かぐや姫の誕生     索引  

                    

       12 ウズベク語の不思議 4

        聖なるブハラ
(世界戦略情報「みち」皇紀2667(平成19)年3月1日第245号)

 シルクロードを西へ向けフェルガナ、タシケント、サマルカンドと旅して、さらに進むと次の大きな街がブハラである。ザラフシャン川の下流に広がるオアシスの街だ。紀元前からある街で、ブハラという名はサンスクリット語の「僧院」(vihra)に由来するといわれている。サマルカンドと同様、古くはソグド人の街として栄えた。
 イスラム世界に組みいれられて後の九世紀末にサマーン朝の首都となり、一〇世紀に最盛期を迎える。王の保護のもと学問文芸が盛んで、このころはヨーロッパでアヴィケンナとして名を知られ「メディスン」の語源となった大医学者のイブン・シーナ、コーランの注釈書『ハーディス』の学者であるアル・ブハーリや、またルダーキーとダキーキーという二人の詩人、さらに哲学・史学・数学の分野で名高いアル・ビルーニーらがこの街で活躍した。タシケントの歴史博物館にはイブン・シーナの使った外科手術の器具が展示されているが、一見、現代のものかと疑いたくなるほどのものである。
 九九九年にサマーン朝は滅び、初のトルコ系勢力によるカラ・ハン朝を経て一三世紀、チンギス・ハンの登場となる。その後その第二子チャガタイによるチャガタイ・ハン国となり、一四世紀後半には、チャガタイ・ハン国が拡大し中央アジアに類のないチムール帝国が出現する。オスマン・トルコの進出を警戒したスペインの国王が騎士クラヴィホを中央アジアに遣わした縁で、チムールはタンメルランという名前でヨーロッパにも知られている。
 サーマン朝の歴代の王の霊廟であるサマニ廟は、中央アジアに残る最古のイスラム建築として名高く、色付けされていない見事な煉瓦細工が美しい。廟を取り囲む広い石畳のあちこちに、ろうそくを立てて拝む窪みのあるのも何か奥床しい感じがする。
 カラ・ハン朝では陶器やガラスなど当時の先端文化が栄え、優れた建築物が多く造られた。ブハラにはこのころ建てられたカリヤン寺院の尖塔があり地震の多いこの地に今も偉容を誇っている。
 一六世紀のシャイバーン朝、さらに一八世紀のブハラ汗国の時代には多くのマドラサ(神学学校)が創られ学生の集まる学術・宗教都市となり、この街は「聖なるブハラ」と呼ばれるようになった。
 マドラサは普通、寺院の中にあるのだが、両脇にミナレットという尖塔をもち、全面タイル装飾の真ん中にある巨大な木の門扉を通ると、大概、広い中庭は石畳になっており、その周縁にぐるりと小部屋が並んでいる。寄宿舎である。ひんやりと暗い中に小さな窓。電気のなかった時代には、毎朝の太陽の光や月光がこの上ない喜びであっただろう。小さな窓は暑さを防ぐために必要と思われる。壁に彫られた落書きを目にすると、数百年前にここで勉強していた僧と突然出会うことになる。コンピューターでもこうはいかない。
 ある寺院では発掘が行われていた。
 その寺院の床下から仏教寺院の遺構が現れたということで、床の半分が開けられ、そこから以前の世界を覗きこむことができた。とはいえ寺院そのものも古いので、中に入るための扉を開けるには、まず現在の街の地面の高さから七段くらい階段をおりなければならないのであった。
 「アイヴァン」と呼ばれる、いわば大きな移動式の脚付手摺付の置床でゆったりとお茶を飲み、煙草を楽しむ脇に、ロバに乗り陽気に笑って周りに今にも声をかけてきそうな像がある。それは西アジア・中央アジア・トルコ系民族の「一休さん」であるナスレッディン・ホジャの像である。ただし、賢さに愛すべき奇人・変人の要素が加わる。一三世紀または一五世紀の人と言われ、生誕地にもさまざまな説がある。
 今に残る説話集によると、あるときナスレッディン・ホジャは宮殿の晩餐会に招待を受けた。精一杯に着飾って出かける人々の中、ホジャはいつものまま、質素な身なりで出かけた。すると門番に咎められ、どうしても入れてもらえなかった。そこでホジャは家に戻り、一番上等の毛皮のコートを着て再び宮殿へと出かけていった。すると、今度は門番が恭しく迎え入れてくれ、丁寧に客間に案内された。ごちそうの前に座るとまずスープが運ばれてきた。するとホジャはいきなり毛皮のコートの端を持ち上げ、スープに突っこんで「さあ、飲め。さあ、飲め」と呟いている。訝った人が尋ねると、ホジャは毛皮にスープを飲ませながら「私は、最初宮殿に入れてもらえませんでした。仕方なく家に帰って、この毛皮を着てきましたところ、このようにごちそうの前にすわることができました。してみると、このスープはこの毛皮のためのものですから、こうして飲ませているのです」と答えたそうな。
 この気の毒な毛皮のためのスープは一体どんなスープだったのだろうか。今の一般的ウズベク料理のスープから帝政ロシアやソ連時代の要素を差引いて夢想してみるに、うどん入りスープだったかもしれない。
