黒潮文明論    索引  

                    

 86 人のことを「チュー」という
    (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年2月1日第375号)

●黒潮の民は人のことをチューと言う。借りてきた漢字で「島人」と書いて、シマ(ン)チューと読む。「島人ぬ宝」という題の沖縄歌謡がカラオケで流行るようになって、ヤマトゥンチューにとっても不思議な読み方ではなくなった。もともとシマ自体が、アイランドとしての島ではなく、人間の集団が影響力を行使できる共同体の範囲のことであるから、チュンシマと言えば、他人の集落のことである。チュンヤと言えば、人の屋で、他人の家の意味である。チューには、他者と自分とをはっきり区別しているものの、同じ目線で考えており、生命を持ってこの世に生きている同族相哀れむような感覚が残る。
 それが、人間が人(チユー)でなくなるとムンになる。物である。クサダニムンとは、雑草の種のように、厳しい環境の中で踏みしだかれても芽を出していくような生命力の強さはあるが、人間の本来持っている弱さと優しさがなくなって、世間でははばかられるような強い者を表現する。シマの共同体の中では、渇水季になると水争いが起きた。水はけがよくて保水性が低い隆起珊瑚礁の土地柄では、気性も激しくなる。最近まで日本で唯一の小選挙区で激しい選挙戦で悪名高くなったシマもあった。水争いにも似て、些細な利権が争いの種になって、選挙は熾烈を極めた。自分のシマとチュンシマとの境に夜な夜な見張りを置くような刺々しさがあったが、灌漑のための水道が整備されて、蛇口をひねるだけで飲み水が供給されるようになって水争いもなくなったように、選挙区が統合されて大きくなったら争いは消えた。天秤棒を担いで乾いた田んぼの畦を歩いて水くみをする苦労もなくなり、それに加えて、お役所の構造改善事業と称する罪作りなばらまき利権の補助金がなくなったら、急速に争いは影を潜めた。心が和らぎ、クサダニムンの熾烈な争いが改まった。ムンに堕落して仁義のない争いを演じたのは、素朴な島人が、外部の勢力にそそのかされ、たぶらかされて、ついには選挙の勝ち負けに、闘牛賭博に熱をあげるように、熱中するようになったからだ。人の魂を抜いてしまう化け物のケンムンに操られたのだろう。ケンムンの得意な悪戯が、石を投げることで、船の側に次々に大石が投げ込まれて沈没しそうになった怖い話があり、子供をさらって魂を抜き取る暴れん坊のケンムンもいた。魂を抜かれた子供は、ケンムンになってガジュマルの木々の間を飛び移って逃げ回るから、子供の魂を元に戻す方法は、藁を蒸し鍋の蓋に編んで頭に乗せ、棒で叩くことであった。筆者も子供の時に夢遊病者のようになって、月夜の晩に寝床からむっくり起き上がって、一人で渚を歩かせて人気のない浜辺に連れていかれるというケンムンの仕業に遭ったことがあるが、藁の蓋を被せられ叩かれて治った。
 ケンムンは夜行性だから、昭和五〇年代から、電力事情が改善され、夜道をウッキリ(薪の燃えさしで、熾火(おきび)の語源である)を振りかざして歩く必要がなくなり、石油ランプのホヤの掃除をする日課もなくなった頃に、ケンムンの姿も消えた。シマでも電力消費量がどんと伸びて、活動する夜の暗闇がなくなったことと住処のガジュマルが伐採されたが原因だ。ケンムンを惜しむ向きもあるが、子供の魂を抜くような傷ましいことが闇夜に起きなくなった点では、幸せなことである。魂が抜けたら、亡骸が残ってしまうだけで、人がモノになってしまって、内部の空虚となった外皮としての殻・体でしかない。
●人のことをチューと言う表現は、インドネシアのサブ島にも残っている。悪魔に従う人をジンギチューと言うらしい。樺太のアイヌが、人間をエン・チューと言っているのも興味深い。アイヌとはそもそも人間のことであるが、西洋人のように、いろいろな生き物や動物と比べて高い地位においているわけではなく、キタキツネやエゾシカと並列する表現であると言う。チューの場合は、魂のある生き物の一つとして、生命のないモノと対比する言葉である。アイヌはヤマトゥンチューのことをシサムと呼んでいるが、これは、シが自分で、サムが側という意味であるから、自分の隣の人という意味である。アイヌ語も日本語も、黒潮の民の言葉は、語順が同じで、あいうえおの五つの母音から成り立っており、子音の数にわずかの違いがあっても、ほとんど一致する。rとlの区別もない。
●海のことをアイヌ語ではトと言うが、海の沖あいのことを宮古島あたりではオプトゥと呼ぶ。オプとは大であり、トゥは海である。アイヌ語では海が凪のことをノトと言っているが、能登が静かな海を示している可能性が高い。洞爺湖のトウも海の意味である。徳之島の北東の海中にトンバラ石という、海中から屹立(きつりつ)する岩礁があるが、これもトゥが海であるから、海原にある巌のことであることがわかる。奄美大島の笠利崎の沖と、同じ奄美大島の瀬戸内の嘉鉄の沖にもトンバラがある。沖縄の久米島の南方にもトンバラがある。いずれも、周囲の雄大な景色の中の、海の花畑ともいえるような、磯釣りの人にとっては理想的な好漁場で、豊饒の海の原となっている。
(つづく)