黒潮文明論    索引  

                   

 

 130 アイヌの高倉と縄文製鉄
     (世界戦略情報「みち」皇紀2675(平成27)年2月1日第419号)

●アイヌの織機は脚のない地機(ぢはた)で、紡錘車と一体であるが、同じ機(はた)が八丈島や沖縄本島に残っている、八丈ではカッペタ織とよばれ、カッペタの言葉そのものがアイヌ語由来で、紡錘車の形がアイヌの刀の形をしていることから名付けられている、与那国島や西表島にもアイヌ語に繋がる地名が残っていて、筆者のふるさと徳之島ではフクロウのことをチクフを言い、アイヌ語でも全く同じであることを先に紹介した。
 最近、『異民族へのまなざし』(東京大学総合研究史料館、一九九二年)に掲載された写真を見て、アイヌの集落にも奄美や八丈と同じような高倉の穀物倉庫があったことには驚かされた。東京から小田急線で多摩川を渡った登戸近くの川崎市立民家園には、沖永良部島から移設された高倉があり、ふるさとを懐かしく思い出して心を休ませる憩いの場所となっている。アイヌの高倉の写真は、狩猟を専門にする漂泊の民ではなく、農耕民そのものであったことを歴然と証明しているのではないかと思うのだ。アイヌは北海道や樺太から八丈に、そして奄美から沖縄、与那国に連なり、遙か南の今のインドネシアの多島海の海底に沈んでいるに違いないスンダランドに繋がる黒潮の民の一員ではないか。ちなみに、愛知県犬山市にあるリトルワールドという野外の博物館には、沖永良部とアイヌの高倉の両方が展示されている。
●奄美が祖国復帰した昭和二八年の数年前にも、徳之島の西北の岡前小学校の校庭には御真影を安置する奉安殿が壊されずに残っていた。裏手に島の言葉でいうクァンジャク屋があった。クァンは金属の缶、ジャクは釋で、缶釋といえば、鍛冶屋のことである。ギッコンバッタンと両方から棒を引いたり押したりするフイゴがあって、木炭が赤々と燃えさかるなかで鍋釜が造られていた。ガンドウという、トタンをまいて半田(ハンダ)で接着して缶にして、ジミとよぶ芯を上下させる構造の石油ランプも造られていた。薪を割るための斧(よき)や鎌はもとより、鉋や鑿の刃の類も造られていたと思う。校庭の南側が崖になっていて、その下に、米軍の落とした爆弾が丸い噴火口のような穴を掘って水が溜まっていたので、にわか作りの筏に乗って子供たちは遊んだ。クァンジャク屋は不発弾や、大型爆弾の薬莢を加工して鍋釜にしていたし、硬すぎたり溶かせないので加工できない金属はそのまま水瓶などに利用されていた。クァンジャク屋の息子が、戦後初めて出来た幼稚園での同級生だったから、村の鍛冶屋の光景を鮮やかに憶えている。薩摩の軍事侵攻があったときに、島人は鍋鎌を振りかざして戦ったとされるが、鉄砲を造ることはなかったにせよ、もともと島に農機具くらいの鉄器を造る能力はあった。だから、戦後に本土から隔絶されても、村の鍛冶屋で鋤鍬を(とおぐぅぃー)生産できたのだ。
●米大陸の原住民が鉄を生産しなかったことで、白人に容易に征服されていった悲哀を考えながら、日本の列島には古くから鉄を生産する技術があったから自立自尊が保てたのではないかと自問自答するうちに、三冊の本に出会うことになった。いずれも彩流社から出版された単行本である。

柴田武弘『鉄と俘囚の古代史──蝦夷「征伐」と別所』(1989)
百瀬高子『御柱祭 火と鉄と神と 縄文時代を科学する』(2006)
浅井壮一郎『古代製鉄物語 「葦原中津国(あしはらなかつくに)」の謎』(2008)

 第一の『鉄と俘囚の古代史』は「全国に残る別所と言う地名は蝦夷征伐によって捕虜となった蝦夷(えみし)が、俘囚と呼ばれて移配された場所のことである」と主張した在野の歴史家菊池山哉(きくちさんさい)の説に導かれて、別所が同時に鉄をはじめとする金属の加工地だったことを明らかにして、蝦夷征伐の目的が、奥州の鉄をはじめとする鉱物資源の獲得と鉄の生産・加工能力の確保だったことを追求している。
 第二の『御柱祭』の著者は長野県出身で東京都の公務員を退職後に古代史研究に入り、諏訪で褐鉄鉱を原料とした製鉄が古代から行なわれていたとする。水に溶けた質の悪い鉄成分が硫黄などとともに葦や草木の根に付着して筒状になっている褐鉄鉱を使用して製鉄が行なわれたとする。諏訪湖や諏訪湖周辺の河川の水は、鉄含有量が日本一だとも言う。だから、諏訪では縄文時代から製鉄が行なわれ、それは縄文土器の生成過程から発見されたと主張する。諏訪で発見されている縄文土器や埴輪が製鉄炉だったとして、製鉄が可能であることを実験・実証している。諏訪湖の葦原の植物の根についた高師小僧という褐鉄鉱の塊は神事に使われた鉄鐸と酷似している。鉄鐸とは諏訪大社の威光と領土の範囲を示すためにジャラジャラ鳴らして触れ回る道具だった。その鉄鐸が後に銅鐸や鈴鏡に発展したとする。だから、信濃の枕詞「みすずかる」の実鈴(みすず)は鉄のことだ。
 第三の『古代製鉄物語』は日本建国神話の神武東征の跡をたどると、立ち寄り先が全て汽水域の葦原であり、塩害があり農耕には適さないが、水草の根につく湖沼鉄を追っていたのではないか、だから「記紀」は、日本を葦原中津国と呼び、稲原中津国とは呼ばないと解説する。 (つづく)