かぐや姫の誕生     索引  

                    

06「齋明紀童謡考」補遺 古代ケルト人もツランか?
    (天童竺丸解説)
 
     (世界戦略情報「みち」皇紀2666(平成18)年11月15日第239号)

●仏像の起源とゾロアスター教
 本稿の元となった「齋明紀童謡考」三部作を書かれ、本誌への掲載を快諾してくださった孫崎紀子氏へは、当然のことながら最近では毎号本誌をお送りしている。それで、先号をご覧になって、打てば響くかのように重ねての貴重なご指摘をファックスにて送っていただいた。その要点を紹介させていただくことにする。
∧非ゾロアスター教徒∨=∧仏教徒∨とは、私にはとても新鮮に思えました。何故かと申しますと、ガンダーラあたりの仏像には、火焔仏が見られ、それは仏教とゾロアスター教のミックスということが印象に残っていたからです。ツランはゾロアスターの教典にも出てくる、ゾロアスターおよび教徒の宿敵なので、ガンダーラ仏とは異なる趣きの仏像が日本にあって当然なのだと納得しました。 (一一月六日付私信)
 先号で私は、わが国のペルシア学の泰斗である伊藤義教氏が四半世紀前に書かれた『ペルシア文化渡来考』に拠って、飛鳥時代の有名な仏師鞍作鳥がツラン人であるとすれば、次のように想像をめぐらすことができると書いたのだった。
「伊藤義教氏がここで指摘しているように、明らかにゾロアスター教徒に相応しい名前をもたないということの中にゾロアスター教への反感があるのだとすれば、彼らが仏教へと傾斜するのは自然の勢いであろう。わが国への仏教伝来の歴史の中に、ゾロアスター教徒と非ゾロアスター教徒の対立が隠され、非ゾロアスター教徒たちによって日本の仏教の基礎が築かれたのだという説は、ぞくぞくする興味を掻き立てる」
 孫崎氏の指摘は、この部分に対してさらに考えを一歩推し進めてくださったものである。
 ガンダーラの仏像の「火焔仏」が、仏教とゾロアスター教の「ミックス」だと看破したのは、孫崎氏が初めてではないか。「火焔仏」とは、仏像彫刻の様式において、その光背に火焔形式の装飾を備えているものを謂う。
 そもそも仏像そのものは仏教の内部から出現したのではないとするのが、仏像研究者や美術史家たちの定説なのである。
 本来仏教には釈迦の像を崇拝・礼拝するという習慣はなく、せいぜい仏陀の遺骨を収めた「仏舎利塔」を礼拝したり、足の形を石面に浮彫し、それを仏足石と称して尊ぶなど、間接的に仏陀を礼拝するのが仏教徒の作法だった。それが、アレキサンダー大王による西北インドへの侵攻の結果、神像の彫刻に長けていたギリシア文化と仏教との出会いによってギリシア文化の影響を受けて仏像が製作されるようになったと、たいていの仏像起源説は説明する。
 だが考えてみれば、仏像が出現したのは大月氏族の有力氏族クシャーナ族が建てたクシャーナ朝(一世紀中葉~三世紀)の時代であり、場所も今日のパキスタン北西部のペシャワール県にほぼ相当するガンダーラ地方であった。もっとも、やや遅れてインド中心部のマトゥラーでも盛んに仏像が製作されたのは事実である。
 大月氏族は領内の有力諸侯として、「五翕侯(ごきゆうこう)」を置いたが、クシャーナ族は大月氏の五翕侯のひとつであった。大月氏族もクシャーナ族もツラン系の民族だと考えられる。
 古代ペルシア人から見れば、その都が置かれたガンダーラの地は、まさに敵対するツラン族の地だったが、逆にいえば、敵として意識せざるを得ないほど近くにいて、相互に影響を及ぼし合ったともいえよう。
 だから、インド・ガンダーラ美術の専門家の肥塚隆氏は、元来はイラン系文化に染まっていたクシャーナ族が、(ヘレニズム文化の影響を受けて)初めて仏像を製作したのだという。
 元来クシャーナ族はイラン系文化を保持しイランの宗教を信奉していたと思われるが、カニシカ王の外護とともに当時繁栄をみた都市の商業資本が仏教やジャイナ教の造寺造塔を推進したのであろう。この王朝の仏教美術で特筆すべきは、1世紀末にまずガンダーラで、やや遅れてマトゥラーで初めて仏像を製作したことである。(平凡社世界百科事典「ガンダーラ美術」項)
 問題は、「元来クシャーナ族はイラン系文化を保持しイランの宗教を信奉していた」にもかかわらず、なにゆえに彼らは仏教を信じ、しかも従来には存在しなかった仏像を出現させ、さらには本来の仏教とは大きく懸け離れた「大乗仏教」という新しい仏教信仰の誕生までをも促したのか、という点である。
 そもそも仏教そのものが純インド的とは言いがたいものなのだが、大枠として「インド的」と考えると、ツラン系のクシャーナ朝では、そのインド的でもなくイラン的でもない新しい信仰を模索した結果、それまでになかった信仰形態として大乗仏教が生まれ、また仏像も誕生したと言えるのではないだろうか。ただし、仏像の誕生と大乗仏教とが本質的にリンクしているわけではない。
 新しいものが生まれたといっても、古い信仰や形が完全に消えてなくなるわけではない。むしろ、古いものが新しい装いの下に生きつづけることは珍しくない。
 孫崎紀子氏の指摘された「火焔仏」は紛れもなく、火を崇拝する拝火教徒ゾロアスターたちの信仰に影響されたイラン的な意匠によるものであろう。ただし、そのイラン的な意匠は如上に説明したように、ツラン民族によって屈折した形で仏像の荘厳様式へと換骨奪胎されたものであった。

