かぐや姫の誕生     索引  

                    

  01 「舎衛女のうた」齋明紀童謡考 1 
         (世界戦略情報「みち」皇紀2666(平成18)年8月1日第233号)

天童竺丸「巻頭言」紹介文(同号)
 すでに本誌で一度予告しながらも、なかなか果たせなかった懸案の宿題を今回からようやく果すことにしたい。日本とイラン(ペルシア)の古代交流史すなわち「日波古代交流史」に画期的な一頁を切り開くとともに、わが国の古代史そのものにも新たな光を投ずることになるであろう、孫崎紀子(まごさきのりこ)氏の論文の紹介である。
 思えば、自衛隊派遣先であるイラクのムサンナ県から来訪したイラク人歓迎パーティーの席上で、元イラン大使の孫崎享(うける)氏御夫妻に隣り合って親しくお話を窺ってから、すでに二年もの時間が経ってしまった。
 そのとき紀子夫人から、「斉明紀(日本書紀の斉明天皇條)に出てくる童謡(わざうた)は古代ペルシア語で解ける」とお聞きして驚愕した私は、取りあえず手許にあった箸袋の裏表に要点をメモしたものの、それだけで永年にわたって謎とされ何人も明快に解くことのできなかった斉明紀童謡の意味を納得するには至らず、「書いたものもある」とのお言葉を頼りに、御無礼を承知の上で、玉稿を読ませていただきたいと、無理やりお願いして、FAXで送っていただいたのであった。
 A4判用紙に四枚の論考と別紙一枚に斉明紀童謡を逐語解釈した孫崎紀子氏の玉稿を一読して、私は興奮した。日本書紀の斉明天皇條に出てくる童謡は、何とペルシア語だったのだ!
 永年のもやもやした疑問が完全に氷解した一瞬だった。
 もちろん、細部については理解の及ばない点もあったが、大筋ではこれでほぼ間違いないと得心したのだった。
 斉明紀は謎に満ちている。東アジアの古代世界における日本のプレゼンスの決定的分水嶺となった白村江(はくすきのえ)の大敗は、第三八代天智天皇二年(六六三)のことであるが、朝鮮半島制覇に臨んだ唐軍の楚定方(そていほう)将軍には突厥(とつけつ)の王子契苾加力(けいひつかりき)が従っていた(天智紀称制元年七月條)ことに象徴されるように、永年の強敵であった突厥や吐谷渾までをも下して歴代未曽有の版図を領した唐朝の軍は、いわば当時の国際連合軍であって、これに対抗するのは東では日本と高句麗のみ。
 すでに麹氏高昌国が滅ぼされて西域全土が唐領の西州に編成された西方では、突厥の残存勢力やその他の国々がササン朝ペルシアを盟主に仰いで唐に対抗しようとしたものの、ササン朝にすでに昔日の勢なく、ササン朝最後の王ヤズダガルド三世(六三二~六五一)が新興のアラブ侵入軍に圧されつつ東方に逃れて暗殺されたからにはもはや頼むに足る勢力のない状況にあった。
 この突厥残存勢力や西域諸国が西に滔々たるアラブ侵攻軍の脅威に曝されつつ、東の脅威の唐を擦抜けて、唐と対峙する遥か東方の国日本と結ぼうとしたのが、孝徳・斉明天皇紀に何度も出てくるトカラ国(吐火羅・都貨邏)ではないのか。
 それこそ国家が存亡するかどうかの危機の渦中にあったわが国の正史たる書で白村江の一大決戦へと至る刻々の動きを怪異の現象を織り交ぜて伝える中に特筆されているトカラ国が、薩摩の南に位置するトカラ列島(宝七島)やビルマの突羅成国、タイの堕和羅国(ドヴァーラヴァティー)などという時局に無縁の国であるはずがない。
 わが国のペルシア学の権威伊藤義教氏の『ペルシア文化渡来考』(昭和五五年、岩波書店刊)では、トカラ国をはっきりトカーレスターンToxârestân またはトハーレスターン Tuxwârestân に同定している。
 トカーレスターンとは、わが国から見れば西域のさらに奥に位置する地域で、「アフガニスタン北部から隣接するソ連領の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、バルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域」(伊藤義教)と説明されている。ソ連崩壊後には、タシケントを中心にしてカザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスのイスラム系諸国が寄り集う地域となっている。
 このトカーレスターンこそは、古来より諸民族興隆の原点であり、まさにユーラシア大陸ハートランドであり、また誤解を恐れずに私見を述べれば、ツラン民族の故地でもあった。
 そのトカーレスターンからわが称徳・斉明朝におそらくは公式の使節団が来たのである。その目的が何であろうと、それならばわが正史に特筆するに値する事件であったろう。
 孫崎紀子氏の論考はこういう先学・伊藤義教氏の説を踏まえた上でさらに一歩を進め、古来より謎とされてきた斉明天皇紀六年條末尾の童謡を、古代ペルシア語でみごとに解明するとともに、その成果に基づいて書記編纂者がそもそも未整理のまま書き残していた都貨邏国の人たちの相互の関係までも明らかにする、画期的な労作であると考えられるのである。
 それでは、孫崎紀子氏の玉稿である「舎衛女のうた」をご紹介することにしよう。以下の項が「斉明紀童謡」とトカラ国の人々の謎を解明した孫崎稿のすべてである。
 掲載に際しては努めて原文を尊重し、明らかに誤記と思しき個所二、三を改めるに留め、日本書紀からの引用も太字で区別するのみで、一切のルビも注記も記さなかつた。

