かぐや姫の誕生     索引  

                    

05「齋明紀童謡考」の創見について2 (天童竺丸解説) 
         (世界戦略情報「みち」皇紀2666(平成18)年11月1日第238号)

●画期的な功績の数々
 孫崎紀子氏「齋明紀童謡考」三部作の第一の功績は齋明紀の古来より謎とされて久しい「まひらくつのくれぐれ……」という童謡(わざうた)を見事に解明された点にあるが、第二の功績はこの童謡に現われた古代の日本とペルシアの交流という確かな事実を踏まえて、齋明朝の日本の国際的な展望を一挙に広げたという点である。
 朝鮮半島の帰趨をめぐって早々と唐に屈した新羅とあくまでも徹底抗戦を貫く高句麗との対立、そして新羅救援のため大軍を派遣した唐と百済再興を目指して大兵を派遣した日本との対立を軸にして、「東アジアにおける激動の七世紀」を語るのがこれまでの歴史の通例であった。
 孫崎紀子氏の論考を踏まえて考えると、この七世紀の激動が単に東アジアのみならず、実は中央アジアの動乱とも密接な繋がりをもっていたことが、よく分かる。
 ササン朝ペルシアの滅亡がわが国にまで影響を及ぼしていたことは驚きである。ペルシア滅亡は支那の唐朝へと亡命したペーローズ(卑路子)王子の事跡から、「トゥーランドット」という御伽噺を生み出した。だが、たわいない御伽噺は別にして、ペーローズ王子が唐に救援を頼みながら、なにゆえに遙かな海の彼方のわが国にまで重臣を派遣してきたのか疑問である。
 それは日本とササン朝ペルシアとはツランの同胞として早くから相知る関係にあったからではないかと私は考えている。この問題については、亡命したペルシアの王子の物語がなにゆえに「トゥーランドット」(ツランの娘)として語られて残ったのかも含めて、いずれ稿を改めじっくり論じてみたいと思う。
 孫崎紀子氏の功績の第三は、わが国で行なわれてきた「盂蘭盆会」という年中行事がペルシアの新年祭と密接な関係をもつことを指摘された点である。
 明文化された教義・教典をもつことを潔しとしないわが国の信仰は、年中行事として永く伝えられてきた日々の「祭りごと」の中に現われているが、その年中行事の中で新年を迎える正月の行事とともに、祖先の霊を迎え祀る「お盆」の行事は特別に大切な行事である。
 孫崎紀子氏はこの「帰ってくる魂」という考え方自体がササン朝ペルシアに起源をもつのではないかと指摘するのである。しかも、お盆の行事が陰暦七月一五日に行なわれるということが、これまたペルシアとの関連を示すのではないかという。
 ペルシアでは、古来新年を春分の日に祝っていたが、不正確な暦の影響により新年祭の日が次第にずれてきて、ササン朝ペルシアが滅亡するに至ったペーローズ王子の頃には、ファルバルディン月の第一日目であるオルマズド日(つまり正月)は春分の日をはるかにずれて七月になっていた。
 つまり、七月に祝うということに注目すれば、お盆は本来は新年祭だったのである。だが、すでに日本には新年祭は陰暦一月に厳として行なわれていたので、新年祭という性格を外して、「帰ってくる魂」を迎えて祀るという性格だけを残した行事、つまり「お盆」となったことが考えられる。
 そして、このお祭りが伝えられたのは紛れもなくササン朝滅亡の頃だと、時期的に限定される。なぜなら本来は春分の日に祝われていたものが、次第にずれてきて、七月に祝われるようになったのが、ちょうどペーローズ王子の時代だからである。
 ここで問題として残るのは、わが国にはもともと「帰ってくる魂」という観念が存在したのか否か、という点である。
 精査したわけではないので迂闊なことは言えないのだが、いま記憶だけを頼りにすると、「帰ってくる魂」というような考え方は本来日本になかったのではないか。死穢を忌んで、死者の世界と生者の世界とを截然と分けるという観念は早くからあったようだから、むしろ死んだ者とこの世とは切れてしまうと考えたのだろう。
 ただし、死んだ祖先・祖霊であっても、神として祀られる場合は事情は別だった。神になり得ない一般の死者の魂は、死んだら死んだきりというのが日本の信仰だったと思われる。
 とはいえ、死者を別世界に分けて遠ざける考え方から、自分たちの身近な祖先もまたお盆には帰ってくるという信仰に変わったのだとすれば、記録に残らず行事としても行なわれなかったけれど、それを受け容れる素地がもともとあったと考える他はない。なぜなら、このような観念が一朝一夕に変わるはずもないからである。
 たとえば、西欧キリスト教世界では、死んだ近親者の魂が帰ってくるなどという観念はまるっきり存在しない。帰ってきたとすれば、お化けとして気味悪がられるだけであろう。宗教以前の遺伝子的資質が違うからとでも言うほかない。
「お盆」の記録が最初に出てくるのは『日本書紀』推古天皇一四年(六〇六)のことだとされている。そこにはこう記されている。

 即日(そのひ)(推古天皇一四年夏四月八日)に、説齋(をがみ)す。是(ここ)に、會集(まかつど)へる人衆(ひとども)、勝(あ)げて數ふべからず。是年(ことし)より初(はじ)めて寺(てら)毎(ごと)に、四月の八日(やかのひ)・七月の十五日(もちのひ)に説齋(をがみ)す。

