黒潮文明論    索引  

                   
 

 131 高師小僧と蕨手刀
 (世界戦略情報「みち」皇紀2675(平成27)年2月15日第420号)

●高師小僧(たかしこぞう)は、褐鉄鉱の塊である。その名の元となった高師原を訪ねた。愛知県の豊橋駅から、豊橋鉄道の電車に乗り換えると、上海にあった東亜同文書院の関係者が戦後に設立した愛知大学の前に駅があり、その次が高師駅だ。そもそも愛知大学のキャンパスは、陸軍の第一五師団の司令部が置かれていたところだ。愛知大学駅のホームには巨樹がある。屋根を突き抜けて聳えるさまは、まるで丸太の柱のようである。高師駅で降りると、近くに高師緑地という公園があり、一帯が昔の陸軍の演習場だったことを思わせる。緑地の周りを回っても、高師小僧があたりにゴロゴロ転がっているわけではなく、見つけることはできなかった。現物は豊橋市の地下資源館や自然史博物館に展示されている。自然史博物館では、高師小僧が地中にある状態を、地層を垂直に削って面を出して分かりやすく展示しているが、確かに植物の根から生じたように小僧が垂直に立っているかのような姿になっている。高師小僧という名称は、地元で呼んでいた名前を東大の先生が踏襲した、新たに命名したという説や、地質学者が命名した、などの説があり、また、元は高師童とよばれ、別名に「無名異」と呼ばれることが江戸末期の三河名所図絵に載っているという。高師の地名自体が元々は高蘆(たかあし)で、背の高い葦が茂っていた土地を示しているとの説もある。
 高師原には管石という地名もあるが、なるほど、高師小僧は植物の根の回りに鉄の酸化物が付着して成長したことを示すかのように、中央に穴が空いて貫通している管があり、その回りに年輪のように同心円の模様があるのが特徴である。成因を酸化鉄が植物の根や茎の周りに沈着したのではなく、枯れた根や茎を通じて鉄イオンを含む水が水中に広がって鉄分が沈殿したという説もある。高師駅の次の駅が芦原駅であるが。高師原は台地になっているが、高師駅から芦原駅まではその台地の崖を降りて行くように、下り坂を電車は走る。芦原の駅あたりは、海水面が高い時代には湾になっていて、今の台地にも湿地帯があって葦が繁茂していたことが想像される。高師原の高師小僧は愛知県の天然記念物であり、山梨県韮崎市の釜無川右岸の高師小僧は市の天然記念物として指定され、北海道名寄市の名寄高師小僧と滋賀県日野町の別所高師小僧が国の天然記念物である。滋賀県の高師小僧は滋賀県立琵琶湖博物館で展示されている。
『鉄と俘囚の古代史』は「全国に残る別所と言う地名は、蝦夷(えみし)征伐によって捕虜となった蝦夷が俘囚として移配された場所を別所と称したのではないかという説に導かれて、鉄をはじめとした金属の加工地だったことを明らかにし、蝦夷征伐の目的が奥州の鉄をはじめとする鉱物資源の獲得と鉄の生産・加工能力の確保であったことを追求している」と先に紹介したが、滋賀県日野町別所が製鉄の原料となる大型の高師小僧を産出して国の天然記念物となっているのは、偶然ではない。
●同じ褐鉄鉱で板状になっているのが、鬼板(おにいた)である。酸化鉄であるから、赤錆の塊である。鬼板は湿地帯の沼の底に沈殿した鉄分が板状になったもので、高師小僧の方は水底に根を張った植物の周りに鉄分が沈着してできたものだと考えれば分かりやすい。愛知県瀬戸市あたりで産出する鬼板は鉄分を四〇%も含んでいて、焼き物の赤色を発色させる釉薬として使われてきた。名人の陶工は、鬼板の硫化鉄の含み具合で発色温度の加減までしていたという。瀬戸の猿投山(さなげやま)を訪問したことがあるが、サヌキやサナギは鉄鐸を意味する古語であるから、猿投山とは鉄を生産する結界の山であったに違いない。
●陸奥国は古代から製鉄の地だった。日本刀の発祥の地は、東北本線平泉駅の東方約三キロのところにある観音山(別名吉祥山)およびその東方の白山岳に至る一帯であるとされる。舞草(もくさ、まいくさ)神社はいま観音山山頂の杉木立のなかに鎮座するが、元は白山岳にあった。正倉院にある奈良時代の無莊刀(むそうとう)の中心に「舞草」と隠し銘が入っているとの指摘がある。天武天皇の武器庫であった石上神宮に残された多数の刀剣にも陸奥や常陸国の刀鍛冶の銘が彫られているとのことである。日本刀の源流は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ、これまでに後期の古墳から二八五振り発見されているが、その大多数は東北の古墳から見つかっている。
●天童竺丸氏から、世阿弥の謡曲「芦刈」や説経節「芦刈明神のこと」が何をテーマにしたのか、古代の製鉄の事実が隠されているのではないのか、黒田官兵衛が薬売りだったことは大河ドラマで出てきたが、隻眼ゆえに播磨の製鉄従事者たちから絶大な支援を受けたことはすっぽりと抜けている、との指摘を頂戴した。また落合莞爾氏からは、厳密には「葦」ではなく「アセ=暖竹」ではないか、「紀伊国名草郡の安原荘は光明皇后の湯沐邑で、昔は「アビの七原」と呼ばれる大きな沼沢地で、ここに暖竹が自生しており、大海人皇子の湯沐邑の美濃国安八郡も昔時は入江の奥の沼沢地で、暖竹が多く、つまり製鉄地だった、との御指摘も得た。記して感謝する。(つづく)