かぐや姫の誕生     索引  

                    


      10 ウズベク語の不思議 2

   二人のズルフィアとファティマ
    (世界戦略情報「みち」皇紀2667(平成19)年2月1日第243号)


 一九九三年八月、ウズベキスタンの首都タシケントに住むことになって、タシケントは本来トシュケントであり、それは、トシュ(石)に由来することを知った。サマルカンドを康国とするなら、タシケントはさしずめ石国といったところだろうか。
 街にはユニークな形の建物が多く、地下鉄もあって、各駅それぞれ独自のインテリアをもつこと、果物や野菜のおいしさは驚きであること、国内どこへ行ってもロシア語ですべてが動いていること、そして、女性がおしゃれで顔立ちが美しく快活なこと、何よりも太陽光線が強い(太陽に近い?)ことなど、少し様子が分ってきたころに、一念発起して、ロシア語を習うことにした。
 サーシャというお名前のロシア民族学がご専門で、大学院の成績最優秀というロシア人女性の先生に一年あまり文法を教えていただいた。この先生は、ご主人もサーシャというお名前だったので、一粒種のぼうやと三人の家庭内のお話を聞くときは、話のサーシャが誰なのか注意力を要した。
 せっかく習ったロシア語を実践するために、今から思えば他にも方法はあったかもしれないのに、運命であろうか、ウズベク語をロシア語で習おうと思いたった。ところが、これは思いがけず難しいことだった。というのは、ウズベク語の先生がなかなか見つからなかったのである。
 ウズベキスタンでは独立前の旧ソ連体制の間は標準語はロシア語であり、わずか七〇年の間に国内全域にロシア語教育が見事に行き渡っていた。どんなに山奥へ行ってもロシア語が通じたように記憶する。一方ウズベク語は、主に大学で専門に学習されることになっており、もちろん専門家はいたけれどなかなか条件が合わず、結果、見つからないのであった。
 なかなか条件が合わない原因の一つは、ウズベク語そのものにあったのだ。ウズベク語には、日本語のように各地に方言があるらしい。
 その主なものにはタシケント方言、フェルガナ方言、サマルカンド方言、ブハラ方言等がある。ウズベキスタンのみならず中央アジアでは多くの民族が一緒に生活しているので、一般的に人びとはウズベク語、ペルシア語系のタジク語、タタール語など、最低でも自分に関わる民族の言葉とロシア語の二つは話し、三ヵ国語や四ヵ国語を話す人も珍しくない。そのため民族ではなく住んでいる所にアイデンティティを求めるという風もあり、方言はそれに一役買っていたのかもしれない。
 今は国内どこでも見られる黒地に白い縫取りのある男性用のウズベク帽はもとはフェルガナ地方の帽子だが、昔は地方により違う帽子をかぶっていたので、どの街から来た人かすぐわかったそうである。ブハラで出会った人にどの民族か知りたくて質問したところ、「わたしはタジク人だが、私もあの人もこの人もみんな同じブハラ人だよ」との返事が返ってきたことがある。
 フェルガナ方言は前回の汗血馬を求めてさまよい歩いた地方の言葉である。古い地方の言葉であると同時にあまり変わっていないことによって標準語とされている。逆にそれだから標準語なのかも知れないが、一般に「文学」はフェルガナ方言で書かれる。ウズベク語の先生を捜す役を引き受けてくれたズルフィアは、頑なにフェルガナ方言の話し手を選んでいたのだった。それで、タシケントにはフェルガナ方言の話し手が少なかったらしい。
 厳しいズルフィアのお眼鏡にかなったのが、ファティマ先生だった。先生は当時二六歳。くりくりと大きな眼が印象的な、大学院を卒業して間もない、ロシア語とウズベク語がご専門のウズベク女性である。先生のお話はやはりフェルガナ方言についてからであった。タシケント生まれの自分が何ゆえに、フェルガナ方言を話すことができるのかということについてである。
 彼女の父方の祖父の名前はアイベク。旧ソ連時代のウズベク文学の祖といわれる。今、私の机の上にある巨大な「ウズベク語表現辞典」の中の用例・出典のほとんどが彼の作品からである。彼の名前は、冒頭に書いた地下鉄の駅の名前にもなっている。
 お父上は歴史がご専門の大学教授であった。私たちがタシケントを離れるとき、彼女がお父様からのプレゼントだと託ってきたのは、真っ白な磁器と思われる見事な観音像!と思うのは私のみであって、「東洋の女性像」ということだった。裏には槌と鎌のマーク、横にある数字は年号と思われる。
 そのときは気持ちに余裕がなく聞きそびれてしまったが、由来を知りたいものである。
