黒潮文明論    索引  

                   
 

 123 黒潮の力強さを体感した礼文島往還
             (世界戦略情報「みち」皇紀2674(平成26)年10月1日第412号)

●礼文島を訪れた。羽田から飛行機で稚内に直行して市内で一泊し、早朝に連絡船に乗り込んだ。宗谷の名前のついた大型フェリーが三隻就航していて、一番の新造船でスタビライザーが装備された船に乗ったが、前日午前中の悪天候とは変わって海は穏やかで、予定の時間通りに香深港に接岸した。隣の利尻島には以前行った。日本に憧れて捕鯨船に乗り組んで、北米から渡ってきた青年が幕末の長崎で英語教師をした話を利尻で知ったが、礼文に寄ることができずに、黒潮の流れの日本海側北端にある島を抜きにしたことが気がかりだった。今回ようやく重くなった腰を上げて、礼文島行きを決行した。
●フェリーの発着する香深港は島の南にあるが、島の北辺には船泊湾があり、標高一〇メートルの砂丘が久種湖を仕切っている地形になっているが、その砂丘に船泊遺跡がある。明治時代からここに様々な遺物があることが知られていて、「東京人類学雑誌」に採集品が紹介され、昭和に入って北海道大学の学術調査が行なわれている。北海道を代表する縄文時代の遺跡である。
 北海道では、最近でこそ、地球温暖化の影響もあるとされ、稲作が徐々に北上していることが話題になっているが、弥生文化の基盤としての稲作が行なわれた痕跡はない。本州の弥生時代以降も北海道では縄文時代が継続して、その間、北方からのいわゆるオホーツク文化が入り、古墳時代の影響を受けた擦文文化があり、近世からのアイヌ文化に繫がっていく。礼文島には五五ヶ所の遺跡が見つかっており、旧石器時代一ヶ所、縄文時代一三ヶ所、続縄文時代一五ヶ所、オホーツク文化期一九ヶ所、擦文時代一二ヶ所、アイヌ文化期七ヶ所となっている。一つの遺跡に複数の時代が重なっているものもある。
 平成一〇年に礼文町教育委員会が行なった船泊遺跡発掘調査に係る出土品は一六一六点(その内訳は、墓抗群出土七七三点、作業場跡出土一四点、包含層出土七〇九点)にも及び、日本列島最北端の大規模な縄文遺跡として学術的な価値が非常に高く、平成二五年六月一九日に国指定重要文化財に指定された。その出土品は香深港のフェリーターミナルから徒歩二分の距離にある礼文町郷土資料館に陳列されている。船泊遺跡には墓抗が二四基みつかっており、宝貝や枕貝の装飾品、翡翠や橄欖岩の垂飾、鳥骨菅玉や石菅玉や平玉が、葬時に遺体に装着された状態で出土している。
 史料館のパンフレットを見てハッとしたのだが、一五号墓の遺体の口元に円いものが写っているので、よく見ると、円い貝殻である。二三号墓の遺体の鼻口のあたりには、翡翠か橄欖岩の垂飾がおいてあるのが分かる。死者の口に珠玉を含ませる飯含の古来のしきたりが行なわれていたに違いない。イモガイや宝貝、そして枕貝は、北海道には勿論生息していないし、翡翠も新潟産のものであることが分かり、更には礼文島の土でつくられた土器などが道南の奥尻島で見つかったことなどを考えると、黒潮にのって交易が広範に行なわれていたことの証拠が船泊遺跡となっている。
●礼文島東海岸の真ん中あたりにある集落の内路(アイヌ語でナイ・オロ、小川のある場所という意味)の漁港には、ブリが水揚げされていた。地球温暖化のせいかと聞いてみたら、確かにその影響もあるかも知れないが、これまでもブリが豊漁になった時代もあったとのこと。今年は黒潮の勢いが強いから、ブリが潮に乗って北の礼文島で海の幸となっていることが実感できた。
 気候変動は善し悪しの両面で、礼文島では、今年、土砂崩れで死者が出るほどの希有の豪雨があった。厳しい冬の積雪にどうしようかと雪止めの対策を考えるのが常で、大雨が降って川が氾濫し、土砂崩れとなって、家屋を押し流すことなど予想できなかったようだ。
 大量に出土した縄文後期の土器を見ると、焼成するには燃料となる薪が必要であるが、今の礼文島には森林は殆どなく、船泊遺跡の周辺には、草地で覆われた山しかない。しかも冬場の風の強さのせいか、低木しか見当たらない。北海道に広く植わっていたはずの樫の木などは文明開化と称して伐採され尽くし、英国のウィスキー樽になった気配もあることを、スコットランド独立可否の話題を聞きながら思った。焼尻島にはオンコの原生林が残るが、礼文島に原始の森はない。
●アイヌの伝統の形の小舟が海岸にあるので、漁師にこの舟で稚内まで行けるかと聞いたら、とても今の季節には無理だ、隣の利尻島までだったら可能だとの話だったが、アイヌ独特の技術でつくられた、丸木舟の上に波を避けるための板を縄で綴じた「板綴り舟」を「イタオマチプ」と言うが、外洋を航行することも可能で、明治の中頃まで使われていたことが知られている。
 香深港近くのホテルで一泊して朝一のフェリーで稚内に戻った。宗谷海峡は三メートルを越える高波で、風は北西の強風、宗谷海峡が漏斗の様になって風を吸い込んでいるように思えた。時化の中をフェリーは巧みに操船して難なく稚内港に着いた。宗谷海峡を荒波となって抜ける黒潮の力強さを体感する畏敬の旅となった。(つづく)