天下の悪法「大麻取締法」の廃絶を目指して  
    (世界戦略情報「みち」平成23年(2671)5月15日第338号) 

●かつて大麻は神聖な植物として神事に重用されたほか、その繊維が衣料に用いられたり、実(み)が食用になるなど、われわれ日本人の暮らしにとって無くてはならない、身近な植物であった。安西正鷹稿「文明大転換に向けて」において大麻の特性とその規制の歴史を明らかにしつつあるが、目指すところは天下の悪法と言うべき大麻取締法を廃絶し、大麻を自由に栽培できる環境を整えて、十全にその活用を図ることにある。とりわけ、福島原発の放射能によって汚染されつつある土壌の改良に大麻が役立つのではないかとの期待も小さくない。
 とはいえ、このように深刻かつ甚大な放射能汚染に見舞われた経験は敗戦時の原爆被害のほかになく、原爆被害に対する大麻による土壌浄化の実験もなされたのかどうか管見(かんけん)の及ぶところではないが、現在のところ大麻による放射能浄化の効果のほどは明らかではない。だからこそ、実際に試してみることが重要なのである。何はともあれ東日本大震災の被害者救済の次に来るのは、その暮らしをどう立て直すかであり、放射能に汚染された土壌の浄化は重要な震災復興の課題の一つであることは間違いない。
●先日郷里に帰省した際に幼馴染みが集まったとき、皆そろそろ本格的退職を控えて老後に何をやるか考える時期にあるので、大麻取締法が廃絶になり栽培が解禁されたら、皆で一緒に大麻を栽培するのはどうだろうかと提案をしてみた。「たらればの話は御免だ」とか「解禁になって皆が栽培を始めたらとても儲かる訳がない」とか厳しい意見が返ってきた。仲間の中に一人、幼い頃には自家で大麻を栽培していたことを覚えている者もいた。小学校に上がるか上がらないかの頃というから、昭和三〇年前後の話である。すると、つい五〇年ほど前までは田舎で大麻を普通に栽培していたのである。
●わが国で当たり前のように栽培されてきた大麻が「麻薬」植物として取締の対象となったのは、敗戦後のGHQによる占領政策の一環だった。大麻には「麻薬」としての効用のほかに産業用や食用など広範な利用ができるのにも拘わらず米国が大麻を目の敵とすることに一片の米国流正義感が与っていないとは言わないが、阿片による英国の世界支配を突き崩そうという意図が秘められていた。さらには、産業用の大麻に代えて化学繊維などの石油製品を軸に世界支配を図る国際金融資本の戦略も隠されていた。われわれの暮らしから大麻が忽然と姿を消した背景には、米国の世界戦略が横たわっており、GHQの占領政策もそれに則っていたのである。
●わが国が原子力発電を受け容れるようになったのも米国の世界エネルギー戦略による脅迫に屈したからである。だが、ここで確認しなければならないことは、彼らの世界戦略は支配のための戦略であって、人類が共に共存するための戦略では決してないという点である。昨今喧しい「エコ」もまた世界金融資本による新たな世界戦略の一つであることに変わりはない。だから、人類共存のみちを探るのはツランの民たる日本人に課せられた使命である。二度目の受難というべき放射能汚染に見舞われたわが国こそが悪魔の科学の中核にある原子力利用の悪弊を脱する方途を開かなければならないのである。大麻取締法を廃絶し大麻の活用を図ることは、人類共存のみちを開く第一歩になると信じるものである。

 川田薫「人は己れを磨くために生まれてくる」  
    (世界戦略情報「みち」平成23年(2011)2月1日第331号) 

●近代科学の大前提である公理の中で最大のものは「実証可能」ということであろう。つまり、誰が実験しても同じ結果が出るということだ。ところが、この科学の根底的な約束が怪しいのではないかと異議を唱えている科学者がある。理論物理学・生命科学の専門家である川田薫先生である。先生については以前にも紹介したことがある。
 川田先生によれば、所定の手続きを行なえば、ある結果が出るという理論が正しくても、実験を行なう人によっては、必ずしも所期の成果が得られない場合があるというのだ。また、同じ科学者が実験をしても心が乱れている時には、思わしい結果が出ないこともある。特に最先端のナノ・レベルの実験ではこうした傾向が顕著に顕われるという。
 科学が心に左右されるという事態は、科学が万能ではないという一つの証として、近代科学の驕りを反省させる端緒となりうるものだろう。
●川田先生は実験によって「生命体」を誕生させた唯一の科学者でもあるが、生命が誕生する時はまず「体」ができ上がり、それから一定の有限な時間が経過した後に、「その生命体に固有のエネルギー」が「移入」してくる。こうして初めてこのエネルギーが原動力となって体が動くようになる。つまり、生命体が誕生する。
 すると、「その生命体に固有のエネルギー」こそが生命そのものであると考えられるが、それがいったい何なの
かはよく分からないのだそうである。
 つまりここにも、科学の限界が露呈していると言うべきだろう。何か得体の知れないエネルギーがどこかから「移入」してきて初めて生命が誕生するとなると、せいぜい科学にできることは周到な準備の下に「体」を用意して待つことくらいである。
●先日にも鈴木利男さん主宰のSDG勉強会で川田先生のお話をお聞きする機会があった。充実した多岐にわたる内容で、とても一言二言で尽くせるものではないが、人間のいのちもまた、どこかからやってきて両親が用意した体に宿るのだという御説には感服した。人のいのちは、あくまでもそのいのち自身の意志によって相応しい体を選んで生まれてくる。ではなぜ人は生まれてくるのか。人が生まれるのは、人として生きることの不自由と苦楽を体験することを通し己れを磨くためである、と川田先生はおっしゃるのだ。
 親が子を作るのではない。子が親を選ぶのである。してみると、どんな境涯に生まれようと、それはすべて己れ自身の選んだ結果なのだ。
●川田先生の話に出てくる「生命体に固有のエネルギー」というのは、科学に疎い一般人の言葉では、「魂」というほどの意味であろうか。なぜ魂はわざわざ不自由な「体」を選んで、人として生まれるのか。それは魂だけでは進化が遅く、「体」を得て苦労することによって魂が猛スピードで進化を果すためだと先生は言われる。
 だから人として姿形は似通っていても、進化の度合い、つまり魂の境位には雲泥の差がある。科学においてさえ、精妙な実験で魂の境位が結果に関係してくるのはこのためである。人として生きる苦も楽もすべて進化のうえで意味があるという川田先生のお話は聞く者に不撓不屈の勇気を与えてくれた。
 なお、今回の川田先生のお話は動画投稿サイトのユーチューブの中にあるmahorobajapanの以下のチャンネルにて、三話に分けて掲載されている。 http://www.youtube.com/watch?v=hU5jPDlUYmQ&feature=related

 いよいよ大和へ、そして吉野へ
    ── 還都への動き
 
     (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)10月1日第302号)

●今年平成二一年九月二三日、産経新聞に大きな写真付の小さな記事が掲載された。
 (http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090923/acd0909230044000-n1.htm)
記事の見出しは、
  壮麗「大極殿」全貌現す
となっている(右の写真は上記産経新聞ホームページより)。文化庁によって復元が進められてきた平城宮の中心的建築物「平城宮第一次大極殿正殿」の素屋根(蔽い屋根)が前日二二日に撤去され、その金色の鴟尾(しび)と丹塗柱(にぬりばしら)が目にも鮮やかな大極殿の全容をヘリコプターから写真に撮ったという記事である。
 一枚の大きな写真には、その大極殿を奥側の上半分に、手前の下半分には同じく復元された朱雀門が写っている。来年平成二二年正月元旦から始まるという「平城遷都一三〇〇年祭」開幕のちょうど一〇〇日前に当たる日に全貌が明らかにされたのである。
●「平城遷都一三〇〇年祭」については来年一年限りで終わるお祭り騒ぎであり、今ここに触れる要を感じない。鳴物入りで採択された大会マスコットの「せんとくん」がてんで不人気で、地元有志から新たに「まんとくん」が提案され両者が喧嘩したとか仲直りをしたとか、どうでもよい話である。
 大事なことは、第一次大極殿を復元した文化庁の意図が何であれ、我々の前に紛れもなく祭政一致のまつりごとの場が出現したということだ。大和へ、そして吉野への還都を願う者にとって「平城宮第一次大極殿正殿」は還都への確かな象徴である。
●今上陛下は平成一九年正月歌会始において、

