かぐや姫の誕生     索引  

                    

  02 「トカラ列島宝島考」齋明紀童謡考 2 
         (世界戦略情報「みち」皇紀2666(平成18)年9月1日第234号)

 種子島と奄美大島にはさまれた海域に、七つの有人島と五つの無人島からなるトカラ列島が点々と並んでいる。その南端に近く、宝島という島がある。中央に、いくつかの小さな峰を従えた標高二九二メートルのイマキラ岳が立ち、周囲一三・七七キロメートル、人口一一三人(平成一七年)、サンゴ礁にかこまれた美しい島である。
 トカラ列島には古代朝廷の内侍制が関わりを持つといわれる「ネーシ」(内侍)とよばれる巫女による独自の祭祀をはじめ、独特な風習や伝統文化がある。海神系、地神系、祖霊系、仏教系、修験系、生業系、武神系の神々とその聖地に加え山岳信仰もあり、神々の島と呼ぶにふさわしい。
 実は、トカラ列島とは近年の地理学者による命名で、もとは、七島列島といわれた。孤島性を保ちながら、地理的にヤマト文化圏と琉球文化圏が接触する所であり、現に両方の文化が複雑な形で混在する。ここは、お正月が三度ある島々でもある。つまり新正月、旧正月、そして七島正月とよばれるトカラ列島独自のお正月を祝う。この七島正月は別名親魂祭り(オヤダマ祭り)ともよばれている。
 宝島では前出「ネーシ」は「ヌーシ」と呼ばれる。又、列島には平家落人伝説があるが、宝島でも、平家出身という家系が今も続いている。近世には島の付近に海賊船が横行した。ここを過ぎる台風の数も多く、島の周辺には古来、多くの船が沈んでいる。文久七年(一八二四)にはこの島に英国船が牛を求めて現れ、島側と牛の争奪戦となった。その時の戦場はイギリス坂と今も呼ばれている。この事件が翌年、異国船打払令の発布につながった。
 宝島は本来、トカラ島と呼ばれた。日本書紀によると、斉明天皇の頃六五七年に、最初は奄美に漂着し、後、はゆまをもって天皇に召されたペルシャ人ダラとその一行がいた。トカラ国の人と書かれている。六五二年にササン朝ペルシャは滅亡するがその前の一〇年間最後のシャー(王)であるヤズデギルドⅢは四〇〇〇人のお供を連れてトカリスタン(=トカラ国 ── 今のアフガニスタンあたり)をさまよい歩いた末、六五二年、水車小屋で水車番に殺されてしまった。ダラがそのお供の中にいたとすれば、トカラ国の人と書かれても不思議はない。なぜなら、既に首都マダイン及びペルシャ本土はアラブによって奪われ、ササン朝ペルシャという国は存在しなかったからである。
 ダラは、その三年前(六五四年)に、やはり、トカラ国から日向に流れ着いた舎衛女(シャー女 ── シャーの娘、シャーは王の意のペルシャ語)と六五九年、結婚した。結婚の報告なのか、この年、二人で天皇に拝謁している。そしてその一六年後、ダラ女(ダラの娘)は舎衛女といっしょに、天武天皇に拝謁している。ダラ女の成人の挨拶だろうか。だが、この時ダラは、舎衛女とダラ女の許にはいなかった。結婚の翌年(六六〇年)、彼は斉明天皇にペルシャ人ダラと名乗り願い出て、必ず戻って再び朝廷に仕えると、そしてその証しにと妻を残し、本国へと数十人と共に旅立っていたのである。日本書紀には、『西の海つ路に入りき』と書かれている。
『西の海つ路』というのは遣唐使のルートであろうか。遣唐使の路は壱岐・対馬から新羅に沿って登州に至り陸路長安に向かう北路と、五島列島から大陸にいたる南路(太洋路)、そして、種子島からトカラ列島を通り奄美大島、時にはさらに沖縄を通り大陸に至る南島路が推定されている。遣唐使の渡海については、その困難だったことはよく知られている。帰路の航海も危険であり、日本へ辿りつけなかった阿倍仲麻呂の例もある。また遣唐使に任命された菅原道真がその停止を要請したのも航海の困難さが理由の一つであった。
 さて、トカラ国から来たペルシャ人ダラとその一行が南島路を取り、熟練の航海士も悩まされるという七島灘で遭難、流れ着いた先が宝島つまりトカラ島という仮説は許されるだろうか。
 仮説を後押しするかのように、宝島の風習の中にはササン朝ペルシャ時代の風習を偲ばせるものがみられる。その一つはあの七島正月である。