 ウズベク料理は文明の十字路という地の利にふさわしく、かなりのものが東西南北各地からの料理に起源をもつと思われる。例えば、前菜のサラダはロシア風や中近東風で、うどん料理は中国ともイタリアとも考えられる。お肉のいっぱい詰まった、蒸しギョウザに似て丸い形のマンテイは生クリームをかけていただく。揚物のサムサは、外見がインドのサムサそっくりながらカレー味ではない。水ギョウザに形はそっくりだが中身にカッテージチーズを入れたものはピルメニと呼ばれる。
 もちろん中央アジアならではの料理も多い。馬のソーセージや、米と挽肉を羊(?)の腸に詰めて蒸したもの(名前を失念してしまった)などなど。馬のソーセージはとても滋養が高く、三切れ食べれば一日動ける、との効能をよく耳にした。
 「ノン(パン)は、一番大切な食べ物。しかし米も同様に大切な食物』という言い方にも、中央アジアの多民族性がにじみ出ている。本当に、両方が同格なのである。
まずノンの大切さは、食事が始まるとき、「いただきます」の仕草(両手を同時に軽く外から内回しにする)をした後、家長またはその任にある人がノンを家族や来客にちぎって分けるという決まりがあることからも分かる。ウズベキスタンのノンは多くの種類があるようだが、私の記憶では、大きく二種類、一つは種なしで、もう一つはしっとりとした乾パンのような感じのもの。実際に食べるためだけではなく、お盆のように大きな、花や文字をあしらった壁飾り用保存版もサマルカンドではよく見かけた。
そして、米については「プロフ」という肉入りの炊込御飯がウズベク料理の主役となっている。プロフは食事の最後に必ず出る料理で、どんなに料理が続いても、これが出ないうちはまだ宴会中であり、帰ってはならぬことになっている。「カザフスタンで招待を受けたウズベク人が、他の客が帰っても、三日たっても帰らない」「それはプロフが出ないからさ」という笑い話もあるくらいだ。
 その代わり、プロフが出てくれば、どんなに短くても宴はお開きとなる。プロフの後に出るデザートは特になく、甘味は最初からテーブルの上のお皿の中に溢れんばかりに盛ってある。そこにはケーキも混じる。甘味の中には、われわれ日本人に馴染深い「おこし」そっくりの「チャクチャク」がある。揚げた小さなかりんとうに蜂蜜を絡めたもので、本当に「おこし」そっくりなのである。
プロフは各オアシスごと具が違うが、さらに西のイランに行くと「ポロ」と呼ばれ、スペインでは「パエリャ」、イタリアでは「ピラフ」となって実はこれらは同じものなのではないか、と密かに思っている。因みに、イタリア語辞書でピラフを見るとトルコ起源の言葉となっているので、当たらずとも遠からずといったところだろうか。
 ウズベク語では、「米」に当たる言葉に「ショリ」と「グルチ」がある。「ショリ」は玄米を指し、「グルチ」は単に米のことをいう。日本語でいう「うるち米」の「うるち」は「グルチ」と何か関係があるのではないだろうか。かねてより、フェルガナ方言と関東語の類似について眼を離せないでいるが、「うるち」という言葉は関東方言であると徳川宗賢氏の「日本方言辞典」に載っている。また、日本語に「シャリ」という言葉があり広辞苑の四番目の意味に米粒、米飯とある。このことから「ショリ」も「グルチ」も現代日本語つまり関東語と関係することとなるが、偶然であろうか。
 ウズベク語は不思議な言葉である。普通二つの言葉が似ているとされるときは、まず名詞が似ているところから始まるらしい。ところが、ウズベク語の場合、まず似ているのが、接尾語、つまり動詞、形容詞の活用語尾である。そして、なによりも語感が似ている。「すずめ」を「チュムチュク」と名づけ、「まあ、いい」を「マイリ」といい、同意を表す言葉は「ウン」なのだ。さらに副詞、擬音語、擬態語の類で似ているものは、かなり多い。にもかかわらず名詞の似ているものは少ない。似ている名詞には次のものがある。

  (日本語)   ―  (ウズベク語)
   ホコリ   ……  ホク
   オンナ   ……  オナ(母)
   オトコ   ……  オタ(父)
   着物    ……   キーム
   疑問    ……  グモン
   頭     ……  アタマン(首領)
   毛     ……  ケル
   縞      ……   ジムジマ(模様・皺・襞)
   端・終わり……   ケツ

 最後の「ケツ」は「ビリッケツ」のケツとどうも関係がありそうである。ウズベク語の「ビル」は「1」である。
 昨今の欧米語の日本語への影響では、まず名詞が変わることは進行中である。拡声器、録音機などはほとんど死語になった。例は書くに及ばないであろう。次いで、動詞の語幹に当たる部分も欧米語化する。また、形容詞・形容動詞の語幹部分に欧米語が入り込んでくる。

   パニック …… パニクる
   リッチ   …… リッチな
   ナウ   …… ナウい

 語尾は変わらない。ウズベク語にも、やはりそういう時代があって、名詞や動詞・形容詞・形容動詞の語幹部分は変わったが、語尾は変わらなかった。その変わらなかった語尾の部分が日本語と酷似しているのだ。(つづく)