黒潮文明論    索引  

                   
 

 122 災害避難所としての前方後円墳
          (世界戦略情報「みち」皇紀2674(平成26)年9月15日第411号)

●前方後円墳の形は、入舟、出舟の形ではないかとの仮説を提出したが、大方の前方後円墳が豪族などの墓であることは確かだ。ただ、殉死を伴う古墳は皆無であるし、中には、墓ではない古墳もある。古墳の周囲に埋め込まれた埴輪なども、民衆を生き埋めにする代わりに埋め込まれたとの説があるが、それは誤りで、擬人化された焼き物の像は、死後の世界で土木大工事をした指導者としての豪族などを守る、あの世で田畑を守る抽象的で素朴な兵士の像でしかない。
 だからこそ、秦の始皇帝の兵馬俑のような現実に迫ってくるような塑像が、明の十三陵のような巨大な地下空間の墓の周囲に並ぶような姿はなく、抽象的な人形の素朴な焼き物が土留めの様に並ぶのが、埴輪の特徴である。大陸の王朝の墳墓とは異質で全くかけ離れたものであることを指摘しておきたい。
 要するに、日本の古墳は荒れ地を開墾して田畑をつくったことで生じた土砂の盛り土でしかなく、豪族が力を誇示するために民衆を酷使して強制的に作らせた墳墓ではない。実際、日本の古墳は、河岸段丘の縁などの少しの高台にあるものは多々あるにしても、深山幽谷には古墳は存在しない。多摩川の下流にあり、東京の私鉄東横線の車窓から多摩川の鉄橋を渡る際に眺めることのできる亀甲山古墳などはその典型である。
 巨大古墳の、例えば仁徳天皇陵などは、全くの平野部につくられており、開墾の残土を計画的に盛り土して出来あがっていることが明らかになっている。畿内の氾濫原野の治水工事として大土木事業が行なわれると、工事の結果、厖大な土砂が盛り上がって残る。自らが指揮して積み上げたその残土の山を、善政を行なったとして最も功労のあった者が墳墓としたのである。
 朝鮮半島の新羅の都であった慶州などに行くと月明かりの中に大きな円墳が美しいシルエットとなって眺望することができるが、厳然として権力を誇示することを目的として建設されている。日本の前方後円墳のように、円部が森となって木々で覆われ、あるいは方の形の部分が芝生になって周囲の土地を平らかにし、田畑となったただ中にあって、中には、環濠や池を巡らして土砂の流出を防御しているような穏やかな形とは、およそ似て非なるものである。
 前方後円墳が舟の形をしていると仮定すれば、大水が出たときに舟が浮かんで、被害を避けることを象徴した形ではないだろうかと思うことは当然の成り行きで、近隣の農民は、近くの河川の氾濫から遁れて、前方後円墳の頂きの高みに避難したのではないか。人柱を権力者の墓の周囲に立てた例は日本にはない。倭建命への弟橘媛(おとたちばなひめ)の献身の物語も、愛と犠牲の話で、権力の賛美ではない。
●余談ながら、茨城の高浜に河口があり、霞が浦の北浦に流れ込む恋瀬(こいせ)川の名前は小さな伊勢、つまり「こ・いせ」ではないかと想像する。
 北畠親房は筑波山麓の小田城で書いた神皇正統記に「大日本(おほやまと)は神の国なり」と記したのであるが、恋瀬川はその小田城の北側の谷を流れている。その源流を筑波山とする説もあるが、流れを辿ると加波(かば)山にも至ることができるから、恋瀬川を遡って加波山に至る往来があったことが分かる。加波山は修験道の山であり、海から川を辿って、常陸の原野を開拓していった黒潮の民と山の民との諍(いさか)いもあったに違いないが、加波山神社が小伊勢神社として、伊勢の神徳を久しく仰いで来たとする解説からすれば、吉野の金峯山(きんぷせん)寺のように海と山とが出会う聖地として崇められてきたに違いない。
 加波山と筑波山とを両方遠望できる八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の広大な沖積地の河岸段丘に丸山古墳はある。この古墳は崇神天皇の第一皇子豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の奥津城(おくつき)として伝承され、古墳の近くには佐志能神社が鎮座している。
 そもそも、遙かに隔たる筑波山麓が伊勢の国司の領地であったことは驚くべきことである。しかし、黒潮の海と川を縦横に往来する頻繁な交通があって伊勢と常陸とが深く結びついていたことが分かれば、筑波山麓が大和朝廷の東国平定の根拠地になり、また南北朝動乱の時代に伊勢国司が小伊勢と称して安寧・隠遁の地としたとしても何ら不思議はない。
●大化の改新は六四五年であるが、その翌年、埋葬を簡素にすることを求める薄葬令が出され、火葬も実施されて、墳墓は簡素化されるようになった。火葬された骨と青銅板の墓誌が、特段の副葬品もなく、檜の木棺に入れられるようになったが、その典型が一九七九年に奈良春日大社の東方約七〇〇メートルに位置する比瀬町の通称トンボ山の丘陵南斜面の茶畑から発見された古事記の編者太安万侶(おおのやすまろ)の墓である。
 墓は浅い谷の地形の中央に位置する。墓誌は長さが二九センチ、幅六センチ、厚さ〇・五ないし一ミリ、重さ七五グラムの純銅の板に、太安万侶が平城京の左京四条四坊に住み、そこで養老七年七月に死亡したと、十二月十五日の日付を以て記している。養老五年には竈(かまど)による火葬制度になるが、他の場所に埋葬してはならないとされ、安万侶の木棺は火葬の残りの木炭で覆われていた。権力の近くにあっても墓は簡素を旨としたことがわかる。(つづく)