黒潮文明論    索引  

                 

 83 鎖国日本利尻島に渡来した米国人
         (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年12月1日第372号)

●利尻島と稚内を往復するフェリーは、観光シーズンが終わったらしく、乗客が急速に少なくなったせいか、一等船室のある上部甲板は立ち入り禁止にして階段には鎖を張って閉鎖していた。宗谷岬では海鼠の漁が一段落して船を陸に揚げたと聞いていたが、札幌に出稼ぎに行く若い男女が、むずかる幼児をあやしながら、縦の動揺(ピツチング)を繰り返す船首(バウ)の部屋に体を横たえていた。飛行機で行けば船酔いもしないのにと妻は夫を相手に頻りに愚痴を言っていたが、荒波と大揺れが治まり、下船する頃には、新天地への旅に赴く黒潮の民の若夫婦の、覚悟のできた顔になっていた。
●鴛泊の港の夕暮れは、通りに猫の仔一匹、人っ子一人見かけなかった。小泉政権の時に、新自由主義の政策を偉大なイエスマンと呼ばれつつ強行した幹事長(当時)のポスターがあちらこちらに張られていた。次の選挙に立候補しないと新聞発表されていたから、まだ写真を貼ったポスターが残っていることが不思議に思われたが、地元のタブロイド新聞では、北海道議会の議員が、後継者には世襲させた方が政治資産を承継できるともっともらしい意見を述べていた。社会の弱体化と孤立化をもたらし、人間関係をバラバラにして原子(アトム)化を推進する新自由主義の虚妄の政治経済政策のお先棒を担いだ政治家が北海道北辺を地盤にして生まれたのは、外国の帝国主義的な拡張主義の時代に対馬海流の北端に我先に国力を誇示する捕鯨船が殺到した時代を考えれば、その社会現象の基はどこかで通じている。北海道は北辺であるばかりではなく、国内で賃金が最も低い地域が広がり、格差社会が容認され、夕張のように制裁すら受けた。新自由主義の政策をしゃにむに礼賛した政治家が北海道で有力になったことを奇異に思う向きもあろうが、外国勢力が海から入り込みやすい地理上の特徴から、その手先が蔓延ったとすれば不思議ではない。
 構造改革論が華やかなりしさなかに規制緩和の問題を取り仕切っていた経済人が、「島で食えなければ大阪にでも出て、大阪で食えなければ東京に来て、東京で食えなければニューヨークにでも行けばいい」と暴言を吐いているのを沖縄のテレビで見た記憶があるが、黒潮の流れが対馬海流となって分け入ったその最北端の利尻の島民に対しても、新自由主義は政治家のポスターを掲示して威圧を続け、世襲の仕組みで勢力の温存を画策し続けていることが、実際に出稼ぎの為に島を離れる家族が恒常化する典型をフェリーボートの乗客に発見することができた。小泉・竹中政治の新自由主義の強権を民主党政権に引き継ぎ、姿を変えて維新・革新の勢力として温存しようとする謀略が実行されている。
●鴛泊のホテルの大浴場へ降りる階段の踊り場の硝子ケースに「ラナルド・マクドナルド」の資料が展示してある。ペリー来航五年前に鎖国日本に憧れて、捕鯨船の母船から小さなボートに乗り移り、密航して単身利尻島に上陸した米国人である。マクドナルドを題材にしたのが吉村昭の長編歴史小説『海の祭礼』(文藝春秋、一九八六)である。
●さて、ラナルド・マクドナルドはオレゴンのアストリアでスコットランド系の白人の父親と、アメリカ原住民チヌーク族の母親の間に生まれ、白人にはなれない混血の子供として、親戚からチヌーク族のルーツはアジアにあると教えられて、日本に憧れを募らせた。音吉を含む三人の日本人漂流民との出会いも輪をかけた。
 当時レッドリバーと呼ばれた今のカナダのマニトバで教育を受けて、父親の言に従って銀行員をしていたが、捕鯨船プリモス号の乗組員となり、三年後(一八四八)北海道西部の海域に達したところで、ボートで日本に単身上陸を試みた。日本が厳しい鎖国下にあることは素より承知し、密入国は死刑になる可能性があるとも説得されたが、マクドナルドは応じなかった。
 最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが無人島だと思いこみ、再度船を漕いで七月一日に利尻島に上陸。漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させ漂流者を装ったという。利尻島のアイヌと一〇日ほど暮らした後、島の別の場所で二〇日間拘留され、後に宗谷に、次いで松前に送られ、更に長崎に移送された。崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの一〇ヶ月の間、ここで通詞に英会話を教え、本邦最初の英語教師となった。幕末日本で米国との交渉に通詞として活躍した森山栄之助、堀達之助など一四人に教えた。翌年四月、ジェームス・グリンを艦長とする軍艦プレブル号が難破した捕鯨船の乗組員の引き取りの為に来航、他の一四人と共に帰国した。
 グリン艦長は日本との条約締結が平和的に行なわれなければ、力ずくでと主唱していた。マクドナルドは、議会に手紙を書き送って、日本の文明が高い水準にあり、日本社会が秩序正しいことを紹介している。日本でのマクドナルドの扱いは終始丁寧だったから、マクドナルドも死ぬまで日本に好意的だった。
 マクドナルドの業績は、生前は知られることなく、死後二九年経った一九二三年に出版されたマクドナルドの手記『日本回想記』によってようやく世に知られることになった。(つづく)