  務め終え 歩み速めて 帰るみち 月の光は 白く照らせり

という御製を下された。大御心を推察するのは畏れ多いことながら、御製が常に勅であることに鑑みれば、御製は大和への還都を指示されているのではなかろうか。寡聞のとても及ぶところではないが、月の光に照らされた白いみちとは、真宗関係の説法でよく引用される善導大師の「二河白道」の比喩とは関係なく、和歌の言葉で大和路のことだという。陛下は「歩み速めて」そのみちをお帰りになると御製に示されたのである。
●去る九月二八日、陛下は皇居内水田において五月にお手植えになった粳米ニホンマサリと餅米マンゲツモチの稲を刈られた。今号常夜燈にもあるように、高天原からの天孫の降臨に際して「神さまと同じ食べものを食べるように」と親心から態々持つて行くことを勅で指示されたのが「齋庭(ゆには)の穂(いなほ)」=稲なのであった。すなわち、米こそは、収穫量においても栄養価においても、また深い味とコバルト色に輝く美しいその姿においても、日本文明が育んだ究極の食物であり、磨き上げた芸術品であると言ってよい。そのために費やされたわが先祖たちの労苦がどれほどのものであろうと、米作りの中心には常に変わることなく今上さまの型示しがあったのだ。米作りはまつりごとと暮らし(日本ではそれは一つだった)の中核にあって、労苦であるとともに尽きせぬ喜びでもあったのである。
●周囲に高厦群れなす徳川千代田城の中の水田で稲刈りをされる陛下のお姿を何とも痛々しいと思うのは私だけであろうか。江戸を東京と改称し怒濤の西洋文明に抗してすでに百四十有余年、それは今上さまをあるべきみやこから拉致し、東京行宮に押し込め奉った長い年月でもある。だが、来年平成二二年は皇紀二六七〇年の大きな節目、この時に平城宮大極殿は用意された。一日も早く行宮を解き、「歩み速めて」の大和御還幸を願うばかりである。

大和へ、そして吉野へ 3 
(世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月15日第288号)

●「さればこそ」とは、皇統奉公衆の存在を聞いたときの私の安堵の思いである。国の威信を身に帯び国際場裡で国益を守るべき任にある外交官たちが、角田稿の詳説するように赴任先の国に迎合して右顧左眄する。外務省というより「害務省」と呼ぶのが相応しい外交機能しかもたない国がどうして毀れてしまわないで存続しているのか。誰が考えても不思議である。だが、そこに皇統奉公衆の活躍を置いて考えると、ようやく辻褄が合うのである。そして同時に、「そうでなくては」とも思うのだ。ただし、栗原茂はこうも述べている。

 神格天皇三代(明治・大正・昭和)の禊祓に順って働くなか、日本政府の頽落(たいらく)を補うだけに止まらず、敗戦後の外地乱世を緩和するため、世界各地に重大な痕跡を刻んでいる。この皇統奉公衆の勇躍は潜在性が道議であり、それがまた奉公の本義であるため、大江山系霊媒衆や在野浪士の働きに同化しても、その連続性を保つ伝承法は完全に一線を画している。

したがって、その存在は決して表には出ないし、また出てはならないのであろう。あるいは、冒険家・探検家として世界中に有名な植村直己のように、まったく別の姿を世間に晒し韜晦する場合もあるに違いない。
●役行者すなわち役小角もまた紛れもなく皇統奉公衆の一人であった、いやその棟梁であったと考えられる。古来より謎の人物とされる役小角について、明治の文豪坪内逍遥が『役の行者』という戯曲を書き謎に挑戦しているが、役小角の真相に迫るには至らなかった。関東の高尾山や三峯神社ばかりでなく日本全国の霊山霊地にお参りをして奥の院まで足を延ばせば、そこに役行者が祀られているのを眼にする。往々にして「役行者がこの山を開いた」などという開山縁起の説明書があったりするのだが、それでは一体、「山を開く」とは何なのか。一般に役行者は修験道の開祖ということで納得されているが、「修験道」とはそもそも何ぞや。
 昨今流行のアウトドア・ライフでもあるまいし、さらには「修験道」という宗教教団ないしは一宗一派を建てるのが役行者の目的だったとも思えない。まして逍遥が注目した韓国(からくにの)連広足(むらじひろたり)との軋轢やその讒言など「政体」絡みの憶測は、的外れも甚だしいというべきである。
●そこで、私なりの想像を逞しくして考えてみた。神格天皇の吉野(より正確には大峰ないしは大台ヶ原か、詳細不明)における霊峰富士の遥拝に際し、同時に全国の霊峰霊山において役行者の徒らが神格神事に合わせて富士遥拝の神事を行なうのだ、と。
 霊峰霊山にはそれぞれ神がおられる。その神々もまた、神格天皇の富士遥拝に軌を一にして富士を拝むのである。
 役行者による「山開き」とは、この一大神事のために神々を説得すること、そしてそれぞれの神々の氏子に神事の要諦を教え神格による神事を全国的に支えること、このことの謂であったのではないか。
●日本全国の神々がいっせいに富士を遥拝する。霊峰富士は不二であって、天照大御神のご神体である。その上空一〇キロメートルには富士神界がある。この日本全国の神々が挙って参加する一大神事の中核にあるのが、神格天皇なのである。神々もまた神格の神事には順うのである。神格による一大神事が恙なく行なわれるためにこそ、私は「大和へ、そして吉野へ」と願う。

大和へ、そして吉野へ 2 
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)2月1日第287号)

●先稿において東京行宮からの速やかな御還幸を願う一文を書いたところ、どうして京都への御還幸ではなくて、いきなり「大和へ、そして吉野へ」なのか、疑問の声が同志飯田孝一氏から寄せられた。まさに天の声とはこういう批判をいうのではないかとハッと襟を正さずにはいられないような鋭い指摘である。
 言われて初めて気づいたのだが、私の中では、「京都への御還幸」ではこの非常時に対処できないとの思いが強固にあり、心急(せ)くまま何の説明もなく、「大和へ、そして吉野へ」となったのであった。
●もちろん、京都をまったく無視してよいはずはない。紛れもなく、京都はわが千年以上の都である。明治天皇が「ちょっと行ってくるよ」と言われたのは、東京で用事が済んだらまた京都に帰るよというお気持ちがあったからであろう。
 ただし、皇統にとっては東京で西洋近代文明に対する防波堤たらんと出御されたのと同じように、山背への遷都もまた、時の国難に対する大御心からの御無理であったのではないかと推察する。当時の歴史を繙くまでもなく、平安京制定の詔「山背国を山城国と改め平安京の號を定め給ふの詔」(延暦一三年一一月八日)を見ると、京都が都とされたのは

「山河(さんが)襟帯(きんたい)、自然(おのずから)に城(しろ)を作(な)す。斯(こ)の形勝(けいしよう)に因(よ)りて」(錦正社『みことのり』平成七年刊に拠る)

とある。つまり、戦時用の砦だったのである。「四神相応の適地」だから、都となったのではないのだ。
 桓武帝の遷都を承けて、京都を永遠の都と定められた平城天皇の詔(大同元年七月一三日)もまた、