 宝島では、七島正月とは一二月一日から六日間祝われる。正しくは一二月一日の前の晩から始まり六日後にオヤダマ祭りは終了する。オヤダマはあの世へ帰っていくのだという。
 新年に先祖の魂が帰ってきて、ある期間後発って行く、このことがすでにペルシャの新年と同じ要素を持っている。しかも、オヤダマ祭りが六日間続くことは、ササン朝時代の暦の制定に起因する当時の新年の混乱まで、そのまま保存しているようで興味深い。
 そもそもゾロアスター教の暦は一二ヶ月×三〇日、つまり三六〇日でまわっていた。季節を合わせるために、適度に閏をいれていたらしい。ところがある時、一年を三六五日と制定したために、年末の五日間が問題となった。本来、新年の帰ってくる魂は新年の前の晩に帰ってきて家族と数時間を過し、新年の明け方戻ってゆくとされていた。この間に五日間がはさまり、混乱が生じたのである。新年を五日間の最初の日に祝うべきか最後の日の翌日に祝うべきかで論争になった。結局、新旧の聖なる日をつないで六日間連続の祭日と制定されたのである。ホルミズド一世の頃、つまり紀元三世紀ころの出来事である。しかし、どちらが本当の新年かとの論争は、ササン朝時代を通して続けられたという。
 さらに、新年の時期については、次のようにササン朝ペルシャとのつながりを匂わせる事実が存在する。
 慶長一四年(一六〇九)、薩摩藩主島津家久による琉球征伐があった。この時トカラ列島の人々は藩軍の水先案内をすることとなった。これが『正月』とぶつかるために延期を願いでたが聞き入れられず、一ヵ月早く『正月』を済ませ、馳せ参じた。これが七島正月の起源であると「十島村記」は伝える。
 では、侵攻したのは何月だったのであろうか。
 琉球への侵入経路と日付けを見ると、藩軍はまず二月六日、鹿児島を出発する。三月四日、山川港出港。三月八日、奄美大島制圧。三月二二日、徳之島制圧。四月一日、首里城占拠。抵抗らしい抵抗もなく、琉球国王と重臣を捕虜にして五月二五日、藩軍は帰陣した。
 これらは旧暦であるが、『正月』を一ヶ月早めるということは、旧正月と重なる。このことから、トカラ列島の人々は、当時、旧正月を祝っていなかったことがわかる。また、旧暦では、春分は二月一七日頃である。ちょうど侵攻真っ最中である。これにより、当時のトカラ列島の人々がササン朝ペルシャにおける正月(春分)と同じような時期に自分たちの『正月』を祝っていたこともわかる。さらに、この時以来七島正月なるものが生まれたのではなく、すでに存在していたこともあきらかとなる。
 この年からトカラ列島は薩摩藩の支配下に入り、検地もはじまっている。暦もこの時から薩摩藩と同じものになったであろう。従って、この時から旧正月が島々で始まったと思われる。ところが、結局この年、トカラ列島の人々は自分たちの『正月』をすることができなかった。一方、新しい暦では正月(つまり旧正月)が制定されている。そこで自分達古来の七島正月を新年(一六一〇年)が来る前に一ヶ月早く、つまり旧暦一二月一日に祝ったのではないだろうか。そして、それ以来毎年そのように繰り返されてきていたのではないだろうか。ここで自分たちの『正月』を区別する必要が生じて、『七島正月』と呼ぶようになった。これなら結果として、十島村記の記述が理解できる。
 その後、明治五年、新暦が制定された。こうなると旧暦一二月一日は、ぴったりではないが新暦の正月と重なるので、七島正月をさらに一ヶ月前に動かした。都合、三度のお正月の誕生となったわけである。入ってくるものを拒まず、そのまま誠実に守っていくトカラ列島の人々の気風のようなものを感じる。
 六六〇年に出帆したダラかその一行の中のペルシャ人がトカラ島に流れ着き、もし暦を失っていたとしても、自然の移り変わりから春分の日をみつけだすのは容易であったろう。春分がわかれば、その日からゾロアスター暦を数えることは可能である。従って、当時のササン朝ペルシャで祝われていたもう一つの正月(七月二一日ころ)も当初は島に存在していたに違いない。
 しかし、一六〇九年以降は、こちらはいわゆるお盆と重なっていったのではないか。
 宝島の方から聞いた『七島正月は、お盆と同じ』という言葉が耳に残る。一三〇〇年以上前のトカラ島に流れついたかもしれないトカラ人のしていたであろうことそのままである。 (つづく、2006年4月14日)