15 「ツラン」とは神を仰ぐ意志なり
     (世界戦略情報「みち」平成22年(皇紀2670)7月15日第320号)

●通称ツランと呼ばれる信仰心
光合成(こうごうせい)を以て出現した生命メカニズムは、その生(お)い立ちを示す遺伝子により、宿命的な要素と運命的な要素が絡まり、その歴史を遺伝情報に刻んでいくが、定住あるいは移住を問わず、植物細胞と動物細胞の関係は多くの近似性(きんじせい)を有する。帰巣(きそう)本能が働くのも、種の絶滅(ぜつめつ)を畏(おそ)れる本能が働くのも、細胞内の遺伝子に蓄えられた情報により、普遍的(ふへんてき)自然性と結ぶ機能を持つからだ。人が植物観察に興趣を(きょうしゅ)深めるのも、もとより近似性を有する遺伝細胞に由縁(ゆえん)があり、往古(おうこ)その観察は現代以上に丹念(たんねん)を尽くしていた。
 植物細胞に同じ遺伝子セットを有し、形態組成に伴う分化表現の一つに出現するものを斑(ふ)というが、葉身(ようしん)に現われた斑紋(ふもん)の分類法もあり、緑色植物すべてに原因また表現が違う様々な斑の出現が見られる。これら斑を生み出す原因の一つにキメラもあるが、ギリシャ神話に出るキメラ=キマイラは、頭がライオン・体がヤギ・尾がヘビゆえ、言葉が乱れる現代はキメラとモザイクの分別も見失い、神話を読み込む力も衰えているために、敢えてキメラとモザイクの違いを明らかにしておきたい。
 モザイクは受精卵(じゅせいらん)一つに生まれる一個体が、二つ以上の異なる遺伝子型細胞で成り立つ状態を指すが、それは現在DNA分析で見られるように、組成各部で体色や性質など入り混じる意味を有している。一方のキメラは親が二対以上に由来する二つ以上の胚(はい)あるいはその一部からできた一個体を指すため、異なる遺伝子型が組成各部で混在する様子は初期段階で承知している。つまり、普遍的自然性と結ぶ機能とは、動物細胞も植物細胞も同じ遺伝情報のもと、その出自は隠しきれないのであるが、知の病に冒されるほどモザイクやキメラを好むようになり、文明という隠れ蓑(かくれみの)を装うことに埋没(まいぼつ)するのだ。本稿にキメラの区分ほか、易変性(えきへんせい)緑色遺伝子の突然変異また易変性白色遺伝子の突然変異など、その図解説明を書き込むのは無理なため、他書に委ねることを詫びておきたい。
 海の民が都市を灰燼(かいじん)に帰(き)せしめたこと、その破壊事由は物欲に耽(ふけ)り富を競い争う社会を焼き尽くし、荒廃地(こうはいち)で経済水準の低い生活を営もうとしたこと、都市文明を嘲弄し(ちょうろう)て軽蔑(けいべつ)するかのような痕跡を刻んだこと、それはホメロスの叙事詩(じょじし)に照らせば、ヘラドス文化の戦士階級が戦利品を捨て去る思想に通ずるという説を前記している。傭兵を集団で雇った列強に対し、その集団は奴隷層との同盟に成功すると、特にギリシアに近い硬直した東部都市構造を破壊し、海の民と呼ばれる連合体を構成したともされる。どうあれ、海の民が大規模な集団を形成したり、列強を脅かす存在となり、広域に及ぶ都市の破壊を成し得て解散するには、相応の求心力と遠心力が働く仕組みができなければ成り立たない。それは上下エジプトのような妥協の産物でもなければ、旧ヒッタイトの特定しえる参謀格(さんぼうかく)の陣頭指揮でもなければ、強烈なカリスマ性を放つ英雄が出現したわけでもない。その答を導く古事記の霊言五〇音に順えば、その原動力は信仰心にあり、その信仰を行き渡らせた交流回路には神ツランの存在があったと見るほかない。
 上下エジプト妥協の産物アテン一神教を起ち上げる時空には、列強の弾圧暴走に屈する緒王国があれば、列強に立ち向かい権謀術策の限りを尽くす部族連合などもあり、そこに生じる阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図は平面史観では成り立つまい。エジプト史の凄(すご)さはミイラという立体技芸を施すとともに、パピルスという平面図法を添(そ)えた点にあり、到底(とうてい)シュメールの及ぶところにあらず、それは見えざる霊的存在まで表わそうとしたことに通じるが、肝心要の神を習合させる冒黷に気づかなかった迂闊(うかつ)が惜(お)しまれる。つまり、神という公の意が人という私の知を率いる本義を弁えないままに、妥協の産物を現出させたがゆえ、本能的属性を抑えきれずに富を貪り(むさぼ)つくした。その反面教師として出現したのが神を仰ぐツランという意志であり、その潜在的信仰心が核になったのであり、それは国家という概念とは無関係なポテンシャルゆえに、消滅の事態など起こり得ようがないのである。