●「舎衛女のうた」
 あなたに危険の迫ることがないように
 人を惑わせる仕事
 彼は神ではない
 そして、道を知らせて下さい
 火の労働者よ
 友愛と光が少ない
 彼は神ではない
 そして、道を知らせて下さい
 火の労働者よ
 私の記憶があなたと共にありますように
 彼は神ではない
 そして、道を知らせて下さい
 火の労働者よ

 西暦六六〇年、このうたが現れた年、トカラ人乾豆波斯達阿は日本に妻を残して、本国に旅立った。彼は天皇に願い出て、再び朝廷に仕えたいと申し出、兵士数十人を得て、海路西へ向かった。この歌は、まるで残されたトカラ人の妻が、夫を想って歌った歌のように思える。斉明天皇の御世のことである。
 日本書紀第二十六巻斉明天皇の六年のおわりの項に、こんな事が書かれている。(朝日新聞社刊日本古典全書より)

 この歳、百済のために新羅を伐たむと欲し、すなはち駿河の國に勅して船を造らしめたまひき。已にをはりて、挽きて麻績の郊に至れる時、その船、夜中に故無くして、艫舳相ひ反れり。衆、終に敗れむ事を知りき。科野の國言さく、「蠅、群れて西に向ひて、巨坂を飛びこゆ。大きさ十いだきばかり、高き蒼天に至れり」とまをしき。或は救の軍の敗績れむ怪といふことを知りき。童謡ありて曰ひしく、

  まひらくつのくれづれおのへだをらふくのりかりがみわだとのりかみをのへだらをらふくのりかりが。

 最後の童謡の解釈は諸説あるらしい。実は、冒頭の詩は、これらの音をペルシヤ語として解釈してみたら、容易に浮かびあがってきたものだ。
 興味深いのは、リフレーン部分が三カ所あるが、このような詩の形は、イランに古くから存在する。因みに、構成を書いてみる。(以下の別紙参照)。


 Hepburnがヘボンに聞こえるように、このペルシャ語が当時の日本人には、まひらくつのくれづれ云々と聞こえたのではないだろうか。
 孝徳天皇の御代から斉明天皇の御代にかけて、日本書紀にあらわれるトカラ人に関する部分を抜き出すと、一つの物語が浮かび上がってくる。

 六五四年(孝徳天皇の白雉五年)夏四月、吐火羅國の男二人女二人、舎衛の女一人、風に被ひて日向に流れ来たりき。
 六五七年(斉明天皇の三年)秋七月、都貨邏國の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊てき。言さく、「臣等、はじめ海見の嶋に漂ひ泊れり」とまをしき。すなはちはゆまを以ちて召しき。辛丑の日、須彌山の像を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の會を設けき。暮、覩貨邏人を饗へたまひき。或る本にいはく、堕羅人なりといへり。
 六五九年(斉明五年)三月、丁亥の日、吐火羅人、妻の舎衛婦人と共に来り。
 六六〇年(斉明六年)七月、また覩貨邏の人乾豆波斯達阿、本土に帰らむとし、送使を求ひ請して、「願はくは後に大国に、朝らむ。所以に妻を留めて表とす」と曰ひき。すなはち数十人と西の海つ路に入りき。
 六七六年(天武天皇の四年)春正月、丙午の朔、大學寮の諸學生、陰陽寮、外藥寮、及び舎衛の女、堕羅の女、百済の王善光、新羅の仕丁等、藥と珍異等物を捧げて進りき。

