黒潮文明論    索引  

                   

 

 102 奄美群島日本復帰六〇周年
      (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年10月15日第391号)

●天皇皇后両陛下をお迎えして、平成一五年一一月一六日に鹿児島県主催で名瀬市で開催された「奄美群島日本復帰五〇周年記念式典」の模様を「黒潮洗う大日本の島々に神は宿る」と題し黒潮文明論を書き始めた。まず「奄美の本土復帰運動は、民族自決運動で、異民族支配に対する抵抗であったことは疑いの余地がない」と書いた。それから一〇年が経って、東京奄美会主催の奄美群島日本復帰六〇周年の総会・祝賀会と記念式典・文化芸能祭が一〇月六日に渋谷公会堂であった。パンフレットに「時を超えておもいは繋がる!」と、歴史的な民族運動の意義を再確認して、先人の不屈の魂と郷土愛さらには愛国心に敬意を捧げる趣旨が大書されていた。裏表紙は奄美に航空路線を展開していた東亜国内航空を合併した日本航空の新鋭機のグラビア写真を掲げた広告で、表紙裏は医療法人徳洲会の広告で、徳田虎雄理事長の愛郷無限と題する挨拶が載り、国内に六六病院(一万八三一七病床)、介護福祉施設四三〇を展開し、ブルガリアとブラジルに開院し、一六ヶ国に人工透析センターを開設したことを紹介し、「徳洲会の原点は奄美群島にあります。これからも島の皆様とともに歩みを続けてまいります」と、奄美にある三八の施設を一覧表で掲げていた。
●奄美復帰運動の父である泉芳朗先生の「島」という詩がある。

私は 島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を
一点だから淋しい 淋しいけれども 消え込んではならない
それは創世の大昔そのままの根をかっちりと海底に張っている
しぶきをかけられて 北風にふきさらされても 雨あられに打たれても
春夏秋冬一枚の緑衣をまとったまま じっと荒海のただ中に突っ立っている
ある夜は かすかな燈台の波明りに沈み ある日は 底知れぬ青空をその上に張りつめ
時に思い余ってまっかな花や実を野山にいろどる
そして人々は久しい愍(あわれ)みの歴史の頁々に
かなしく 美しい恋や苦悩のうたを捧げて来た
わたしはこの島を愛する 南太平洋の一点 北半球の一点
ああ そして世界史のこの一点
わたしはこの一点を愛する 毅然と 己の力一ぱいで黒潮に挑んでいるこの島を
それは二十万の私 私たちの島
わたしはここに生きつがなくてはならない人間の燈台を探ねて

 泉芳朗先生は明治三八年徳之島の面縄に生まれ、鹿児島第二師範学校を卒業、奄美大島の赤木名、古仁屋、徳之島の面縄の各小学校で勤務する。昭和三年に上京、小学校の教員を続けながら詩作に励む。昭和一二年に帰郷して、伊仙、神之嶺小学校に勤務。昭和二六年に奄美大島日本復帰協議会を結成して議長に就任、群島民の九九%が署名するという署名運動や断食運動の先頭に立った。昭和二七年には名瀬市長に就任している。昭和二八年一二月に復帰を勝ち取ったが、非暴力を貫いている。昭和三四年に詩集刊行のために上京するも、五四才の若さで死去した。没後、詩友が出版した『泉芳朗詩集』は稀覯本となり、古本で一万四〇〇〇円もの値がつけられている。復帰六〇周年記念出版として、泉芳朗の実像を甦らせるかのように、鹿児島市の南方新社(ファクス〇九九・二四八・五四五七)から一一月上旬に復刻版が刊行される。内容は、Ⅰ詩一六編 Ⅱ詩二六編 Ⅲ詩一〇編「オ天道サマハ逃ゲテユク」抄 詩一〇編「赭土にうたふ」抄 詩九編「光は濡れてゐる」抄Ⅳ詩論八編 付録「泉芳朗の人間と文学」(知人三〇人による寄稿)である。定価は三八〇〇円(税別)。
●式典では大島高校吹奏楽部の演奏で国歌が斉唱され、日本復帰の歌が唄われた。文化芸能祭の冒頭では作詞村山家國、作曲山田耕筰の「朝は明けたり」の歌を、島岡稔、元野景一、泉成勲、向井俊郎、田向美春の各氏が唄った。小学六年生の頃、「朝は明けたり」の曲と詞が異民族支配から解放された喜びを噛みしめるよう鼓舞したのだろうか。

くれないのこころにまもり まもり来し 日のもとの旗 日のみはた
今ぞ我が手に 島山の 朝は明けたり さえぎるものなく 朝は明けたり さえぎるものなく
やつ年を こころに懲りて よびて来し はらからの國 日のもとよ 今ぞあきらに くにたみの
みちはとほれり あまみの島ねに みちはとほれり あまみの島ねに 三千歳の 國たみごころ
めぐり来し あらたなる日の この思い 今ぞひとつに あひ起たむ
ときはいたれり 日のまるさやかに ときはいたれり 日のまるさやかに
くろ潮の うなばら北に さだまれる はらからの島 さきはいは
今ぞあまみに 國たての 朝はあけたり こぞりてたたなむ
朝はあけたり こぞりてたたなむ」

「朝だ 奄美の朝だ 日に焼けた君らの胸に 盛り上がる復興の熱 そうだ そうだみんなの汗で 生みだそう明るい奄美」という行進曲調の歌が筆者の耳底には今も残るが、もう誰も知らない。大相撲に一五人も奄美からの力士がいて、九人が登壇して相撲甚句を披露した。島唄があり、三沢あけみが「島のブルース」を歌い、艶やかな紬の男女が歌遊びをして見せた。(つづく)