「此(こ)の上都(じようと)は先帝(せんてい)の建(た)つる所、水陸(すゐりく)の湊(あつま)る所にして、道里惟(こ)れ均(ととの)ふ。故に?勞(ざんろう)を憚(はばか)らず、期するに永遠を以てす。棟宇(とうう)相望み、規模度(ど)に合ふ」(同)

との理由を挙げてあって、永遠の都を定めた詔にしては余りにも消極的な調子が目立つのである。
 京都は度重なる兵火に見舞われたとはいえ永年の都という地位に安住し、あえて誤解を覚悟して鄙見を述べれば、コスモポリタンの巣窟と化した観さえある。皇統御神事の場には決して相応しくないと考えられる。現在の結構を残すとしても、せいぜい稀に行なわれる外国賓客引接の用途、すなわち迎賓の場とするのが適切ではないか。
●そもそも、「吉野とは何か」との永年の大疑団がここにきて氷解したのは、同志栗原茂氏のご教示のお蔭である。民草にすぎない私にとって吉野御神事の有様など窺う術もないことであった。それを栗原氏は懇切にも、吉野の吉野たる所以を教示下さった。さらに先日、稿成ったばかりの論考を示され、吉野御神事には万全の備えあり、何の心配も要らないと教えられた。その論考にこう書かれている。

 奉公の神格モデルは皇紀暦制定前にも存在しており、先住民も渡来人も、その威徳に順い奉公を身に帯び各種の姓((かばね)家業)を設けていた。この姓に巣立つ異能の先達(せんたち)こそ、皇紀元年から世界各地に配置され、天文気象のほか場の歴史を情報化のうえ、生涯を奉公に尽くして悔い無き人生と自覚する達人(たつじん)である。この先達は男女を問わず幼年三歳ころから世界の結界(けっかい)領域を修験(しゅげん)の場とし、成年一五歳に達すると、その動向は広域に及んで、一旦緩急(いったんかんきゅう)あれば義勇奉公、これ天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)に身を委(ゆだ)ねて惜しまない。この先達たちをいま、「皇統奉公衆」と仮称する。

と。

 大和へ、そして吉野へ 1
 (世界戦略情報「みち」平成21年(2009)1月15日第286号)

●先に宮内庁から主上御不予の原因が「御心痛」であるとの発表があった。その御心痛の内容をあれこれ論うことは厳に慎むべきだと思われる。ただ、どのような御無理から陛下が御心痛を感じておられるのか、一人の民として止むにやまれず思いを巡らしてしまうことまでは禁じがたい。
 今上陛下の御心痛の原因かどうかは定かではないが、陛下に御無理をお願いしている最大のものは、この東京に期せずして長々と御滞在をお願いしていることであり、これに勝る御無理はないのではないかと愚考する。
●そもそも、江戸を東京と改称はしたが、それは「遷都」でも「奠都(てんと)」でもない。「東京遷都」あるいは「東京奠都」なる詔は存在しないのだ。
 慶応四年(皇紀二五二七)七月一七日、「江戸を改めて東京と稱する詔」が出された。

「朕、今万機ヲ親裁シ、億兆ヲ綏撫(すゐぶ)ス。江戸ハ東國第一ノ大鎮、四方輻湊(ふくそう)ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ。因テ自今、江戸ヲ稱シテ東京トセン。是朕ノ海内一家、東西同視スル所以ナリ。衆庶、此意ヲ體セヨ」(『みことのり』平成七年、錦正社)

 これを「東京奠都」の詔とする誤解が一部にあるが、この詔の趣旨は江戸を東京と改称するということにある。「奠都」を指示した詔と解するのは謬りである。ただ、東京とは「東の京」、つまり「西の京」に対する「東の京」だという含意があるのは否めない。「京」の字を使うからには、江戸を「みやこ」としたいとの意がある。だが、明確に江戸へ遷都ないしは奠都すると宣言できない事情が当時はあったのである。その苦衷が「衆庶、此意ヲ體セヨ」との文言になったのではなかろうか。
●江戸東京改称の詔が出された翌月、八月二七日に明治天皇御即位の宣命が発表された。そこには、はっきりと

「掛けまくも畏き平安京に御宇す倭根子天皇が宣りたまふ」

とあり、天皇が御 宇(あめのしたしろしめ)すのは平安京、すなわち京都であることが紛れもなく示されている。「みやこ」は依然として京都であった。
 ところが、同年九月八日に改元の詔を発して「明治」と改元されたのも束の間、明治天皇は同月二〇日には東京へと「行幸」される。「行幸」とは天皇が一時的にご旅行されることで、ご旅行が終われば、当然京都へ還幸される。御滞在が長くなる場合は、仮の御殿を建てた。それが「行宮(あんぐう)」である。
 明治天皇は京都御所の御側近の方々には、「ちょっと行ってくる」と洩らされたとも伝わっている。明治天皇にとっては「関東が大へんそうだから、ちょっと行って面倒を見てやろう」というほどのお気持ちだったに違いない。以来一四〇有余年、われわれが不甲斐ないばかりに、主上に東京行宮という仮の宿に御滞在しつづけて戴いているのである。この御無理は速やかに改めなければならない。
●なぜ、東京が「みやこ」であってはならないのか。最大の理由は、東京では霊峰富士を東に遥拝できないからである。天武天皇の吉野滞在をはじめ、持統天皇三一度の吉野行幸、後白河法皇の吉野行幸など、歴代の天皇が危機に際して吉野へと向われたのは、霊峰富士を遥拝され、皇祖皇宗に御祈念されるためであったのだ。いまわが国は主上に「御心痛」を余儀なくするほどの危機にある。この危機を打開するには、まず主上に大和へ、そして吉野へと御還幸して頂くのが先決なのである。

 新還都論 Ⅳ ── 大和に同床共殿を!
    (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)6月1日第163号)

●本号巻末「常夜燈」欄に「立國論に寄せて」という一文が載せてある。日本経済の再生を担うべき「経済特区」に関連して、このところ喧しい「立国論」に肝心要の中心が欠けていることを指摘したものである。
 時宜にかなうその都度その都度の対応策は、もちろん必要であろう。だが、緊急対応策をいくら積み重ねても、わが日本が国家として立つ目標は出てこない。中心を建てること、それを円と中心の比喩で語ってある。
 しからば中心を建てるとは、どういうことか。日本が国家を挙げて取り組むべき理想を建てることでなくてはならない。外国の猿真似でもなく、外国の強制に従うのでもなく、わが国自身の内からほとばしり出る理想でなくてはならない。
 ここではじめて、わが国がどういう国柄であるか、その国柄に相応しい理想とは何かが問われることになる。
●顧みれば、わが国はそもそも国の成り立ちのはじめから、この地上に「神の国」を建設しようという理想を掲げてきた。もちろん、神々の世界と人の世とは相異なる。しかし、この地上に神の世界と同じような国を造ろうというのは神々の決定されたことである。
 そのために、神の御子が人として下された。人が生きていくために必要不可欠の食糧も神のご配慮によって与えられた。そして、人となっても「私が付いているよ」ということを忘れないように、神のご加護があるように、また神国を建設するという理想を日々新たに思い起こすように、神の似姿を身近においてお祭りしなさいというご指示まで戴いている。そのうえで、「さぁー、やってみなさい」と言われているのである。
●何と懇切にして丁寧なご配慮であろうか。まるで、親が子を思うが如き配慮なのである。至れり尽くせりなのだ。それも当然といえば、当然かもしれない。この日本で国造りをするのは、他ならぬ神のわが子なのである。
「あれで苦労しやしないか、これが足りなくはないか、私の気持ちを忘れてしまうのではないか、……」
 さんざんに考え抜いたすえに、これだけは持たせたいと与えて下さったのが、「立國論に寄せて」にもいう三大神勅なのである。
 そして、大和橿原の地に初めての都が開かれたとき、神のご指示に違わない、みごとな「建国宣言」が行なわれた。
「ここまで頑張って、ようやく神の國の基礎づくりができました。これからも、天の下のつづく限り、地の果てまでも、神のご指示に従って民が幸福に暮らせるよう、神国の建設に邁進して参ります」
 これが、わが肇国の理想であり、いわゆる「八紘為宇」の御詔勅である。
●「立國論」と言うとき、この肇国の理想がすぐさま思い浮かばないところに、問題のすべてがある。わが国の精神的伝統を意図的に断ち切った占領政策はいうまでもなく、至れり尽くせりの神のご指示を、われわれがほとんど忘れ果てようとしているからである。
 それならば、あらためて思い起こせばよい。そのやり方も、ちゃんと三大神勅に指示されている。いわゆる「寶鏡同床共殿」の神勅である。
「吾(あ)が兒(みこ)、此の寶鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視るごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にし、以(も)て齋鏡(いはひのかがみ)と為すべし」
 このご神勅と違うことがはじまったのが、崇神天皇の時代である。つまり、それまで宮中でお祭りしていた天照大御神の御依代たる寶鏡を別の場所にお祭りすることになり、結果的にそれが伊勢神宮に祭られた。
●いま、日本という国がその持ち来たった国柄を失うか否かの亡国の危機に際して中心に建てるべき「立国」の根本は、ご神勅に指示された同床共殿をご指示通りに復活することである。それを、わが国発祥の地たる大和で、天皇陛下に行なっていただく。そのためにこそ、「祭ごと」の都を大和に還都する。このことを切に願うものである。

