黒潮文明論    索引  

                 

  79 羽黒山と将門公息女如蔵尼
       (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年10月1日第368号)

●出羽三山とは月山、羽黒山、湯殿山の三山をいう。それぞれに、月山神社、出羽(いでは)神社、湯殿山神社の三社があり、修験道の行場となっている。頭巾をつけて戒刀をたばさみ、法螺貝を吹いて、修業して歩く山伏の姿は、すぐに羽黒山伏を思うほどである。判官義経が、羽黒山伏に身をやつし、奥州へ落ちた物語は勧進帳の名場面として余りにも有名である。三社はそれぞれ独立した神社であるが、その祭祀の奉仕や社務は、羽黒山麓の手向(とうげ)の社務所において行なわれてきている。豪雪地帯だから、羽黒山神社とも呼ばれる出羽神社が里宮の役割を担ってきたのだ。
 さて、湯殿山神社は、湯殿山の中腹の薬師岳と品倉山との峡谷を流れる梵字川の畔に鎮座するが、社殿は全くない。原始の姿である。一切の人工が禁じられてきて、悠久の太古から、湯の滝が行場となっている、真に神秘的な場所である。湯殿山のご神体は、温泉が湧き出ている赤褐色の大岩であり、参拝者は入口でお祓いを受け、素足になって参拝し、ご神体の岩にのぼって御利益を直接肌で感じ取る。熱いお湯であるが、火傷をするほどではない。足の裏に熱気が直に伝わって来る。青森に恐山があり、イタコが霊を呼び寄せて、幽明界を超えて話を成立させる原始の世界に、仏教の合理性や修験道の禁欲が加わって、神仏習合で一層霊験あらたかなたたずまいとなっている。
 芭蕉は、湯殿山山中のことは他言が禁じられているから筆をとどめて記さずとしながらも、

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

と詠んでいる。出羽三山では、羽黒山が現世、月山が死の世界、湯殿山が再生を意味する。湯殿山神社は、大山祇(おおやまつみ)命、大己貴(おおなむち)命、少彦名(すくなひこな)命の三神を祀っているが、大山祇命は、大水上神と呼ばれるように、川の源である深山幽谷に鎮まる神様である。他の二神は、協力して国土を開拓して民生を進め、医薬の祖神とも仰がれているから、湯殿山が、三山の奥の院と称される。羽黒修験道の極意の山にふさわしい高嶺霊異の地にある。
 千人沢という参詣所があり、そこまでは鶴岡からバスも走っているのだが、それから、一一〇〇メートルの行場までは歩いて登る。その参詣の道すがらは撮影禁止である。湯殿山神社の参詣所の近くには、大鳥居が建てられているが、近年になって建設されたものであるが、その方角が、北を向いてはおらず、おそらく西方を向いているように建てられているのは、湯殿山の信仰を求めた人々の故地があった方角を指しているに違いない。越前の泰澄が開いた白山、特に白山比咩(ひめ)神社の方向を向いているのではないかと想像しているが、泰澄こそ熊野、吉野、大山に並ぶように由緒を飾って羽黒山を開いた人物である。羽黒山の本社への登山道で、五重塔に至る手前の高台に、白山を遙拝する場所があるが、出羽三山の開山が、白山の修験道と出自が深く係わっている証左ではないかと想像している。以前に、深浦の円覚寺のことを書いたが、そこも白山修験道との縁が深いことは指摘しておいた。
 湯殿山では山伏装束が売られていたが、法具の法螺貝を製作販売する店もある。吉野の金峯山と同じように、貝殻は南の海から運ばれてきたものに違いなく、法螺貝の音とは黒潮の海潮音を再現しようとするものであったかと、改めて気づいた次第である。ちなみに、出羽神社のご祭神は、出羽国の神である伊氐波(いでは)神、すなわち稲倉魂(うがのみたま)命を祀っている。伊勢の外宮の豊受大神や稲荷大神と同じ神である。最上川は出羽三山と朝日連峰に源を発し、広大な村山、最上の盆地にとどまらず、庄内平野を貫き流れて灌漑し「美稲(みしね)刈る出羽国」という枕詞にあるように豊饒の大地をもたらしている。
●古代の出羽はもちろん蝦夷の国で、天武天皇一一年(六八三)になって初めて田川郡が置かれた。出羽三山を開いたとされる蜂子皇子は三二代崇峻天皇の第一皇子であったが、聖徳太子の薦めで仏門に入り弘海と称し、推古天皇の元年に出羽国の由良の港に着いたとの伝説があり、三本足の大烏に付いて行くと、老樹の鬱蒼とした霊山に着いて、そこが羽黒の阿久谷(あこや)であったという。大烏の羽の色にちなんで山を羽黒と名づけたとの伝承がある。烏に道案内をされる話は神武天皇が熊野から大和に入るときの筋立てと同じである。
 その蜂子皇子の墓は東北に残る唯一の皇族の御墓として羽黒山神社の神域にある。羽黒神社の神が玉依姫であるとの一説もあり、羽黒では左神子(ひだりみこ)や寄木神子(よりきみこ)が湯立てを行なって、全国の巫女を支配してきているのは興味深い。後世になると巫女が男の神官と入れ替わることがある例を、朝鮮半島の堂で見てきたから尚更である。芭蕉が羽黒山に詣でたころにはまだ大木の杉林がなかったから、木々に遮られることなく月山を羽黒山の境内から遠望して遙拝できたようだ。平将門は延長四年(九二六)から二年間を費やし羽黒山の社を造り替え五重塔を創建したが、今は巨木の「爺杉」も当時はさほどではなかった。将門公の息女如藏尼が相馬から羽黒山に来て住み、ここで没したとあるから、太平洋の海岸と日本海側の出羽三山とは往古から縁故・由縁・往来が確実にあったのである。(つづく)