●古代ケルト人もツラン民族か?
 さらに孫崎氏は「帰ってくる魂」という問題についても、重ねてご教示くださった。
さて、七月十五日の事でございますが、一般には『盂蘭盆経』に基づき、夏安居の解ける七月十五日に、僧侶に供え物(盂蘭盆)をする旨、釈迦が目連に説いていることから、推古天皇のこの記述が日本での盂蘭盆会の始まりとされている様でございますが、推古天皇の時代にいた鞍作鳥がツランとすると、ツランの土地は、今のシスターン(イランのパキスタンに近い部分)と関わりがあるはず。その頃のシスターンは五世紀半ばから一世紀間存在したエフタルの国で、エフタルは六世紀半ば(五五七~五六一)ササン朝ペルシアと突厥に挟み撃ちになり、消滅。エフタルの人民は単一ではなく、テュルク系、イラン系、遊牧民、定住民といろいろだった様です。
 推古天皇の時代(五九三~六二八)は、ササン朝の新年が鞍作鳥には新年であったはずですので、新年にはペルシアでは魂が帰ってくるということは、その頃日本ですでに一部には知られていたと思います。しかしまだ盂蘭盆会には取り入れられていなかったと思います。何故ならば、齋明天皇がダラを招いた七月十五日には、天皇は飛鳥寺の西に須弥山を作り、盂蘭盆会を催したからです。魂が帰ってくることになっていれば、日本古来の考えである魂の宿る場所、つまり「山」を作る必要はないはずです。盂蘭盆会に山を作らなくなった時が「帰ってくる魂」の考えが定着した時と考えます。
 それにしても、鞍作鳥や他のペルシア人は七月十五日の催しを、どんなに楽しみにしたことでしょう。七月十五日にダラが招かれたのは偶然と思っていましたが、招かれるべくして招かれたのだと、思いました。
「帰ってくる魂」で気になるのは、ハローウィンです。これを機にネットでちょっとのぞいてみましたら、古代ケルトの風習とありました。しかも古代ケルト人は中央アジアからヨーロッパ各地に渡った人々であるそうで、成程と思いました。インド・ヨーロッパ語族であり、起源は同じでしょう。これも新年に帰ってくる魂です。 (同)
 謎の民族とされるエフタルがツランの地を領していたことは、浅学にして私は知らなかった。これからエフタルについても少し調べてみたいと思った。
 さらに、ハローウィンについても、もともとは古代ケルト人の祖先たちの「帰ってくる魂」を迎えて祀る祭であり、その古代ケルト人たちが遙かなる昔に中央アジアからヨーロッパ各地へと渡っていった人々だとは知らなかった。
 ケルト語はインド・ヨーロッパ語族に属し、明らかにケルト民族はツラン系ではない。古代ペルシアと同じ語族に属し、それゆえにペルシアと同じく「帰ってくる魂」の信仰ももっていた。使用言語に基づいて語族が分類された以上、ツランとは別の語族であるが、彼らの故地が中央アジアだとすれば、元来は近隣の異族として敵対しつつも影響し合うという関係にあったことが考えられる。ヨーロッパの諸民族の中でも、ケルト民族にはなぜかしら親近性を感じるのは、このためであったか。
 さて、もっとも重要な指摘であると思われる、盂蘭盆会における須弥山=「山」に関して、孫崎氏の考えがいまひとつ分かりにくい。
 日本古来の考えで、「山」が魂の宿る場所であったとする点には賛成である。しかし、盂蘭盆会における須弥山がこの「山」だとしても、そこから進んで、「魂が帰ってくることになっていれば、山を作る必要はない」と言えるのかどうか、私には納得できない。むしろ、須弥山に象ったミニアチュアの「山」を作ることによって、「さぁ、ここに帰ってきてください」と先祖の魂に呼びかけたのだとは考えられないだろうか。それとも、説明が簡単で、ご本人には当然すぎる点が省略されているのだろうか。機会を得て、教えていただきたいと願っている。
 新鮮な驚きや疑問も含め、孫崎紀子氏からは同時進行的に教えを頂くことが続いている。何という幸せであろう。
 今回ご紹介した私信を別にして、他にいくつも驚きと発見に満ちた論考を頂いている。そのひとつは日本の中世には「はひふへほ」ではなく、「ふぁふぃふぅふぇふぉ」だったとされる定説を疑って、この定説の拠って来たる根拠がポルトガル人宣教師らにあることを指摘したものである。彼らには「h」音を発音することができなかったため、その代わりに「f」音で写したことから、日本語の中世音に「h」の発音が消えてしまったと、快刀乱麻を断つ如く指摘されたのである。これまた、胸のすくような快挙である。(つづく)