 新還都論 Ⅲ ── 復古こそ維新なり
    (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)5月1日第162号)

●明治維新このかた、わが国は欧米列強の自由貿易主義=植民地覇権主義に対抗するため、常に戦時非常体制を強いられて、社稷の確立は二の次にせざるを得なかった。いわば、火事場の急に対応するのに忙しく、根本的な防火体制の確立が等閑にされたのであった。
 玉松操の起草にかかる「王政復古の大号令」も、草稿では「建武新政への復古」を謳っていたものが、玉松の師大国隆正の叱正により「神武創業への復古」に改められた、という逸話を三橋一夫に教えられたことがある。
 尊皇思想の未曽有の盛り上がりによって、機能不全に陥った幕藩体制に揺さぶりをかけ、小規模な戦闘はあったが外国勢力に支援を許す国家分裂という最悪の事態は辛くも回避しつつ成し遂げられた明治の回天維新もまた、わが国独自の文明に基づく国家体制の確立という意味では未完の革命だったのである。
 新国家の社稷確立の任を担うべき大国隆正の門弟たちも、明治四年から九年の政権内部の権力闘争により要職から一掃され、「復古」の充実を図る人材は皆無となった。維新政府はそれ以後、福沢諭吉流の「文明開化」路線をひた走る。
●明治維新にさいして「王政復古」が叫ばれたが、それは「復古」とは言いながら、実は日本列島全域に及ぶ「神国日本」の新しい国家体制を樹立するという意味で歴史上初めての課題に直面していたのだった。
 わが国の歴史を省みれば、神武天皇ご創業に自覚された「肇国の理想」すなわち「神国日本の建設」が十全に実現された時代は残念ながら存在しない。天皇の「祭ごと」を承けて「政ごと」を付託された各時代の最有力者が「神国日本の建設」を想わず、ひたすらに「私領」の拡大に専心したからである。だが、わが国が国家的な危機に直面するたびに自覚されたことは、「祭ごと」と「政ごと」の一体化であったと言ってよい。
 明治維新を担った尊皇の志士たちは、前時代の幕藩体制の下ではむしろ不遇な下層階級に属する者たちだった。下層の武士や貴族、また町人たちだったのである。この意味で、明治維新においては、その意向を絶対に無視できない最有力者なる者は存在しなかった。
 したがって、維新回天の事業における勲功はあっても、それをもってただちに「私領」の拡大に趨る怖れはなかった。すなわち、明確な指針さえあれば、わが史上初めて「神国」に相応しい国家体制が実現できたはずなのである。それは天皇の「祭ごと」を基とし、政権担当者の「政ごと」に一致協力するという国家体制であったはずである。
 しかるに、「政ごと」に自信のなかった政権担当者たちは、天皇をいわば借りだして東京に遷都し、その後もお返し遊ばすことなく、借りっぱなしになっているのが現状である。いま改めて未完の維新を引き継ぐ第一歩は、天皇陛下の「祭ごと」の府を大和・飛鳥に戻すことである。それこそが、西洋流の発展史観を脱却する日本文明の発露となろう。ただ、「政ごと」としての首都は東京であってもかまわない。ゆえに、「還都」という。
●西洋文明の基本的性格をよく表わしている「発展史観」とは、その本質をなす征服掠奪の所業を湖塗するための文飾に過ぎない。その文飾の緻密、規模の大、廉恥を弁えぬ横柄に恐れ入った明治の先人たちは、それを文明と勘違いして、我を卑小とし彼を貴しとして「文明開化」に邁進したが、それは早合点であった。文明にあらざる彼の「発展史観」に対置すべき言葉はわが国にはない。そこで、誰もが抱いている思いを仮に「共生史観」とでも名づけよう。この「共生史観」からは、強奪の市場原理も植民地主義も出てこない。共に生き、共に栄え、不足があれば補い合い、助け合う暮らしぶりがあるばかりである。そして、「共生史観」の根底にあるものは、先人の亀鑑であり倣うべき倫理である。「復古」とは、原理の深化であり維新なのである。大和・飛鳥への還都こそ、わが日本文明の実現であり、社稷の根本を建てることである。

 新還都論 Ⅱ ── 「まつりごと」とは何か
     (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)5月1日第161号)

●先号に「新還都論」なる一文を草したが、今にわかに「大和・飛鳥へ還都せよ」などと唱えれば、何たる時代錯誤、狂人のたわごとと嗤われるかもしれない。それは覚悟のうえである。当今の世風からすれば、奇矯の言であることを承知のうえであえて言っている。
 明治御一新以来すでに百三十有余年、首都が東京にあることに疑いをもつ者は、皆無であろう。繰りかえし言う。「首都東京」は臨時措置であった。それが時の経過のまま放置され、常識と化したにすぎない。
●国家とは何か、民族とは何か、という本質からすれば、わが近代国家百年の大計は易きに流れたと言うべきである。亡国の危うきにさらされた国難を凌いで、新しい装いの下によくぞ日本を存続させたことは、語り継いで余りある先人の偉業である。だが、形ばかり残って本質たる中味を失っては、何の意味もない。外に備えるに外に倣うこと急であったことは論を待たないが、日本が日本たることの本質を不断に更新する努力は等閑にされて、いまやその必要を感じる者すらわずかである。
日本はいま亡国の瀬戸際にある。
●改めて言うが、これはけっして?史の自然の然らしむるところではない。国家を解体し、社会の紐帯を断ち切って、家族を崩壊させ、国家をバラバラな個人の寄せ集めにすぎない烏合の集団へと転化させたい一派があって、われわれはその思想工作に骨の髄まで洗脳されかかっているのである。試みに一七七六年の「イルミナティ綱領」や一八四八年に発表された「共産党宣言」を見よ。両者の酷似は当然のことだが、そこには共通して国家解体・家族崩壊のプログラムが露骨に表現されていることに気づくであろう。
●国家・民族解体、家族崩壊の思想戦を戦うためには、日本が日本たりうべきギリギリの本質は何か、これを失えば日本が日本でなくなるような最後の一線とは何なのかを明確に承知していなければならない。
 私見によれば、日本の本質とは、一天万乗の天皇陛下を戴いて君臣相和し、肇国の理想たる神国の建設に邁進することにある。神国とはひとりわが日本の繁栄を謂うのではない。今日の言葉でいえば、地球共存、世界協和とでもいえようか。
 日本にとって「まつりごと」とは、この理想の誓約を神人ともに更新する「祭ごと」と、この理想を具体的に施策する「政ごと」とに分かれるが、順序からすれば「祭ごと」が主であり、「政ごと」はそれを承けて行なわれるのである。「まつりごと」総体の責任はあげて天皇陛下にあり、「政ごと」の実行責任者は、勅を受けてその任に当たる。政策実行者は時代によって大連・大臣であったり、太政大臣であったり、はたまた征夷大将軍、総理大臣であったりしたが、「まつりごと」の總責任者たる天皇陛下の勅を受けて任に当たったことに変わりはなかった、……この度の敗戦までは。
●これを支那・西洋流の唯物論的国家観から見れば、あたかも二人の王が統治しているかのごとくに見えることから、「二王制」と誤解する向きもあるが、けっしてさにあらず。二王が並立していると見るのは、神人共知の本質を見誤った謬見である。
「二王制」といえば、中央アジアに覇を唱えた突厥が唐に敗れ西方へ長駆してカスピ海西岸域に建国したハザール王国が聖王・俗王の二王に統治されたとの伝承があるが、いまだつまびらかではない。
 また、中世西欧における神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立も、国家にとって本質的な二王制実現の途上で頓挫した苦渋の?史だったとも考えられる。
●わが国において、「まつりごと」の衰微は、崇神朝の同床共殿の廃止からはじまった。すなわち、天照大御神のお祭りを宮中において天皇陛下みずから行なわれることを廃止し、別所に別職(齊宮)をもってお祭りすることに変わったのである。わが日本の本質を取りもどすには、ここに歸る必要がある。 