●夢想イスラエル建国の作り話
実体なき国家イスラエルが存在したかのように装う根拠は旧約のみであり、その夢想(むそう)を本当のように扱う御用史観の思惑(おもわく)も判らないではないが、現代イスラエル建国を機に繰り返される狂騒を(きょうそう)目の当たりにすると、ただ慈悲の念を禁じ得ないでは済まされまい。現代社会は他人事で済まされるものは何一つないため、その現実を自分のものとし、世界中の史家が克己自立に励むほかなく、まず政治は歴史を奪い合う職能とし、少なくとも政治に期待するような愚昧から脱せねばならない。戦争は何も軍事力の衝突に限られず、小田原評定に明け暮れる政治テーマそのものが戦争を誘引(ゆういん)するのであり、御破算(ごはさん)で願いますると按(あん)ずる妥協の産物に戦争の原因が潜むものなのだ。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も根は一つと承知しており、ただ複雑に絡み合う根の枝により、根元(ねもと)に辿(たど)り着くのが困難な過程で無理に引き千切っては結び直そうとするため間違いが起こるのだ。
 神アテンと神ツランは対発生(ついはっせい)しており、後者は外交書簡(しょかん)を以て前者に伝えるべきを訴え善処(ぜんしょ)を促したが、前者の後見役(こうけんやく)たる神アメンにさえぎられ、外政に関しての前者は無力に等しい状況下に置かれていた。アテンとツランの決定的相違点は、自主性に制限が加わる前者と異なり、後者は自主性を第一義に据(す)えた点にあり、それゆえ前者は王朝に名を刻む栄光が許されており、後者は潜在力すなわち日陰(ひかげ)に咲く月見草(つきみそう)になったのである。これを古事記は月読命としており、アテンは王朝に名を刻んでも水蛭子(ひるこ)ゆえ、後年ユダヤと改名その漂流地を(ひょうりゅうち)イスラエルと呼ぶが、日本では後世エビスの名で迎えることになる。ユダヤ教に興味のない筆者は幸いにして天童本があるため、時代を前九〇〇年代に進めエジプト第二二王朝シェションク一世がリビア出身の傭兵後裔(こうえい)ということに触れたい。第二一王朝プスセンネス二世の第一王女マートカラーと結婚し、軍司令官の地位を経て王となるシェションク一世は、先王の許可を得て実父の像をアビュドス神殿に設けている。
 前九四五年~前七一五年を第二二王朝とするエジプトは、シェションク一世に始まるが、事跡(じせき)は聖牛アピスの埋葬儀式に際し、祈祷文(きとうぶん)を記録その中に刻まれている。先王の許可を得てシェションク一世は実父メシュウエシュの像をアビュドス神殿に建てているが、祖(そ)は先住リビア部族の有力家系に連(つら)なり、実父はエジプトで軍人政治家兼アメン大司祭として混乱期を乗り越え、群雄割拠のエジプトを統一に導いたとされる。つまり、古来エジプト上流階級に属した書記を筆頭とする文官は、神官団が生み出す妥協の産物に歩(ほ)を合わせて増長し、第一八王朝の繁盛を(はんじょう)機に王族の周辺を固めつつ、新都アケトアテン開基とともに軍人蔑視(べっし)の風潮を強めていき、前記カデシュ戦に臨(のぞ)むころは傭兵を主力とし、第一九王朝末期~第二一王朝期すなわち海の民の時代は、ほとんど傭兵でファラオの軍を構成それが第三中間期とされる所以に通じている。その間アテン一神教を生み出す神官団の威(い)を汲(く)む書記のストーリーこそが、夢想イスラエル建国という台本であり、そのガイダンスに随い(したが)脚色されたオリエンテーションがユダヤの源流なのだ。