 この記録からして、四月八日の設齋が釈迦の誕生を祝う灌仏会、七月一五日の設齋が盂蘭盆会だとされ、しかもいずれもこの年(推古天皇一四年)に始まるとする根拠となってきた。
 日本書紀での記録の流れからすると、どちらの設齋も仏教に関連して行なわれたことは間違いない。「寺毎に」とわざわざ断わっているのも、その証拠である。
 ところが、四月八日を釈迦の誕生日とするのに何の不思議もないが、ここにすでに「七月一五日」という記述があるのはどうしたことか。
 覩貨邏の人である堕羅や舎衛女たちが初めてペルシアの新年の行事を伝えたのだとすれば、これはそれに先立つ五〇年も前の記述である。しかも、仏教的な文脈の中で残された記録だ。
 実は、「仏教」の事跡として語られていることの中に、ペルシアの影響が隠されていることが大いにあるのだ。推古紀一四年条のこの設齋の記述も、よくよく前後を注意して読むと、

 丈六の金銅仏が完成し元興寺金堂に据えることになったが、困ったことに仏像の寸法が大きすぎて金堂の戸から入れることができない事態がもちあがった。この上は、金堂の戸をいったんぶち壊して、仏像を入れるしか方法はないと工人たちは相談した。ところが、工(たくみ)として抜群の技をもっていた鞍作鳥(くらつくりのとり)が「そんなことはしないでも大丈夫」とばかりに、金堂の戸を壊さないで、仏像を中に入れることに成功した。皆は大喜びで、さっそくその日に……。(『日本書紀』推古天皇一四年夏八日の条を意訳)

に続くのが、さきの引用なのである。元興寺金堂の丈六仏の完成を記録するとともに、鞍作鳥の工の技を顕彰することがここの記録の目的なのである。
 ところで、この鞍作鳥がペルシア人だとしたら、どうだろうか。しかも、驚くなかれ、「鳥」とはツランを意味するとしたら……。
 日本ペルシア学の権威伊藤義教氏の『ペルシア文化渡来考』(一九八〇年、岩波書店刊)は司馬達等、その娘嶋、その子多須奈、孫鳥(これが鞍作鳥)や崇峻紀元年(五八八)に渡来した寺工、露盤博士、瓦博士、画工、推古紀二〇年(六一二)に渡来した路子工(別名芝者摩呂(しきまろ))などがペルシア人であった可能性があると述べ、さらには天平八年(七三六)渡来の李密翳や、天平勝宝六年(七五四)に鑑真に随行してきた安如宝らははっきりペルシア人だと分かるケースだとしている。
 その中でも特に注目すべきが鞍作鳥に関する記述である。

 つぎの「鳥」(止利)の場合は決定的なモメントをもっている。これはトゥール(Tur)の対音と見られるが、そのトゥールとは地域や部族の名称たるトゥーラーン(turan──シースターンとマクラーンの中間からインダス河岸に及ぶ地域)の原辞をなすもの。しかも、そのトゥール、トゥーラーンは終始、ゾロアスター教的イランに対抗する要素とされ、ことにトゥーラーン人フランラスヤン(フラースヤーン、フラースヤーグ)といえば、『アヴェスター』以来ゾロアスター教徒には怨憎の的とされている。そんな名前を名乗ってトゥール(鳥・止利)というのだから、非ゾロアスター教徒たること、したがってそれだけに仏教徒たることを、強く打ちだしているものと言える。また、この解釈が間違っていないとすれば、先述の司馬=Syasp「黒馬(云々)」という家名も非ゾロアスター教徒たるにふさわしいものである。(同書二五~二六頁)

 何と! 飛鳥時代の仏像彫刻の様式を止利様式というように、飛鳥仏師の代名詞とまで言われている止利仏師すなわち鞍作鳥ないし鞍作止利とは、実にツラン人であったとは! そして、伊藤義教氏がここで指摘しているように、明らかにゾロアスター教徒に相応しい名前をもたないということの中にゾロアスター教への反感があるのだとすれば、彼らが仏教へと傾斜するのは自然の勢いであろう。わが国への仏教伝来の歴史の中に、ゾロアスター教徒と非ゾロアスター教徒の対立が隠され、非ゾロアスター教徒たちによって日本の仏教の基礎が築かれたのだという説は、ぞくぞくする興味を掻き立てる。
 話を戻し、先の推古天皇紀一四年夏四月八日の条で、仏像が釈迦の像とすれば、わざわざ四月八日という釈迦の誕生日を選んで設齋する(お祭りをする)ことは極めて自然である。
 では、ここに唐突のように出てくる「七月一五日」は何なのか。伊藤義教氏の「鞍作鳥=ペルシア人説」を補強し、それを見事に解明されたのが孫崎氏の「『帰ってくる魂』の由来」なのである。「七月一五日」とは非ゾロアスター教徒のツラン人仏師を顕彰して、その新年を祝うことにした祭日だったことが分かる。
 ひとつの確かな事実が確定すると、さらに別の謎もするすると解けてしまう。まるで最近流行の「数独パズル」(初級は縦横九つの桝に重複なく九つの数字を入れる)で、ある数字を確定すると後はすらすらと解けてゆくのと同じような爽快感すら感じるのだ。真の学問とは、まさにかくのごとき業績を謂うのであろう。(つづく)