 新還都論 Ⅰ ── いざ大和、そして明日香へ
     (世界戦略情報「みち」平成15年(2003)4月15日第160号)

●先に本欄で満洲民族・満洲語の消滅を憂い、満洲建國の祭儀の行なわれた天壇の現状を案じたことがある。しばらくすると、その心配はわが身にもどってきた。よその国の話ではない。わが日本もいま、日本語を失い、民族としての文明の力を崩壊せしめるかどうか、それとも一大奮起して世界のこぞって拠るべき共生の指導原理を提案できるかどうか、その瀬戸際に置かれているのだと、改めて気づいたからだった。
 試みに思え、神武天皇が肇国の誓いを立てられた、あの橿原神宮の地が外資に買収され、遺伝子組み換え食品会社の工場に成り果てることを。そんな身の毛のよだつような事態もいまや、あながち荒唐無稽の想像ではなくなってきた。
●いまこそ、目先の利便や合理を突き破って、わが日本が日本たり得る本質を正さなければ、日本は亡びてしまうであろう。そのもっとも中核たるべきは、恐れながら申し上げるに、天皇陛下の「まつりごと」にある。明治維新によって西洋風の近代国家の道を歩んできた日本の在り方からすれば、「まつりごと」とは「政」の一字で表わされることを誰しも疑わない昨今であるが、実は「まつりごと」には、もうひとつの重要な面がある。それを一字で表わせば、「祭」である。
 周知のように、憲法によって天皇陛下には「国事行為」なるものが規定されていて、例えば国会の開会を宣言するとか、諸外国への親善訪問とかがそれに当たる。しかし、そうした「政」の領分に属するお役目は、御不豫の場合の慣例にもあるように御名代でも代行できる。
 ところが、もとより下々の関知するところでないので僅かに洩れ承るにすぎないのだが、陛下のもっとも重大なお役目は、天神地祇をお祭りしていただくことである。こちらは、余人によって代理することのできない激務であると聞く。
 もちろん、陛下の御心に従って、御詔勅を携えた幣帛使を立てて各地の神々の下へ派遣することは可能であるし、かつてはそうしたお祭りの仕方が行なわれた。近時、そのような幣帛使の例は、絶えてない。GHQの占領政策により「国家神道」の最たるものとして厳禁されてきたからである。
●神と民との間にあって、民を思い、神をお祭りすることが、歴代の天皇陛下のお役目であった。「民を思う」ことが「政」となって、今日の政治に連なっているのだが、國家としての社稷の中核たる「神をお祭りすること」の方は、陛下に御不自由を強いて久しい。
 ここを正さなければ、枝葉末節をいくら弄くったところで、日本は本来の日本たりえない。ときに自然の猛威にさらされても、神々の恵に浴し、神々と共に生きてきた日本民族の暮らしの中核には、すべての労働が神事であったと喝破した三橋一夫の説にあるように、年中行事としての祭りがあり、さらに日本国中の祭りを支えているのが、歴代の天皇陛下の「まつりごと」だったのである。
●その「まつりごと」という激務を行なっていただく天皇陛下の「宮処(みやこ)」として、関東の地が果たして相応しいかどうか、いま改めて問うべき秋にあると思う。そのそも、陛下が関東まで御臨幸となったのは、倒幕戦において心許ない薩長軍に天佑神助を仰ぐための、いわば戦時非常態勢であった。日露戦役のとき広島に置かれた大本営に御出御になったのと同じである。それが、薩長の不甲斐なさのゆえに、ズルズルと今日まで継続することになったのである。
●ひところ喧しかった首都機能の移転先同士の誘致合戦も、この不況でなりを潜めているようだが、
私が言いたいのは、便宜や利便のための首都移転とは異なる。御一新以来、永く御不自由を堪えて
いただいてきた天皇陛下の「まつりごと」の場として、「宮処」を京都へ、いや日本発祥の地である大和、
そして明日香へと「還都」することこそ、いまもっとも大事な「国事行為」ではなかろうか。

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 6
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)9月1日第278号)