 前九四五年~前九二四年の在位シェションク一世すなわちリビア系エジプトは、第二五王朝でヌビア系エジプトに代わるが、それは歴代ヌビア王がエジプトへの移住を嫌い遠隔(えんかく)操作を施したという説もあり、どうあれアテン一神教の呪縛は覚醒(かくせい)ないまま、以後のエジプト史そのものを旧約の中に閉じ込めていく。因みに、ギリシャ神話ではリビアについて、その呼称をエパポスとメムピスの娘リビュエに由来するとし、リビュエがポセイドンとの婚姻により、北アフリカ地中海沿岸一帯に権限を及ぼし、隣接(りんせつ)エジプト西側の訛(なま)り言葉が国名リビアの語源というが、古代リビアはアフリカ全体を指すという説もある。リビア系ファラオは傀儡(かいらい)ヒクソス王朝と異なり、その出自は明らかなため、ここにエジプト王朝は名実(めいじつ)ともに王族の遺伝子が薄まり、以後二度と純正の(じゅんせい)王族系統に復活できないまま、東方オリエントで起こる覇権抗争を以て命脈が絶たれる。

●繰返される妥協の産物
前一一八二年~前一一五一年の在位ラムセス三世は、古代エジプト史上において最後の大王(だいおう)といわれ、葬祭殿(そうさいでん)マディーナト・ハブ神殿に刻む海の民に関する記録の重要性は今も史家の能力が問われる史料とされている。以後この第二〇王朝は前一〇七〇年で幕を引くことになり、三世以降ラムセスは最後の一一世まで連続使用の呼称となる。この間アテン信仰は海の民の中に芽生(めば)えた信仰ツランと並立するかのように、すでに放浪(ほうろう)やむなき移住生活を強(し)いられていたが、その絆を(きずな)刻む住民基本台帳を整え終えると、ユダヤと名を改め天啓一神教の確立を目指す準備期間としていた。前一〇〇〇年の前後はオリエント全体が低迷(ていめい)し、列強も内向き傾向を示しており、小国家群にも自主性回復の機が訪れ、実体なき建国宣言が行なわれても、大した問題にならないため、ここにユダヤはイスラエルという曖昧(あいまい)な言葉を選び建国宣言だけ発し、以後その既成(きせい)事実を積み上げることに専念(せんねん)ひたすら富の形成に励(はげ)み、覇権に狂う列強を操る存在に活路(かつろ)を開いていった。
 シャルマネセル三世(在位前八五八~八二四)の名前は「神シャルマヌは至高(しこう)なり」と翻訳されるアッカド語の「シャル・マヌ・アシャレド」に由来するという。また祖父アッシュール・ナツィル・アプリ王の由来は「神アッシュールは後継者を守護する」との訳し方で王碑文(ひぶん)に刻まれており、祖父は即位後一七年間で遠征一四回に及び、占領統治に総督府(そうとくふ)を設置、総督に命じ従来の貢納(こうのう)方式を改めさせたという。父も祖父と同じ遠征を繰返し、即位直後シリア方面へ出征したときは、アラム系ビート・アディニを征服して近隣諸国への脅威(きょうい)を増したとされる。この父の代に築かれた新都カルフ(現ニムルド)が首都アッシュールからの遷都先(せんとさき)で王碑文に刻まれ、前七二二年~前七〇五年サルゴン二世在位中にドウル・シャルキン(現イラク領コルサバド)へ遷都するまでアッシリアの首都機能が克明(こくめい)に識別(しきべつ)できる史料とされている。
 さてシャルマネセル三世の代には、ユダヤ一二支流を暗示するように、すでに反アッシリア同盟一二ヶ国の締結(ていけつ)が存在したとされるが、同三世は構(かま)わず遠征を繰返し、各国の貢納は膨(ふく)れ上がるばかりといわれる。その遠征先はシリア方面に止(とど)まらず、バビロニアやカルデアの征服にも成功し、長期戦に持ち込まれたのはウラルトゥ戦とメディア戦に臨む時ぐらいとされる。前八三二年を過ぎるころ、同三世は子アッシュール・ダイン・アピルを軍総司令官に任じて指揮をとらせたが、前八二七年に入り、子が突如謀叛(むほん)を起こし首都カルフを除く都市大半を征圧(せいあつ)し、そのクーデターを鎮圧平定(ちんあつへいてい)できないまま、同三世は死去その後継は娘婿シ(むすめむこ)ャムシ・アダト五世に決まる。先王の娘サンムラマートは後(のち)アダト五世死去を受け摂政サ(せっしょう)ムラマトとなるが、その顛末(てんまつ)は後述とし、まずアピルの謀叛鎮圧を引き継ぐアダト五世を追うと、前八二〇年まで鎮圧に時空を費(つい)やし、それもバビロン王と支援条約締結すなわち妥協の産物で達成している。
