黒潮文明論    索引  

                    

 89 東北から西表島に漂着した郵便ポスト
        (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年3月15日第378号)

●トカラ群島の中之島の南東端にある台形状をなすセリ岬の上に大きな灯台がある。中之島灯台である。標高三八メートルの岬に立つ。中之島の東北方約二・五キロ沖合に標高二八メートルの平瀬(ひらせ)という岩島があり、その東を通る場合は黒潮が押すので安全だが、西を通ると島に押しつけられるようになって危ない、と灯台は照らす。奄美大島を船が出ると、横当島(よこあてじま)の南を通って、トカラ群島を左に見ながら北上する。奄美大島の東側には〇・五ノット程度の黒潮の反流がある。屋久島の近くでも西に抜ける反流があり、特に冬場は波がきつくなるから、定期船は無理をしないで種子島海峡に入る。そうすると屋久島の高山に風が遮られ、ヨットは風がないから走れないが、商船の航海は快適になる。筆者の乗った艇は、黒潮を横切って錦江湾に向かったから、屋久島の西側を通った。黒潮が盛り上がって見え、その黒潮に乗って米軍の輸送船が北上しているのを見た。屋久島の西海岸は海からそそり立つような絶壁が続いて、所々に滝が雨の筋糸のように海に直接降り注いでいる景色を覚えている。大隅半島の先の佐多岬近くには北西からの強い反流があり、急潮と波がぶつかる難所である。そこを迂回するようにして、開聞岳の長崎鼻をめざし、山川湊に入港して燃料などを補給した。登り口説(ぬぶいくどぅち)を、声に出さないで歌ったことであった。種子島の北の岬から薩摩半島に向かうのは、潮が逆流で難しい航海になり、大隅半島の先の志布志との船の往来の方が遙かに容易であることが分かる。種子島の北の岬から眺めると志布志の湾がすぐ手前に見える。隼人の軍船は、種子島で屋久島の杉材で建造したものと想像する。種子島と屋久島とは大隅半島への往来が頻繁にできるが、薩摩への往来には、帰りの潮の怖さがある。
●四月の季節の風は、日本列島沿いと太平洋の沖に出ている場合とではどちらが強いかと言えば、低気圧の居場所にもよるが、沖の方が弱いのではないかと定期船の船長は指摘している。黒潮の中に居るのかどうかは水温を計っても僅かの違いで分からない。船の能力以上にスピードが出ていると黒潮の流れの上に居ると判断するし、波を見て、黒潮の中では、波の状況が悪いのが普通であるという。黒潮の中を南に走っていると、風はないのに、波が高いから、帆船では船はまったく進まない場合もある。さて、黒潮に乗って北上して紀伊半島の先の潮岬を過ぎると、そこから石廊崎までは黒潮が東から西に真横に流れて風が向かい風になる可能性がなくなるので、帆船は直線コースで走ることができる。石廊崎を過ぎてから、もう半日の距離でしかない三浦半島のレースの終点までは、八丈島に向かって流れる黒潮の本流に別れを告げて、伊豆の島々の北側の神子元島の内側を通るか外側を通るかの判断が必要になる。下田の爪木崎の沖も山のような波が打ち寄せる場所であるから、風を見ながら波の高さとの兼ね合いで、船をどのように早く走らせるかという微妙な技術の競争になる。下田の白浜神社の御祭神についても以前書いたが、ヨットレースの順位は、黒潮の流れと石廊崎で分かれてからの、相模湾での操船の腕に左右されて入れ替わってしまう可能性もあり、おもしろさがある。黒潮は昭和九年に黒潮異変と呼ばれた異常現象を発させたことがあるが、紀州沖を遙か南に迂回して静岡県の沖を海岸に沿うようにして流れた。その原因は中層水が紀州沖で湧き出したからだとされた。昭和三八年にも深層水が湧き出て冷水塊をつくり、流れが大きく蛇行したことがある。大蛇行をしたり、真横に流れたりと変化しているから、いつも同じ流れがあるわけではない。
●三陸で大津波があり、宮城県南三陸町から流されたとみられる郵便ポスト(註1)が二四〇〇キロも海上の漂流を続けて沖縄県西表島へ漂着した事件があった。昨年一二月二八日、沖縄県竹富町西表島の北東部にあるユツン川の河口付近の海岸に郵便ポストが漂着しているのを近くの住民が発見したのであるが、高さ約六六センチ、幅約三三センチ、奥行き約四五センチ、重さ約二〇キロ。塩害による腐食を防止する塗装が施されていたポストで、原形を留めたまま支柱から抜けた状態であった。中には郵便物はなく、砂や海藻類が入っていたほか、表面には貝が付着しており、「セブン歌津」の標識が残っていたことから、宮城県南三陸町歌津にあった「セブンイレブン宮城歌津店」の前に設置されていたポストであることが判明した。東日本大震災から一年九ヶ月以上もの長い時間を経て漂着したことになる。震災ゴミがまず親潮に乗って南流し、それから桔梗水の黒潮に乗って太平洋を横断して、アラスカや北米大陸沿岸などに漂着することが話題になっているが、黒潮には反流があって、東北から南西諸島の八重山の島までの海路のあることが明らかになったことは痛快である。これまで西表島にアイヌの言葉が残っていることなど縷々書いてきたが、東北の黒潮の民の同胞が北米の沿岸だけではなく大日本(おほやまと)の南端にも到達できることを、郵便ポストが見事に証明したのである。

註1 この郵便ポストの写真はFaceBookに稲村公望さんが掲載している。