●祖国が敗れたという意気阻喪させる確かな報に接しても、西川一三はなお敵後背地での潜行を止めようとはしなかった。とはいえ、敗戦のショックは西川を強かに打ちのめした。しばらくは為すこともなく、カーレンボンの町で乞食の群れに身を投じて地上生活を送ったのも、深い虚脱感の然らしむるところだったろう。
 その絶望の底で一念発起して、こうなったら本物のラマ僧になってやろうと考えたところが西川の常人と異なる点である。それから、チベット三大寺の一つであるレポン寺に入門、内蒙古綏遠トムト旗出身の蒙古人ラマとして一万名近くのラマ僧の中で厳しい修行の日々を送ることになる。
『秘境西域八年の潜行』の中公文庫版第三巻の前半部分「チベット後編」は、実際にラマ教の修行に身をもって打ちこんだ体験から得られた貴重な記録である。そこには寺院の組織から経済、日常と特別の法会の様子、日々のラマ僧の生活の裏表までが注意深い観察眼によって活写されている。
●同じ蒙古人である慈愛深い俊才青年ラマ「イシ」を師匠としてレポン寺での修行生活は始まった。西川は「入蔵以来、半年間の放浪や乞食生活で、会話の方はどうにか不自由しなくなっていた」が、チベット文字についてはまったく無知だった。というのも、当時のチベットでは、日常生活にほとんど文字を必要としなかったからだ。
 西川の蒙昧に驚き呆れた師匠だったが、「この有様では、……俺の弟子として、俺の顔がたたないから、せめて教典が読めるようになるまで俺が教えてやる」と言ってチベット語のイロハ(文字の発音と書き方)から教えてくれた。
 イロハが終わると、今度は経典の丸暗記である。「シャブロー」という、礼賛の経典の四句をまず暗記することから始まった。「先生の名を辱めない弟子になろうとの意気に燃えている」西川にとっては、四句が八句になり、一二句になっても何ほどのこともない。ほどなく経典の紙(チベット語経典は木版刷の紙を綴じないで重ねたもの)を二枚、三枚と暗記するようになる。文字もイシ先生以上に上手に書けるようになる。すると、「先生は驚きかつ喜ばれ」るし、僧舎のラマ僧たちの間でも「凄い奴だ」と評判になる。
 礼賛の経典が終わると、「般若心経やロルマー、モンラム等の経典を、またたくまに暗記した」と言うのだから、西川の真剣さが分かろうというもの。入門して二ヶ月も経つころには、数種の重要経典を暗記し、どんな経文でも一応読めるようになっていた。
●その年、昭和二一年の四月一五日にレポン寺に入山した西川は、一一月の新学期からは二年生に進級した。
 その頃になると廟の法会の様子にはひと通りなれて、ラマとしての自信もつき、蒙古ラマからは信用されて、「日本人だ!」と疑われる心配も、まったくなくなった。ただチベット語の勉強という希望に燃え、ザンパー粥をすする貧乏生活ではあったが、生活は安定し、平和な日々が続いていた。(下巻、一九九~二〇〇頁)
 そのまま修行を続けていれば、西川は蒙古人ラマとしてレポン寺の高僧に昇っていたかも知れない。だが、五年後には中共軍のラサ侵攻、さらにその八年後にはダライ・ラマもチベットを脱出、インドで亡命政府を樹立するという激動が待ち受けており、いずれにせよ西川の静かな修行生活は続かない運命にあった。しかし、実際に西川の静謐を破ったのは歴史の動乱ではなく、同志木村肥佐男からその年の大晦日に届けられた一通の手紙であった。
●「至急会いたい」という木村の手紙に何事ならんと心配しながら明けた元旦のその日に、西川は木村に会った。
 木村はカーレンボンでの勤め先であるチベット新聞社の社長から「西康省のターチェンロー(打箭炉)とユシュ(玉樹)の、シナ側の状況を探索して来る」という仕事を依頼され引き受けた。だが、貰った前金の五〇〇ルピーの大半はとうに使い果たし、インド側には帰れないし、行くとしても西康は生きて帰れないかも知れない秘境地帯。いっそこのままドロンして内蒙に逃げて帰ろうか、と煩悶しての相談だった。
 木村が危険な仕事を余りにも安易に引き受けたことに、西川は呆れる思いだったようだ。
 しかし、行くもならず退くもならず苦悶するばかりの木村を前にしては、
「それなら俺も、君の仕事を手伝おう」と元気づけるほかはなかった。
 異国の空の下で心の許すことのできる者は、ただのふたりきりの私達には、それが当然のことであった。この機会に日本人の、まして外国人も足跡未踏の西康省を踏破することは、いつかは国家のために役に立つかも知れぬ──という祖国愛と冒険心、否、死生など眼中にない、私の熱い血潮がたぎってもいたのである。(同二〇四頁)
●一方で西川は、木村がチベット新聞の社長タルチン・バーブー氏から依頼されたこの仕事の性格を冷静に見抜いていた。それは英国の情報機関が発注した仕事だったのだ。
 第二次世界大戦はチベット高原で睨み合っていた英国と中国との眼を外に向けさせ、チベットには大戦中はまったく平和な風が吹いていたのであったが、終戦と共に再び両国の睨み合い、探り合いが始まったのである。英国としては自分自身でチベットに潜入できないため、常にチベット人を使って、シナのチベットへの前進基地ターチェンロー(打箭炉)と回教徒のチベットへの侵入基地ユシュ(玉樹)の敵情を探らせていたが、チベット人達は前金を貰うとドロンをきめ、いい情報は得られなかった。ところが、印蔵国境のカーレンボン一帯に網を張っていた英国の情報機関が獲物を捕えたのである。この網にかかったのが木村君で、それを知らせたのは、ほかならぬ、当時カーレンボンに住んでいたひとりの青海蒙古のラマであった。彼は英国情報機関の下で、ブータン、インド国境方面の情報収集に当たっていたが、終戦の年カーレンボンに出て来た木村君を日本人と見破り、通報した。狡猾な英国情報機関は、木村君が日本人であることを知っていて知らぬ顔をし、蒙古人木村として、目的地(打箭炉、玉樹)まで行って来たら、前金の外に五百ルピーを出すと相談を持ちかけたものである。こうして木村君のラサ出現となった。なお木村君を英国側に通報した青海蒙古人は、ブータンに潜入中、誰に殺られたのか、後頭部に一撃をくらってあえない最期を遂げたということである。(同二〇四~二〇五頁)
 すなわち、青海省や西康省(現在は四川省に統合)も含む広義のチベットは、英国と支那が鎬を削る、諜報戦の最前線だったのである。そんな中で、前金たった五〇〇ルピーの端金を貰って敵地に出かけようと言うのだから、西川が木村に呆れるのも無理はない。
●何よりも西川を困らせたのは、慈愛溢れるイシ先生の信頼を裏切らざるをえなくなることであった。また、人々から信用されて落ち着いた環境の中で真剣に取り組んでいたチベット語や経典の学習がせっかく軌道に乗ってきたのを中途で諦めることだった。だが、それよりもっと苦しいのは、同じ目的を抱いて秘境に潜入した同志の木村を見捨ててしまうことだった、と西川は書いている。多くの困難を物ともせずに出かけた西康の旅は、西川自身が「生きていたということが不思議なくらいだった。潜行八年の間、これほど苦しい旅をしたことも初めてだった」と洩らすほどの苦難の連続であった。だが、その成果は充分にあった、と私は高く評価する。その一つは西康人(カンバー)の気質に直に接したことである。ラサ中心の中部チベット人から強盗だと西康人は嫌われていたが、それは産物に恵まれない自然の悪条件から来るので、付き合うと性格は竹を割ったようにあっさりしていて、確かに強盗もするが恵んでくれる慈悲心も持っている、と西川は証言する。同じチベット族ではあっても西康人と中部チベット人はまったく性格が異なるのだ。中共軍が大自然の要害を克服してラサに侵攻したのも、自国の中央政府や軍隊の悪政を恨み憎んでいた西康の一般民衆によって勝敗が決せられたからだ、とまで西川は解釈している。
●これから日本がアジアの盟主としての責任を全うしようとするなら、先人たちが生命をも顧みず万難を排して踏査探索した情報を徹底的に活用しなければならない。その意味で、西川一三の西域潜行から得られた情報は第一級の輝きを何時までも失わないだろう。いずれ支那は崩壊する。そのときには、モンゴルやウイグル、チベットなど、現在支那に囲い込まれ民族絶滅の危機に曝されている人々と日本は直に付き合うことになる。揺るぎない絆を結ぶことを、今からじっくりと、備え育んでおきたいものである。 (おわり)

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 5
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)8月1日第277号)