 母方の祖父は、ハミダリムジャンと呼ばれ、やはり地下鉄の駅名にもなっているウズベク文学の、こちらは民話の世界の祖のような方と聞いている。我家からブユキパキオリをタシケント中心街へと進むと、いくつめかの円形交差路にあるショッピングエリアに彼の像が建っていた。ハミダリムジャン夫人つまりファティマ先生のおばあ様はズルフィアという有名な詩人だった。アイベク夫妻もハミダリムジャンも故人だったが、祖母のズルフィアだけはお元気であった。当時八〇歳の誕生日をトルキスタンという壮大な劇場で祝うセレモニーにお招きを受けた。またその近況はお誕生日に向けてテレビで放映されて、番組が始まるのをいまや遅しと待っていた記憶がある。
 ファティマ先生もお母様もこの詩人ズルフィアに厳しくフェルガナ方言を躾けられたのだった。因みにお母様もウズベク語の大学教授であった。
 ファティマ先生によるウズベク語のレッスンは楽しかった。一九九一年にウズベキスタンは独立し、ウズベク語が晴れて国語となったばかりのところであった。
 現在ではウズベク語がご専門の当代在日ウズベキスタン大使夫人オチロバ夫人とウズベク語の権威タリポバ教授の共著による立派なウズベク語教科書が出版されているが、その当時はどの教科書もファティマ先生のお気に召さず、参考にするくらいで、ほとんどの教本は先生の手作りだった。
 ウズベク語は発音が難しいと思う。発音するのも、聞くのもむづかしい。日本語にはない音もいくつかあり、それらは喉の奥から出す音であったり、オとウの中間の音であったりする。強いハーと弱い(柔らかい)ハーがあって、字も違う。これはもう、お手上げである。
苦労したのは「и」、弱いイであった。先生、「ди」は何と発音しますか?「ダ」です。しかしここには「ディ」と書いてあります。いいえ、これは「ディ」ではありません。「ダ」です。では「да」は何と発音しますか?「ダ」です。
 それからは「ди」は迷わず「ダ」と読むことにした。ところがすぐに「ヌ」にしか聞こえない「ни」が現れたのである。みずからの耳の悪さを嘆いていたある日のこと、手持ちの『ウズベク語 ─ ロシア語辞典』の発音の解説の所に解答があった。
 иには強いиと弱いиがあり弱いиは直前の子音の音に「声」を加えたものである。これでは「ни」は「ヌ」に、「ди」は「ダ」に聞こえるはずである。
音に敏感であるはずのウズベク語であるが、時には気勢を削がれることもある。B(V)とб(b)が入れ替わっても成立する言葉があるのである。どちらにしても日本語の発音は本来「ビー」しかないので、日本語と同じ傾向ではある。例を挙げると、接尾語のひとつ「──бон」(ボン)。
 これは庭(ボグ)と結びついて庭番(ボグボン)、門(ダルボザ)と結びついて門番(ダルボザボン)などとなる語で意味も日本語の「―番」にあたる。これを「──вон」とも書くのだ。
 また、「бачча」(バッチャ)という言葉は子供という意味であるが、これが「бой бачча」(ボイバッチャ、金持ちの子)となるときは「бой вачча」とも書かれる。「バッチャ」は「坊ちゃん」に思えて仕方がないが、ペルシャ語起源と辞書にはっきり書かれているので、これは「ネーム」と「名前」のような偶然の一致と思われる。
 ウズベク語と日本語とが似ているのではないかと思いはじめたころから、将来、ウズベク人で日本語を話す人が増えれば同感の士がきっと出てくると楽しみにしていた。それから一〇年以上も経つのに、特に声を挙げる人はいない。なぜだろうか。
 日本語の流暢なウズベクの人に話を聞くと、文法については文句なく似ていると認めてくれる。しかし。肝心の語感については、思いもよらぬ結果が返ってきた。
 その例が「ич」(イチュ)。「内」という意味である。私はこれを「内」(ウチ)という日本語と似ていると感じた。しかしウズベクの人には「イチュ」は「イチュ」であり「ウチ」ではないという。おまけにウズベク語には「ウチュ」という言葉もあってこれは「3」を意味する。一方、日本人は、聞く人は例外なく「似ている」という。音に対する意識の違いだろうか、単に、例が悪かったのだろうか。
 それにしても、日本人から見て語感の同じ言葉の多さは、とても偶然とは思えない。

  帰る=カイッツ
  着る=キー
  凍る=コッツ
  切る=(喉の奥の)キー
  言う=エッツ
  来る=ケル
  落ちる=オッティル(沈む)
  こける=コッキール
  まどろむ様子=ムドウラーダ

 その中でも、もっとも感動したのは、

  引っ越す=コッチ
  うなずく=ウン
  花が枯れた=グルシンダ

などという言葉であった。グルは花である。ウズベク語と日本語の共通点の特徴は品詞だけでなく活用形において語感のよく似た形が見られることだろう。
 さらに一〇年先には何か変化があるだろうか。
 ところで、ファティマ先生を見つけてくれた、本当の意味でやさしい心根のズルフィアは、鹿のようにきゃしゃで、紫色のカーディガンが良く似合う、自称すみれ色の眼の女性。中央アジアならではの娘である。(つづく)