 つまり、六五四年舎衛女(シャー女。シャーはペルシャ語で、王の意。シャー女は王の娘)がお供と漂着、六五七年堕羅(ダラ)がお供と漂着。二年後、シャー女とダラは結婚。翌年、ダラは出発。それから一六年後、大きくなった堕羅女(ダラの娘)と舎衛女は、新年の拝謁。(舎衛女をペルシャ語にあてはめ、シャーの娘、又、達磨のダル+阿で達阿はダラ、つまり堕羅との解釈は伊藤義教先生の御説に依る。)
 この頃の日本は、日本書紀によればダイナミックな時代だ。六四五年に大化の改新がはじまる。斉明天皇は重そで、それまでの動きのあった頃、皇極天皇として治世。大化の年号と共に孝徳天皇の御代となり新制度が整う。そして再び斉明天皇の御代となる。この時代は空に龍にのる人が現れたり、水路の大工事が行われたり(狂心の渠)、皇子である後の天智天皇が水時計を作ったり、何か特別な事が起きている。また、国内においても、大陸との間においても、関係が盛んで、天皇は沙門智通や智達を玄奘に教えを乞う爲、唐に派遣したりもしている。
 一方、この頃のペルシャも大変な時代だ。六四二年、アラブの力に押されて、ササン朝ペルシャは滅亡する。最後のシャー、ヤズデギルド三世は、宮廷人四千人を連れて、これ以後十年間トカリスタン(トカラ國、今のアフガニスタン)をさまよう。そして、メルヴで水車番に殺される。六五二年、これをもって、ササン朝ペルシャは完全に滅亡する。
 ヤズデギルド三世の子ピールーズは、中国にまで逃亡。そこで時の皇帝からツジキーク(今のタジキスタン)の治世者として任命される。以後中国とは深いつながりを持ち、中国にて亡くなる。
 舎衛女が日本に着いたのは、ヤズデギルド三世の亡くなった翌年にあたる。
 ところで、ヤズデギルド三世には正妃から三人、他に二人、娘がいたことが知られている。正妃の三人の王女はメッカに行き、そのうちの一人、シャーハバヌーは、四代目カリフ、アリの息子、フセインと結婚している。アリには、ハッサン、フセインの二人の息子がいたが、二代目イマームとなったハッサンは子なくして亡くなり、フセインが三代目イマームとなった。フセインは、その後カルバラで殉死。今に続く、シーア派最大の行事の一つアシュラは、この時の記憶だ。このフセインの子が四代イマームとなった。
 中世、世界の半分と讃えられた、サファヴィー朝の首都イスファハンからさらに南下した所にヤズドという街がある。ここには一五〇〇年燃え続けている火があることで有名だ。イランの中で、一番多くゾロアスター教徒が住む街である。この郊外の山の中にアラブから逃げてきてここで亡くなったシャーの娘の伝説が残っている。
 一方、前出ピールーズは、日記を残しており、その中に姉が皇帝の妃となっているとの記述がある。
 これで三人の王女の行方がはっきりしたが、残る二人は行方不明だ。このうちの一人が舎衛女なのかもしれない。上記、ペルシャ語版の詩の中にアラビア起源の言葉が四から五個使われている。ササン朝ペルシャの首都は、マダイン(クテシフォン)。今のバグダッドの郊外にあった。地元の言葉(単語)をいつしか使う様になる事はないだろうか。 (つづく)

  (世界戦略情報「みち」皇紀2666(平成18)年9月1日第234号)
 本国へ旅立ったダラについては、どうだろうか。
 出発前に名乗り出た名前、ケンズハシダラまたはカツハシダラ(乾豆波斯達阿)について、「ハシ(波斯)」がペルシャを指す事に異議はないだろう。「達阿」はダラ。伊藤義教先生の御説である。
 では、「ケンズまたはカツ(乾豆)」については如何。「クンドウズ」というトカリスタンの一地方という説がある。それも納得ではあるが、これも音をペルシャ語、特に、当時使われていたパフラヴィ語にあてはめてみると、「ケイ・アズ・ハシ・ダラ」となり、「ケイ」は「王子」、「アズ」は「……から」。つまり、「ペルシャからの王子・ダラ」とも読める。特に、「ケイ」は、「今、パレードの馬の背に乗り、これから玉座に向かう人」という意味をもつ。
「シャー女」との結婚によって、滅亡したササン朝を再建すべく、自ら「ケイ」となって出発したダラ。それを、人を惑わせる仕事と舎衛女は歌ったのではないだろうか。(おわり、2002年8月10日)