロコシに転換した。トウモロコシは水稲の三倍の肥料を必要とするから、肥料生産が追いつかず、肥料が不足して、土地が痩せた。白頭山か金剛山からかの丸太が、大型のトラックに乗せられて、鴨緑江に架けられた橋を渡って続々と支那に輸出されているテレビ番組を見たが、植民帝国が新大陸で大樹林を伐採して原住民を殲滅し、土地を収奪して粗放農業を展開したのと同様の人災が発生したことが想像される。鎮守の森の智恵は、共産主義傀儡体制のパルチザンには縁がなかったと見える。
●鹿島と香取の神宮について以前に触れたが、「東国三社」と崇められているもう一つの社に参拝した。茨城県の南端の神栖市にある息栖(いきす)神社である。近辺は鹿島臨界工業地帯が造成され、港公園の展望塔から眼下の地形を眺めれば、古代には沖洲であったところが陸続きになり、段々と聚落ができたことが分かる。常陸風土記は、「香島」神郡ができたのが約一三〇〇年前の大化五年で、「於岐都説(おきつせ)神社」はそうした沖津洲、沖洲の聚楽のなかに応仁天皇の御代に鎮座、大同二年(八○六)に現在地に遷されたとする。
 地盤は巨木が育つのには向かない砂地だから、息栖神社には、クスノキの巨木はない。鬱蒼と茂る巨木ではないが、古い古い木が植わっている。風で倒れた杉の木を加工した板は、毎年の成長が遅いから、ヒバの木かと見まごうほどに年輪が詰まっていた。山際の杉より遙かに緻密で強度がありそうだ。船の材料としてもってこいである。イヌクスと呼ばれるタブの古木もさりげなく今に残る。黒潮の民は、沖洲の砂地に土を盛り肥料を加えて、鎮守の森で杉やタブの木の植林と育林とを営々と続けた。息栖神社の主神は、鹿島、香取の大神と共に国土経営にあたった岐神(くなどのかみ)であり、相殿には、鹿島大神の船旅の先導をした天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と海上守護と漁業の住吉三神を祀っている。(つづく)