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 26 謡曲「翁」の謎 ─ 詞章をペルシア語で解く 下
     (世界戦略情報「みち」皇紀2668(平成20)年6月15日第274号)

はじめに
 先号において詞章全体を①から④に分け、それぞれの詞章について考証を試みた。最後に、①の「翁」の詞章と「地」の詞章の中で、意味の通ずる部分を集めてみると、まさしく今様に他ならないことを発見した。
 それでは、意味不明の部分についてはどうだろうか。

  とうとうたらりたらりら
  たらりあがりららりどう
  ちりやたらりたらりら
  たらりあがりららりどう
  とうとうたらりたらりら
  ちりやたらりたらりら
  たらりあがりららりどう


 『猿楽伝記』には、「とうとうたらりの翁」は「伽陀の吟声を持つ」と書かれている。
 確かに、この部分の最初の四行は、驚いたことに伽陀の形となっている。伽陀のうち仏典で多く用いられるのはシュローカ(一六音節二行から成る)とトリシュトゥブ(二二~二四音節二行)、アーリヤ(音節を制限しないで八句二行)という三つの形であるが、その中のトリシュトゥブという伽陀が二二から二四音節二行から成るというのは、一一から一二音節から成る一句が二句重なったものという意味であり、「とうとうたらり」の最初の四行は、まさにこれにあてはまる。したがって、この部分を伽陀の節で謡うことは充分に可能だと思われる。

ペルシア語による大意
 先に挙げた日本書記に出てくる意味不明の歌をもう一度見てみよう。この歌の構成が「とうとうたらり」と似てはいないだろうか。

  まひらくつのくれつれ
  をのへたをらふくのりかりが
  みわたとのりかみ
  をのへたをらふくのりかりが
  甲子とはよとみ
  をのへたをらふくのりかりが


 さらに、日本書記第二七巻天智天皇の九年(六六九年)に出てくる歌にも気になる点がある。

  うちはしのつめのあそびに
  いでませこたまてのいへの
  やへこのとじ
  いでましのくいはあらじぞ
  いでませこたまてのへの
  やへこのとじ


 日本語で意味は解けそうであるのに、大意が掴めない。構成は短歌がふたつ続いている形式だが、繰り返し部分に注目すると、「とうとうたらり」や「まひらくつの」に近いと思われる。もし、「とうとうたらり」の成立が秦河勝の時代と関わるとすれば、この三つの歌はほぼ同じ時期のものとなり、日本書紀に記載のある来朝ペルシア人(トカラ人)の誰かが詠んだ歌である可能性が出てくる。まずこの三つの歌をペルシア語で解いてみよう。

◆「とうとうたらり」ペルシア語解析
とう(ドウ=二つ)とう(二つ)た(タ=~まで)らり(ラー=道)+(アリ=一門・子孫)た・らり・ら・た・らり・あがり(アグル=吉兆)+接続の~イ)ら・らり・とう・ちり(チ=どんな・何と~)+(アリ=一門・子孫)や(ヤー=おお!)
  ──以下同様
大意(今様の意味も含む)

  一門・子孫(繁栄)へ道の吉兆は二つ。
  なんと(素晴らしい)子孫への道。
  鶴と亀の長寿にちなんで。


残る二つは、次のように訳すことができる。
◆「まひらくつの」のペルシア語大意

  あなたに危険がないように、
  人を惑わせる仕事、
  彼は神ではない、
  そして道を知らせてください、
  火の番人よ。
  友愛と光が少ない、
  彼は神ではない、
  そして道を知らせてください、
  火の番人よ。
  わたしの記憶があなたとともにありますように、
  彼は神ではない、
  そして道を知らせて下さい、
  火の番人よ。


 この歌が現われた年、西暦六六〇年ペルシア人ダラと名乗って斉明天皇に必ず再び戻り朝廷に仕える事、その証に妻を置いてゆく事、そして祖国での志のためにと兵を賜わる事を願いでたトカラ人が西に向かって出帆したと、日本書紀に書かれている。してみるとこの歌は残されたトカラ人の妻舎衞女が歌った歌に違いあるまい。ササン朝ペルシアは六五二年に滅亡している。ダラの来朝は六五七年である    
 
◆「うちはしの」ペルシア語大意

  ペルシアの村がない、太鼓(の音)
  がない、彼はここにいないから。
  私は覚えている、彼は言った、
  楽しみもない、やり遂げることもない、
  ここはアラビアではない。
  私はよく覚えている、
  王子は栄光(機会)あれと欲した。
  私は覚えている、彼は言った、
  楽しみもない、やり遂げることもない、
  ここはアラビアではない。


