黒潮文明論    索引  

                   

 

 128 ルービン先生の思い出
     (世界戦略情報「みち」皇紀2674(平成26)年12月15日第417号)

●ルービン先生がお亡くなりになり、ボストンの代表的日刊新聞であるボストングローブ紙に訃報が出た。

 アルフレッド・P・ルービン、八三歳、一一月三〇日ベルモントの自宅で安らかに逝去。五四年連れ添ったスザンヌ夫人との間にコンラッド、アンナ、ナオミの三人の子供があり、孫五人と兄弟のサンダーの遺族。ルービン氏は二〇〇二年までフレッチャー外交法律大学院の国際公法担当の教授を務めた。コロンビア大学を一九五二年に卒業、法律修士号を一九五七年に取得。コロンビア大学ではフェンシングの競技に秀でていた。朝鮮戦争で海軍に従軍したために学業を三年間中断している。コロンビア大学を終えてから、英国のケンブリッジ大学ジーザスカレッジで研究をさらに継続した後に、国防総省国防次官補付の法律顧問として就職して、後に貿易管理担当の管理職に就任している。一九六七年にオレゴン大学ロースクールの教授に就任、一九七三年にボストンのフレッチャースクールに異動している。

●追悼文をささやかに英文に纏めて、ボストングローブ紙に設けられた「お悔やみ」の欄に投稿した。その要旨は次の通りである。

 ルービン教授のご逝去の報に接し、深い哀悼の意を表します。三〇年の長きにわたってフレッチャースクールの国際法の教授として活躍された先生の授業に出席した学生の一人として、しかも優秀とは言えない不肖の学生として、国際社会における法の支配と執行の重要性について教えていただいたことに深甚なる感謝を申し上げます。英国の大法官のトーマス・モアの故事を引用しながら、悪魔が攻めてくることを予想して、文明の海岸線に、法の林や森を創るために法の木を植えて万一の時にはその林の中に身を隠さなければならないと格調高く説明されたことを忘れません。ロバートボルトの戯曲「我が命つきるとも」(邦題)の名場面の解説もありました。あるときに、国際法は通説主義ではなく、説得力が必須で有ると力説されましたが、英語力がなくしかも試験での成績が劣悪であったこの日本からの留学生に対してもっと主張して論陣を張るようにとの叱咤激励であったように記憶しています。仁義のない国際社会では、雄弁に相手を説得して、意見を明確に主張することが大切だと教えようとの意図がありました。首都ワシントンでの米国国際法学会の年次大会にも引率して頂きました。模擬の国際法廷を傍聴させて、その経過を勉強する機会を与えて頂きました。あるとき、fungitiveという言葉の意味が分かりますかと突然学生に聞かれて、誰も分からなかったので、それはラテン語のfungus(キノコ)から派生した単語だと説明して、クラスが大笑いになって、英語に困っていた当方も一緒になって大笑いして溜飲を下げ、それ以来、外国語としての英語に対する劣等感が全くなくなったことを記憶しています。ルービン先生は、朝鮮戦争の間は日本の基地にも勤務された経験があるらしく、日本の基地で発生した殺人事件についても関与した気配で、当方が日本からの留学生だったので殊更に管轄権の問題について詳しく授業されたのではないかと思われますが、今となっては、先生と徹底的に議論を尽くしておくべきだったと悔やまれます。毎年五月の同窓会には、近年は毎年参加するようにしていて、ボストン郊外にある先生のご自宅に電話をいつも入れていました。先生は病の床に伏せられ、もう電話口に出る事も不可能でしたが、日本からのそれほど優秀でもなかった昔の生徒が電話を寄越したことは分かって下さったと思います。数ヶ月前に、ルービン先生のご著書で海賊についての論文集が出版されたので、アマゾンの通信販売で入手したばかりでしたが、先生のことを思い出しながら、これからの数ヶ月をかけて読破することにします。ルービン先生は問題提起に優れた学者で、同時に熱心な教育者でした。

●ルービン先生が裁判管轄権の問題について執拗なまでに議論を展開されたのは、ジラード事件で国防省が日本に管轄権があることを明示したにも拘わらず、密約で刑が不当に減じられ放免になったことを詰(なじ)るためだったのかも知れない。当時は、浅学にして先生の真意を推し量ることができなかったのは残念である。また、ニュルンベルグと東京裁判の違いや事後法の欠缺を当時から問題にされていたが、すっかり洗脳され切った日本人の一人として、ルービン先生の危機感は理解できなかった。ソ連の原子力潜水艦が大西洋で沈没して、CIAがヒューズ航空機に特注したオーシャングローマーという起重機船で深海底から引揚げた時にも、先生は、米国の国益を守る為にも引き揚げ反対との論考をクリスチャンサイエンスモニター紙に寄稿した。日本の函館にソ連の戦闘機が着陸して、百里基地に移送し分解して調べ上げたときも、国際法に従って機体は返還すべきだと解説したことを思い出す。日本では、最高裁判所裁判官となった東大の国際法教授などが通説主義に追従することで幅を利かせていた時代だった。さて、その日本人学生は、非才のまま老いを重ねている。(つづく)