黒潮文明論    索引  

                   

 

   105 「環日本海・東アジア諸国図」の特徴
            (世界戦略情報「みち」皇紀2673(平成25)年12月1日第394号)

●富山県が作った地図には「環日本海・東アジア諸国図」と標題がついているが、日本海ばかりではなく、渤海、黄海、東支那海、沿海も掲載されているのが特徴である。樺太全島を掲載し、オホーツク海は南部だけにとどめ、千島列島は得撫(ウルツプ)、新知(シムシル)、計吐夷(ケトイ)までを載せる。台湾島全島が載り、ルソン島の北端は、バシー海峡とともに、地図の右端に顔を出す程度だ。富山からほぼ二七〇〇キロの距離になる香港と澳門の特別区が地図の右端になっているから、海南島は載っていない。富山の地図は南支那海には無関心なのである。黒竜江と烏蘇里江の大平原、満洲の大平原、黄河と揚子江の大平原が緑色に彩色されている。黒竜江省北部のシベリア側をユダヤ自治州と明示している。満洲とモンゴルの台地とを画する大興安嶺山脈は茶色に塗られ、真横に走る作図になっている。北京は、渤海に突き出す興安嶺の支線の山陰に位置させている。渤海湾の奥にある天津が、北京の港の役割を果たしていることがわかる。北京から、内モンゴル自治区は至近の距離だ。フホホトや大同、最近騒ぎのあった山西省の州都の太原も、地図上では茶色に塗られた地域にある。北京はもともとは清朝の都であった。紫禁城は漢民族の世界ではない。支那の大陸は緑なす平野と、茶色のはげ山とにくっきりと分かれていることがよくわかる。渤海も、黄海も浅い海だし、東支那海も大半は浅い。渤海には、遼東湾、莱州湾、渤海湾と三つの湾がある。遼東半島には、旅順、大連の良港があるが、富山の地図では、満洲の鉄道がハルピンに向かって真横に延びて、その先でシベリア鉄道に繋がることがわかるように作図されている。日本海は比較的に深いからほとんどが淡青色に塗られ、朝鮮半島右側はほとんどが浅い海として白く塗られているから、そのコントラストがはっきりしている。奄美と沖縄、宮古、八重山、与那国の南西諸島の地図の下部で、東支那海はようやく淡青色になるが、その深みを黒潮が流れているのだ。富山の地図の中央に、朝鮮半島が位置するが、鉞のように日本列島に突き出し、日本海と東支那海とを区分けするかのようだ。海水の温度の比較はわからないが、済州島の海女は朝鮮半島の東海岸や山東半島に出漁したり、日本の伊勢志摩には出稼ぎに往来したが、日本海には出漁しなかったという。何か自然環境が異なるなど大きな理由があったことを想像させる。日本海にある竹島の問題にせよ、磯での漁の方法等を科学的に調査すれば、いずれの帰属か判断できる契機が見つかるのではないだろうか。もともと海女の漁業は、魏志倭人伝に書かれた通りだとすれば、浅海である東支那海に屹立する済州島は日本列島と黒潮で繋がった同一文明圏だった。
●田中角栄首相に突っ込まれて周恩来は棚上げ論で逃げたが、いざ天然資源が埋蔵されていると国際機関が発表すると、とってつけたように尖閣列島の領有権を支那は主張するようになった。富山県作成の地図を眺めると、富山から青島までの距離は約一五〇〇キロ。これは富山から那覇、または大連までの距離より少し遠い。北京から九州の方が遙かに近く、沖縄は富山より遠い所にあるのだ。沖縄の真西にある支那南海の勝地は福州である。福州から真横に航海すれば、黒潮の流れに乗って、那覇に楽に着ける。台湾沖の綿花嶼と膨佳嶼も地図に掲載されている。その先に、黒潮を先導するように尖閣列島があり、海の色が変わり、順潮に乗ってまもなく旅の終わりを告げることがわかる。尖閣の尾嶼(びし)で祈る。行きは良いよい、帰りは怖い。那覇から出港してまともに福州に帰ろうとすると、黒潮は逆潮になるから、自然、船は寧波、舟山列島あたりを目指すことになる。また、上海や寧波から琉球に渡航するのは、海中の大河、黒潮を横切ることを考えれば至難の業であるから、寧波はむしろ九州向けの港であったろう。鑑真和尚が難破して薩摩半島南端の坊津に流れ着いたのも当然である。ちなみに、唐の都の長安、今の西安が緯度では、奈良の都とほとんど同じ緯度に位置しているのは偶然であるはずはない。航海の技術が不足するなどしていて、朝鮮半島沿いに船を進めるのであれば、日本列島との中間にある済州島にまず立ち寄るか、あるいは洛東江に船を寄せ、そこから壱岐、対馬と島伝いに航海して、九州北部に上陸することを目的とすることになる。種子島、屋久島まではともかく、トカラ以南の島々に、殊に大陸の北方から旅することは困難至極で、無理難題であった。台湾島ですら化外の地としたのは、要するに交通手段に限界があり、支配を及ぼすことが実際にできなかったことを示している。琉球王国は大陸の帝国に朝貢して、薩摩の間接統治になってからも朝貢を続けているが、北京から来た使節の数よりも、那覇から出かけた使節の数が圧倒的に多かったのは、陸封の帝国と比べて黒潮の民が東支那海を駆け巡る優れた航海術をもち、波濤を越える外航船の運用能力があったからだ。西郷隆盛は二度も奄美に遠島になったが、東支那海をわが庭とするかの如く薩摩に渡海し、江戸に上って維新の立役者となった。(つづく)