 この歌は、「まひらくつの」の歌の九年後、六六九年に現われているが、内容からやはり同じ妻の作であろう。もしこの妻、もしくは他のトカラ人(ペルシア人)が「とうたらり」の歌を作ったとしたら、秦河勝との接点はどうだろうか。秦河勝は生没年不明である。聖徳太子の頃より活躍しており、皇極天皇の時代に出来した常世虫騒ぎ(六四四年)を河勝が治めた頃すでに高齢であったというのが通説である。それならば、河勝の子のうちの誰か、たとえば物主が「とうたらり」を伝えたのではないだろうか。物主は金春家に繋がると系図ではなっている。河勝およびその子孫と楽舞との繋がりは『教訓抄』の中にも見える。
 舎衞女はその後、六七五年に成人となった(ペルシアの成人式は一五歳)ダラ女(ダラの娘)と共に天武天皇に拝謁していることが日本書記に見える。そして、その拝謁は亡命してきた百済王善光と一緒であった。善光は多くの伶人を伴い亡命したので、この時以来百済楽が盛んになったとされている。善光と舎衞女は同じ帰化人に属し、善光は楽舞部と関わりがあるので、物主とペルシアの歌とは充分接点が考えられる。
 さらにまた、度羅楽の存在も無視できない。『古事類苑』の「楽舞部一、楽舞総載上」には、唐楽、伎楽の次に度羅楽が挙げられている。次に渤海楽と続くからには、度羅は地名だろう。吐羅楽とも書かれている。おそらくは「タクラ楽」と訓むのであろう。なぜなら、度は「タク」とも読むし、吐は吐る(タグる)のタグだからである。タクラはトカラを音写したものではないだろうか。鹿児島県トカラ列島宝島(タカラ島)は、島民の話によれば、昔はトカラ島と呼ばれていたという。度羅楽の記載は天平宝字七年(七六四年)にもある。秦氏との接点はここでもありそうである。「まひらくつの」も「うちはしの」も度羅楽で謡われていたかも知れない。そして、あるいは「とうたらり」もまた……。
 では、「とうたらり」が秦河勝の頃より存在したことは認められるとして、なにゆえ、村上天皇が「とうたらり」に御目を向けられたのだろうか。それには「烏滸」人の来訪が関係しているのである。
 『本朝文粋三』に辨散楽邑上御製として「オコ来朝、自為解頤之観」と書かれている(オは、はばへん巾に烏、コは、はばへんに許)。
 烏滸(おこ)の沙汰の「おこ」は、広辞苑によれば、「愚かな事、ばか、たわけ」と説明され、痴、尾籠、烏滸と書くとされているが、「オコ来朝」となれば、もともと「オコ」の語源は「オコ人」に由来しているのではと考えられる。「後漢書南蛮伝」に「嗚滸人」とある。地図によれば、「烏滸水」(オコスイ)という河があり、これはオクサス川、つまり今のウズベキスタンにあるアム川中流域のことを指す。まさに西域である。村上天皇のころ、サマーン朝というイラン系の王朝がここには栄え、アム川沿いの首都ブハラは後世にまで有名な医者や詩人を輩出した。
 来朝した烏滸人は、散楽を披露し、滑稽芸ばかりでなく曲芸・マジックも見せたであろうから、ばかばかしくて、可笑しくて頤(下あご)が外れるくらい笑ったばかりでなく、アッと驚いて頤を解くこともあったにちがいない。それが「解レ頤之観」と評されたのである。この嗚滸人には「とうたらり」の意味はすぐ解けたはずである。三百年の間におそらく失われていた意味が氷解し、太子や家祖河勝に触れた氏安は、神にも触れた思いで「式三番」を作ったのではないだろうか。
 さて、もう一人重要人物が登場する。日蔵上人である。「樂家録」には音楽を修めた武臣・神職・医師・沙門らのリストがあるがその中に日蔵上人の名がある。「朱雀院の御子也、天台より万秋樂の破を伝来」と書かれている。朱雀天皇は村上天皇の先代天皇であるから、接点は充分考えられる。
 「とうたらり」の意味は戻ったとしても節は失われたままであったとすれば、そこで氏安は上人に習い伽陀の節で「とうたらり」を謡ったのではないだろうか。
 もっとも、「とうたらり」の節にはもう一つの可能性がある。それは来朝した嗚滸人による節の可能性である。それが伽陀と似ていることはあるかも知れない。

「とうたらり」の神聖さ
 伽陀(この場合、おそらく天台宗声明の中のトリシュトブの形のもの)と「とうたらり」の吟声を較べることがまだ残っている。
 果たして、どうだろうか。
 単なる音でなく、節や抑揚をもった音の記憶には大いに興味をそそられる。文字に記すようになって、音の記憶は容易に消失してしまうが、文字のない時代の言葉と音楽のつながり、異なる言語のぶつかり合いの際に音がどんな変化をするか見てみたいものである。想像を超えたものがあるに違いない。
 「とうたらり」は千三百年以上も前に意味と音が失われて文字のみで伝承されていたものが、三百年の後に復活を遂げ「翁」(式三番)という謡になり、その後千年も大切に扱われてきた奇跡的なものである。思うに、それは存在そのものが重要な内容を体現していて、特別で神聖なものだったからなのではなかろうか。(おわり)