●もし再び米国と戦うことになったら今度は絶対に負けない。勝つと見通しが立つまではジッと隠忍自重して牙を研く──そういう思いを新たにする時期が今年もやってきた。先の戦争に関する番組が特集される時期でもある。それにつけて、いつも思うのは、わが作戦指導がいかに将兵の命を軽んじたかということだ。そして、それにも拘わらず、わが将兵たちがいかに勇敢に戦ったかということだ。
 将兵の命を軽んじる弊風は、敗戦に際して戦闘を停止し撤退せよとの命令を等閑にしたことにも、端的に表われている。西川一三も木村肥佐男も敵地および敵後背地に潜入した諜報工作員であったから、彼らに撤退命令が届かなかったのも無理はない。だが理解に苦しむのは、そもそも撤退命令を発しようという動きすらどこにもなかったことである。諜報工作員の命など使い捨てだったのか。ここにも将兵の命を余りにも軽視したわが軍の弊風を見るのである。
●祖国は敗れたとの風評に接しても、「日本が敗れるはずがない」という想いが打ち消した。西川一三が日本敗戦を否定しようのない現実として認めたのは、チベットからヒマラヤを越えてインド側の高原の町カーレンンボンで木村肥佐男に再会し数々のニュースを知らされたからである。カーレンボンはダージリンの東方にあるチベットインド間を結ぶ交易の要衝であった。木村は昭和二〇年の一〇月中旬にここに到着し、同地で「チベット新聞社」を経営するラダック出身チベット人のタルチン・バーブー氏に認められ同社の雑役として職を得ていたのだ。西川は木村の集めていた英語や支那語の新聞・雑誌によって「広島、長崎に投下された原爆、その原爆の威力、米軍の沖縄上陸、怨むべきソビエトの参戦、ミズリー号においての無条件降伏に至った祖国敗戦の実相を知った」のだった。カルカッタの町に出れば日本領事館もあるし、日本が本当はどうなっているのか判るだろうと、インド仏蹟巡礼に託けチベットを発った旅の途中だった。
●木村から祖国敗戦の確かな情報を見せられても、蒙古人ラマと偽って旅を続けている西川は連れの同僚蒙古ラマの手前もあり急に日本人にもどることができない。そのまま旅を続けるほかないのだった。そして、カルカッタに着いたとき、必死で日の丸の旗を探すのだが、どこにもない。それも道理、戦争の勃発と同時にカルカッタ駐在の日本領事館員や居留民一時抑留の後に強制退去させられていたのだ。それが分かったとき、西川はこうつぶやく。
 これまで張りつめていた心は、まったく気抜けしてしまった。そして、自分に課せられていた責任から一応解放され自由の身になったような、ホッとした気分だった。一方今まで、喜びにつけ、悲しみにつけ、励ましてくれた国家が消えてしまったような、なんともいえない心細さを感ぜずにはいられなかった。
 ああ、父母のもとを離れて父母の恩を知り、国を離れて国の恩を知る。それらがいかに自分にとって大きな心の灯であったかを、痛いほど身にしみて感じたのであった。

 西川一三が偉いのは、祖国敗戦のショックと明日からどう生きるかの不安に苛まれながらも、とにかく生きるのだ、どうかして生きるのだ。明日から再出発だぞ!と心機一転、さらに潜行を続けようと決心した点である。(つづく)

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 4
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)7月15日第276号)

●わが国の戦前の諜報員養成機関としては陸軍中野学校がよく知られているが、西川一三も木村肥佐男も中野学校の出身者ではない。昭和一二年(一九三七)に、ジンギス汗第三〇代の末裔徳王(一九〇二~六六)を首席とする「蒙古連合自治政府」が日本の肝煎りで成立して張家口市を首都に定めた。いわゆる「徳王工作」の成果である。蒙古および西域に対する医療・教育・文化面の工作を担当する機関として早くに(昭和九年?)設けられていた「蒙古善隣協会」もこの張家口を拠点とした。蒙古善隣協会は様々な活動を行なって、イスラム教徒子女のために「回民女塾」という女学校なども運営したが、「蒙古並びに西北支那奥地における文化工作要員養成」を目的として昭和一四年四月厚和に創立したのが「興亜義塾」であった。木村と西川はその卒業生である。
「一種の情報機関であったらしい」と海野弘(『陰謀と幻想の大アジア』)がいう「西北事情()研究所」も興亜義塾と同じ厚和に昭和一七年に設立された。後にイスラム教と日本人との関わりを詳しく解説した『日本イスラーム史』(日本イスラーム友好連盟、一九八八)を書いている小林不二男が所長で江(こう)実(みのる)もいたが、ほとんどは氏名を詳らかにできない者たちの集まりだったのだろう。
 それに比べると、今西錦司を所長に迎え支那西北部から蒙古・西域の学術的な研究を目的に昭和一九年三月に設立された「西北研究所」(張家口)は、石田英一郎や藤枝晃、江上波夫、梅棹忠夫などいう錚々たる人材が集った。
●蒙古善隣協会は大東亜省から資金の提供を受けていたことに示されるように、満洲国の成立に連動する、紛れもない国策機関だった。したがって、わが国にとって戦況が不利になると、自然に活動を縮小する事態となり、最終的に撤退せざるを得なくなるのも致し方のないことであった。先に私は、西川や木村をせっかく養成し起用しながら、その活用に徹底を欠いたと言ったが、わが国にとっては初めての試みである満洲国建国や大陸内部における研究・調査や諜報活動において、むしろよく健闘したと評価すべき点も少なくない。だが、自ら掲げた理想を日本人が内部から踏みにじったことは否めないし、また戦略・戦術において稚拙だったことも事実である。
 その中にあって、いわば思いつきで西域に送られ、忘れられ、そして最期には見捨てられながら、西川一三にしても木村肥佐男にしても、その使命を全うし続けたのだった。謀略活動という極秘任務に従事しながら、立ち往生した隊商の突破口を開くために西川は生命の危険を顧みずガル河の寒流に身を投じて英雄となったのだし、木村もダンサンハイロブと妻ツェレンツォーの絶対的信頼を勝ち得て共に探査行に赴くことになったのも、スパイ容疑で逮捕されたダンサンハイロブの一命を救い結婚の面倒を見たことからだった。●諜報員の養成機関だった中野学校は「誠意と真実をもって秘密戦に従事する戦士の養成」を校是とした。謀略の世界で、それは大いなる矛盾である。だが小野田寛郎少尉などの中野学校出でなくとも、誠意と真実をもって諜報活動に従事した者がある。その端的な例が、西川一三や木村肥佐男である。国家の戦略は稚拙であっても、民はその赴く所で深い交わりを育んでいる。それを我々は継承すべきである。(つづく)

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 3
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)7月1日第275号)

●西川一三の西域潜行と時期とところを同じくし相前後して踏査したのが、前にも述べた木村肥佐男である。木村にもその踏査探索旅行の報告書がある。中公文庫『チベット潜行十年』という本である。西川一三の本は現在絶版、抄録版が『秘境西域八年の潜行 抄』(中公文庫BIBLIO)としてあるものの、完全版は古書で手に入れるしかない。木村の方は新刊でも入手できる。それをようやく手に入れた。
●木村肥佐男の報告書もそれ自身充分に貴重なものである。そのうえ、西川があまり詳しく語っていない点も両書を読み併せれば自ずから明らかになってくる。特に帰国の経緯については、木村の本の方が断然詳しい。
 祖国敗戦の報に接し使命の終わったことを自覚しつつ、さらには帰心矢の如き焦燥に駆られながらも、なお二人が活動を続けようとしていたことも分かってきた。西川一三はさらに足を延ばしてビルマ方面への探索を行なおうとしていたようだ。その不撓不屈の精神力には感服のほかない。いっぽう、木村肥佐男はチベットの近代化維新に加勢助力しようとしていた。その著書でこう語っている。
 私はチベット滞在中、革新的青年グループと知合いになって、チベットの中世的封建政治を改革しようと意図していた。日本の明治維新を参考にして、世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の二院制度、及び廃藩置県をモデルに、貴族や寺院の領地接収とその代償としての処遇案などを提案した。また改革の根本的精神として、五ヵ条の御誓文を翻訳したりもした。
 そのようにして出来上がった改革案を主だった者数人の連名で内閣に提出した。それが原因となって一九四九年、私を含む革新的青年グループの全員が、チベットから追放処分を受けた。それは中国人民解放軍がチベットに進出する前年のことであった(追放された人たちの多くは、その後チベットに帰り活躍している)。  (同書二八三~二八四頁)
●木村肥佐男は革新的青年グループの中心人物ブンツォ・ワンジルとの交遊からチベット維新に加担することになったものだが、すでにしてチベットの命運は風雲急を告げようとしていた。チベットが国府関係中国人全員の退去を命じたのは中国軍のチベット侵攻を予期したからであるが、皮肉にもそこに蒙古人に扮装した木村肥佐男も含まれていた。果たして、翌一九五〇年の一〇月、支那共産党解放軍がチベットに向けて進撃を開始する。その結果、チベットは現在に至るも支那に編入されることになった。木村はいう。
 チベットは現在中国に編入され、その一自治州にすぎない。しかし歴史的に見て、それまで漢民族の支配を受けたことは一度もなかったし、文化的にも完全に独立していた。そして数百年来、独立主権国家として存在してきたのである。チベットに比べてはるかに独立国家としての形式を備えていなかった外蒙古が、今日独立して国連加盟を認められていることを思えば、チベット人の悲しみが判るであろう。
●北朝鮮がテロ支援国家の指定から解除されたことはアジアに大動乱を巻き起こす前兆と言ってよい。支那は早晩割れるであろう。この動乱を好機としチベットが独立を回復するため、先人西川一三や木村肥佐男の衣鉢を継いで、われわれはチベットに対してあらゆる助勢・助力を行なう必要がある。(つづく)