 そもそもアピルは何ゆえクーデターを起こしたのか、その鎮圧が長引く事由に関連して以後の歴史は結ばれるため、ここはユダヤ書房が描く旧約に照らし通説が史実(しじつ)とする点に触れよう。本義の心得ないまま偽善(ぎぜん)を装う列強の大義名分は、アダト五世とバビロン王が結びアピルのクーデターを鎮圧したが、それは敵がアピルに代わり、ウラルトゥあるいはメディアに移るだけゆえ、繰り返される戦争に終止符が打たれるなど有りえない。そんな折り支援条約を結んだバビロン王が死去その後継王は条約を逆手(さかて)にかざし、アッシリアの苦戦に際し弱みにつけ込む条約の扱い方をし、当初アダト五世もバビロニアの国益優先を呑む対応に甘んじたが、結局アダト五世はバビロニアとも戦うことになる。アッシリアは前八一三年バビロニアに勝利その王を捕虜(ほりょ)とし、アダト五世は人質(ひとじち)で王を自国に連れ帰る策を講ずるも、敵は人質を無視して前八一一年に再戦を敢行(かんこう)これも征圧(せいあつ)すると、直轄占領体制下に置くよう指示その渦中(かちゅう)アダト五世も死去する。

●覇権に狂う国家と富の関係
アダト五世の後継アダト・ニラリ三世は幼少のため、ここに王妃(おうひ)サムラマトによる摂政経営が始まるも、実際は中央を宦官(かんがん)に任(まか)せ、地方は総督に委(ゆだ)ねられ、その財政は歴代王の戦利的蓄財(ちくざい)を売り食いする体制ゆえ、以後の汚職構造は下級役人にまで及んでいく。アッカド語で神アッシュールをつづる記録があり、そこに伝説上の女神セミラミスが登場する話があり、この女神はサムラマトがモデルとされる。女神セミラミスは美貌(びぼう)と叡智(えいち)を兼ね備え、贅沢(ぜいたく)を尽くし、好色かつ残虐非道(ざんぎゃくひどう)の神人(しんじん)とされるが、両親はシリア人の男とシリア産の女神デルケトーだとされる。セミラミスは幼いとき棄(す)てられ、鳩が拾い育て成長して都市ニネヴェを築いたアッシリア王ニヌスに寵愛さ(ちょうあい)れ、子ニニュアスを出産し、この子が王位を巡る話の主人公で次の諸説が生じている。
 王ニヌスが何者かに殺され子ニニュアスが王となる説があれば、王を毒殺そして王位に就く犯人は子ニニュアス自身とする説もあれば、さらに王ニヌスが神託(しんたく)で子ニニュアスの謀叛を予知そのため王自身が事前に譲位(じょうい)して鳩に変身昇天する説もある。さて、このエピソードの意味するところは何なのか、前記アッシュール・ダイン・アピルの名を記憶して以下に述べるアッシリア王ピレセル三世の事跡を踏まえれば、イスラエルが夢想の建国と断ずる筆者の意も明らかに浮かび上がろう。摂政サムラマトの王権はエジプトに出現した女王と何ら変わらず、管領統制と汚職構造は今昔歴史の常道ゆえ、王権のみならず、国家頽落(たいらく)の傾向に歯止めが利(き)くはずもない。後継王ニラリ三世が成長その子三人が順次に王を継いでも、王権の回復など一向(いっこう)に見られないまま、前七四四年~前七二七年の在位という王ティグラト・ピレセル三世が登場する。この王はアッシリアの首都機能を克明に刻む王碑文に名が見られず、出自不明とされているが、弱体化した王権を復活させ、隆盛を誇(ほこ)る端緒(たんちょ)の開明王とされながら、他方で簒奪(さんだつ)の王とも見られている。
 ピレセル三世は宦官が中央で権力を蹂躙し、将軍が王権を抑え、総督が半独立状態で勝手に振る舞う中で王位に就くと、直(ただ)ちに各州を細分化し、総督の権限を剥(は)ぎ取り、軍制改革で直属の常備軍を編成し、宦官の権力を弱める体制を整えたとされる。この強制的な内治策(ないちさく)を成功させるため、再び遠征に次ぐ遠征の繰返しに手を染め、まずイランの高原西部に居住した諸部族の服属(ふくぞく)を達成すると、数代前に同盟を結んだウラルトゥも占領、勢いはシリア方面に及び小国を容赦(ようしゃ)なく征服していったという。それらはリビア系エジプト王朝がパレスチナを支配下に置きつつも、本国エジプトでヌビア系ファラオに代わる結果をもたらし、結局エジプトの影響力は根こそぎ総ざらえされたという。このピレセル三世の名はアッカド語でトウクルティ・アピル・エシャラというが、旧約ではプルと蔑む(さげす)名で登場するため、少し旧約の言い分を交え略述してみよう。(つづく)