黒潮文明論    索引  

                    

 84 黒潮舟サバニの伝搬と発展
     (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年4月15日第380号)

●アイヌの舟がどんな形をしていたのか、名残の舟を求めて利尻島の海岸を巡った。車を漁港に乗り入れて、引き揚げてある漁船のいくつかが伝統の舟の形をしていることをすぐに発見することができた。アイヌ語で丸木舟のことをチップと言う。海で使われた大きな舟はイタオマチップと呼ばれた。舟敷と呼ばれる丸木舟に波を避ける羽板を縄で綴じた「板綴り舟」で、江戸時代に記録された古文書に絵が残されている。櫂と帆とを使って航行している図画も残っている。東北地方では小型の舟のことをモジップと言うがアイヌ語で小さな舟という意味である。イタオマチップの模型を収蔵している施設も北海道の内外にある。利尻島の海岸に置かれた舟は素材がプラスチックになっているが、舳先が尖って艫に向けて広がる、横幅で安定を図る構造になっていて、古い時代のチップと共通の形を残していた。
 利尻島の舟を見て、江戸に伝わる有名なニタリ舟のことを思い出さない訳にはいかなかった。それは風が出ればすぐに波が立ち、波が立てば高波になる東京湾で用いられた細身で剣のように細長い形で、安定した航走を見せる形の舟である。葛飾北斎の富岳百景の中の「神奈川の富士」のように大波の中を何人もの乗客を乗せて、高い波をかいくぐるかのように航走するニタリ舟の構図の版画がよく知られている。釣り船のニタリをもっと舳先を長くしたのが、チョキやウタセ(底引き網で漁をする帆船で、三本の帆柱に中国式の帆を用いたもの)と呼ばれる舟である。ウタセは、東京湾では失われてしまったが、九州の八代などにはまだ残っており、冬の間にも観光客を相手にして、帆を上げて網を引っ張り漁撈をする舟が何隻かちゃんと現役で仕事をしている。
●ちなみに、明治四五年(一九一二)七月一九日午後。サンディエゴ北郊のフラットロック海岸に、四国の八幡浜の保内町川之石出身の船長吉田亀三郎をリーダーとする五人(魚崎亀吉、清水金次郎、河野鹿之助、河野楽末)の姿があり、同年五月五日に住吉丸というウタセ舟で川之石港を出発してシアトル市を目指し、七六日後に目的地より南へ二〇〇〇キロ離れたサンディエゴに到着している。住吉丸の航海は、知られている限り、日本人が個人の船で自主的に成し遂げた最初の太平洋帆走横断である。大正二年にも、一五人の乗組員が長さ一五メートルほどのウタセ舟で八幡浜を出港し太平洋を横断する冒険に成功している。途中暴風雨に遭って沈没の危機にさらされながら五八日目に一万二〇〇〇キロも離れたアメリカ大陸に到達したのだ。一五人は密航者として強制送還されたが、太平洋横断を行なう者が絶えなかったことには驚かされる。
●さて、日本のヨット設計技術者である故横山晃先生が、ニタリと沖縄の剥ぎ船であるサバ二との間に共通性があることを解析している。共通点は、舟の前部で浅く後部で深く、その最深点は水線長の四分の三の位置にあること、舟の中間から前部にかけて舟の底の線が逆そりを見せていることであると指摘している。相違点は、ニタリが直線を基調として工作を簡易化していること、また船首部で逆そりがサバ二よりも誇張され、ヨットのセンターボードのように水に深く突き刺さるように鋭く前にのびる船首が付け加わって船を良く直立させるようにしている点である。アイヌの舟のチップのように最大の幅を後部に移して、舟の舳先を細身にして水中に立つようにすれば、高い波の中でも、舟が傾いても復原して立ち上がる力が強まるように、サバ二を基本にして改良した可能性があると指摘している。サバ二は船首が立てる波が極めて少ない船型であるが、ニタリはさらに船首波の低減を徹底している。横山晃先生はヨットの専門雑誌『舵』一九七六年一二月号(一六三頁)で次のように指摘している。

 結局、大らかなウネリの沖縄の海でオールマイティーの要求に応えたのが『古式サバ二』で、峻烈なチョッピング・ウォーターの東京湾への適応と、江戸の華としての高速という、二つの特殊要求を両立させたのが、「釣舟ニタリ」だったと思う。それにしても驚くべきことは、エリアカーブを表現する3係数(排水量・長さ係数、柱形肥痩係数、浮力中心前後位置)の数値がほとんど同じに接近している点である。(中略)そこで両艇の間に脈絡があるとすれば、次の三つが考えられる。
  @技術交流(技術者の交流)
  A上記の三係数の最良値を見出す研究
  Bその最良の三係数を一定基準に保つ手法。
 このABの存在は納得しやすいのだが、@は難解である。(中略)初期の江戸は急造都市で様々な分野の専門家が全国各地から江戸に集まり、船頭や船匠は房総や伊豆から流入したと言われている。その房総や伊豆の漁民は海洋民族系(主に沖縄系)といわれ、当時の諸大名の財力を以てすれば、最新技術を身に付けた沖縄渡来の技術者(船匠)が優遇され、それが沖縄に伝われば更に優秀な船匠が江戸を目指すと言う現象は、容易に想像出来るはずだ。おそらくそのような、何らかの技術交流のルートが在ったと私は思う。

(つづく)