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 2
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)6月15日第274号)

●朝鮮戦争が起きる直前の昭和二五年夏、西川一三はGHQから突然の出頭命令を受け取った。八年ぶりに敗戦の祖国に帰還してまだ一ヶ月も経たない時であった。米国の情報機関は西川や木村の動向をチベット滞在中から掴んでいた節がある。そこで、西川が故郷に帰ってホッとしたのも束の間、早速GHQから出頭せよと呼び出し命令が出されたのである。もちろん、いまや中共とソ連に挟まれる国際的要衝地帯となったラマ教圏を身をもって踏査した西川から情報を搾り取るためにほかならない。
 GHQによる情報搾取は東京駅前の郵船ビルの一室で、土曜半日と日曜日に休むほかは毎日九時から四時まで、およそ一年間にわたって続けられたのだった。こうして出来上がったのは、大陸の広大な地域を網羅する正確無比の兵要地誌だった。それは内蒙古から出発して寧夏省、甘粛省、青海省、チベット、青康省、インド、ネパール、ブータンと西川一三が踏査した地域の詳細な地図が基本となった。その地図には、各部落の所在はもちろん、部落内の民家の数までもが記されていた。そして地誌には、各地の地勢、気候、民族、風習、軍事設備・兵力、ラマ僧の状態や廟の構成など西川の知る限りの詳細な情報が盛りこまれていた。
●実は、西川は不本意ながらGHQによる情報搾取に応ぜざるを得ないことを予期し、その前に正式の復命報告をしておきたいと外務省を訪れたのだったが、そこで玄関払いにも等しい扱いを受けたことはすでに述べた。西川の潜行八年間の表向き身分は「張家口日本大使館調査室勤務」というもので、その証拠に行方不明者とされながらも終戦まで大使館から両親の元へ月給が送られていたのだ。復命する義務があると考えるのは当然である。
 西川一三の例が教える教訓は、日本が諜報活動の成果である情報の取扱においていかに拙劣かつチャランポランであるかということだ。優秀な諜報員がいないのではない。貴重な情報が蒐集されないのでもない。せっかく優秀な諜報員が苦心惨憺して貴重な情報を集めて送っても、それがまったく中央で顧みられないのだ。戦前のスペイン大使須磨彌吉郎が送った東機関の情報にせよ、イタリア大使白鳥敏夫が操った「ふくろう」の情報にせよ、外務省公電のファイルに綴じられてただ死蔵されただけである。西川の得た情報は日本の公的な機関に所蔵すらされなかったのだ。
●すっかりGHQに情報を吸い取られた感の西川は、それでも反骨の忠誠心を忘れてはいなかった。
 八年間死地をくぐり、日本政府から一顧にも付せられなかった私はこの間、日当一千円を米軍から受取っていた。……私は貴重な情報をアメリカに売るのかという、心のとがめを感じないわけではなかった。が、それならば何故、外務省が私にしかるべき態度をとらなかったのかという反撥の心があった。……しかし私は、通訳と向き合う生活をはじめて間もなく、すすめてくれる旧師もあって私なりのひそかな決心を固めていた。……決してGHQには売らない八年間の自分の足跡というものを、自分のものとして真実の記録として残すことを思い立ったのである。(『秘境西域八年の潜行』上巻一九頁)
 その真実の記録こそが、中公文庫の『秘境西域八年の潜行』上中下三冊に結実したものなのである。(つづく)

 反支那地帯を行く ──西川一三の秘境西域潜行 1
     (世界戦略情報「みち」平成20年(2008)6月1日第273号)

●西川一三(かずみ)『秘境西域八年の潜行』を漸く中巻まで読み終えた。なにせ文庫版(中公文庫)とはいえ、六百余頁の本で上中下の三巻もある。ただ、中味は圧倒的に面白く、読みはじめには一気に読み通したい衝動に駆られた。だが、途中まで進んで、西川一三の粒々辛苦の旅そのものを知るにつけ、さらには本書を書き上げる際の苦労に思いを馳せるようになって、サッと読んだのでは申し訳ないような気持ちになったのだった。そこで、旅程の区切りごとに「無人境篇」「チベット前編」「ヒマラヤ篇」などと分けてある中に、さらに小見出しが1、2、3、……と番号で振ってある。この小見出しのひとつ分を読んだらひとまず休んで、内容を反芻することにした。それで、中巻まで来るのに半年近くかかったのだ。
●西川一三は木村肥佐生(ひさお)とともに戦前の昭和一五年に内蒙古の厚和に開設された「興亜義塾」の卒業生であった。興亜義塾とは日本のための中央アジア工作に挺身する日本人青年を教育する、いわばスパイ養成機関である。木村はその第二期生、西川は第三期生だった。そして、昭和一八年それぞれが別々に蒙古人ラマ(僧侶)に扮装し、内蒙古→青海→チベットを横断する諜報活動の旅に出る。ところが奇怪にも、その目的は、「とにかく行ってこい」式の曖昧模糊としたものだった。そして、祖国敗戦を潜伏先のチベットで知った西川が戦後も時間が経った昭和二五年に漸く帰国して調査成果を報告しようと外務省を訪ねたところ、「それどころではない」と玄関払いを喰わされた。いまだ占領下にある外務省にとって「秘境西域」での調査報告など何の益もない疫病神のようなもので、さっさと忘れてしまいたい「大東亜共栄圏」という悪夢の名残と思われたに違いない。
●西川を木村を送りだした日本はその復命を何ら必要としなかった。ここに日本の底の浅さがある。木村肥佐男は早くに『チベット潜行十年』を著わし、西川一三は『秘境西域八年の潜行』を著わした。単なる旅行記として読まれても充分すぎるほど面白いが、西川報告は日本の対外政策とくにユーラシア政策を立案する上において不朽の価値をもっていると私は思う。木村報告はまだ読んでいないが、西川の本を読んでまざまざと分かるのは、西川一三が「秘境西域」で出逢った人々のもつ反支那感情の根強さである。さらに、もうひとつ教えくれるのは、そこには、われわれ日本人と道義を同じくする兄弟がいるということである。私流の別の言葉でいえば、紛れもなくそこに「ツランの同胞」がいるのである。
●「同文同種」「一衣帯水」などと嘘八百を言いつのる支那と日本が関わりを持って碌なことはなかった。遣唐使の廃止を進言した菅原道真公がいまに庶民の厚い信仰を集めるのも御霊信仰説など学者のたわごとで、その卓見の
故ではなかろうか。支那との付き合いは本号常夜燈に説くように「和して同ぜず、敬して遠ざける」のがよい
のである。聖火リレーで俄にチベット問題が再燃したかに見えるが、チベットが支那から独立するのは、いずれ
時間の問題だろう。青海チベット鉄道の開通によって、チベットの破壊はいまや急ピッチとなっている。だが、
支那が関与すればするほど、チベットは離れていくだろう。なぜなのか、西川一三の潜行調査報告が教えて
くれる。(つづく)