かぐや姫の誕生     索引  

                    

 27 かぐや姫の謎 ─ ペルシア姫だったかぐや姫 上
        (世界戦略情報「みち」皇紀2669(平成21)年7月15日第298号)

 日本最古の物語とされる竹取物語は、「今は昔、竹取の翁というものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、萬のことにつかいけり。名をば、讃岐の造麿となんいひける」で始まるのだが、実はこの物語が遠くササン朝ペルシアと繋がりがあると言ったら、ほとんどの人にまず驚きが先立つに違いない。
 今まで本誌みちにご掲載いただいたペルシア関係の稿を「舎衞女の物語」として一つに纏める作業をしていた時のことである。ほぼ終わりに近づき、「……舎衞女とダラ女は百済の善光王他と天武天皇に拝謁した。これ以後、舎衞女とダラ女がどうなったか、その行方は杳として知れない」と書いた。そのとき、日本で生まれたダラ女を当時の飛鳥の人々はどんな風に見ただろうかと、ふと思ってしまったのである。
 ダラ女は金髪だったかもしれない。白い肌に鼻は高く、大きい眼と長い睫(まつげ)も持っていたに違いない。たとえ金髪でなくても、髪は豊かであったろう。この輝くように美しい異国の姫を見た人々の驚きはいかばかりであったろう。人々は興味津々で住居を垣根から覗いたかも知れないなと他愛なく思ったのである。「まるで、かぐや姫のようだ」と連想してしまった。そこで竹取物語を採りだして読み始めたのだ。……
 驚いた。ひょうたんから駒とはこのことだ。実は、竹取物語の時代設定は、舎衞女の時代の少し後、まさしくダラ女の時代であり、しかもその舞台は、大和の国飛鳥地方なのであった。信じられない思いで読み進むうち、次々と芋蔓式に様々の興味深いことが現われ始めたのだ。ここでそれをさらに堀り進めてみたい。
 竹取物語が書かれたのは、それまでにすでにあった竹取の説話・伝説を基に九世紀初から一〇世紀前半ころだろうとされている。これには色々の傍証がある。それは、源氏物語の中の記述、歌の技法、貴公子の官職の名、などであるが、もっとも確証に値するものは、富士山の噴火であろう。
 竹取物語のむすびの章、「ふじの山」のあらすじは、次のようである。
 御門と文通(和歌のやりとり)をするようになり三年たったころ、かぐや姫は昇天する。その折、かぐや姫は御門に不死の薬の入った壺と文を送る。受け取った御門は、意気消沈しており、もはやかぐや姫のいないこの世に不死を得ても仕方がないと、この二つを、天に一番近い山の頂きで燃すよう大臣に命じる。大臣は駿河にある山の頂きにて、これを燃す。この時からこの山はふじ(不死)の山といわれ、その煙は今ものぼっているという。
 古文書の記録によれば、富士山の噴火は、まず八世紀(七八一年)に登場する。それ以来確実なものは今までに一〇回といわれている。そのうち七回が一一世紀初頭(一〇八二年)までにあり、またこの間を縫うように噴火かと思われる記述が五回あることから、八世紀から一〇世紀にかけて富士山が煙りを吐く様子はひんぱんに見られたようである。
 ただし、一回の噴火はそんなに長く続くものではないらしい。三百年前の最後の大噴火となった宝永の噴火でも二週間くらいで収まったということであるから、富士の煙が今もたちのぼると書くからには、作者は富士山の見える所にいる人ではなく、都にいる人と思われる。「竹取物語」の作者は不明であるが、その文章や和歌の素晴らしさから、おそらく紀貫之のような教養のある貴族ではないかとされている。
 また、「かぐや姫」と、竹取の翁、「讃岐の造麿」の名前のモデルは垂仁天皇妃に出てくる「迦具夜姫」とその叔父、「讃岐垂根王」に見ることができる。
 さて、物語自体の時代設定についてはかぐや姫に求婚する五人の貴公子が大きなヒントを与えてくれる。
 まず、その一番目の求婚者石作皇子は天竺にあるという「佛の御石の鉢」を取ってくるようにいわれる。この人は「心のしたくみある人」で、「天竺に二つとなき鉢を百千萬の程行きたりともいかでか取るべき」と思いめぐらし、天竺へ出発したとかぐや姫には伝え、三年ばかり経って大和国十市郡(といちのこほり)にある山寺の賓頭廬(びんずる)尊者の像の前の真っ黒に煤のついた鉢を採って錦の袋に入れて持ってくる。これはすぐに見破られ、かぐや姫からは返し文ももらえない。
 次の求婚者車持皇子には、「東の海」にある「蓬莱といふ山」にあるという「白銀を根とし、黄金を茎とし、白玉を実とする木の一枝、折りて給わらん」という。この皇子は「心たばかりある人」で、公には「筑紫の國に湯あみに罷らん」と届け出て暇をもらい、かぐや姫には「玉の枝とりになん罷る」と告げ、身辺の人々に見送らせて人には「おはしませぬ」と見せかけ、三日ばかりで漕ぎ帰り、こっそり第一級の匠をあつめ、構え三重の人の寄り付けない家を造り、そこに皇子も一緒に住み、こっそりと玉の枝を造らせた。出来上がると「密(みそか)に」難波へ持ち出し、船に乗って帰ることを知らせ、大勢の出迎えの中「いといたく苦しげなるさまして居給へり」。こうしてかぐや姫の家へ行き、蓬莱山への航海譚をおもしろおかしくするうち、庭へ六人の匠が現われ、未払い代金を払うように要求する。謀がすっかりバレて、車持皇子は姫を得られなかったばかりか、天下に大恥をかいたと山奥に隠り、生死も知れなくなってしまった。
 次に求婚して、「唐土にある火鼠のかわぶくろ」を求めてくるよう言われた右大臣阿倍御主人(あべのみうし)は、「財(たから)豊に家廣き人にぞおはしける」と書かれている。金にまかせ、唐土船の商人に頼んで手に入れるが、見事に欺される。この世のものとは思えぬ位に美しく、しかも燃えないはずの「かわぶくろ」が燃えてしまったのである。右大臣の御顔は「草の葉の色して居給えり」だったという。姫は「あなうれし」と喜んで、もう会うこともしない。
 第四は、大納言大伴御行。取れといわれたのは「龍の首にある五色の玉」である。はじめは家人を海に遣わし、自分はかぐや姫のために麗しい御殿を造って待つが、家人からは音沙汰なし。それではと自分で出かけると、龍に会うどころか嵐に遭うだけで酷い目を見、かぐや姫をあきらめる。
 五番めの求婚者中納言の石上麻呂(いそかみまろ)は、「燕(つばくらめ)のもたる子安貝ひとつ」を取ることに智恵を絞るが、他人任せにするのももどかしく、自分で高みに登り、何かを掴んだ途端、綱が切れて落ち、腰を折る。掴んだものはただの燕の糞だった。病みと恥ずかしさから、亡くなってしまう。かぐや姫は「少しあはれとおぼしけり」。しかし、「それよりなん少し嬉しきことをば、かひ(甲斐=貝)ありとはいひける」とその部分は結ばれている。
 五人の求婚者のうち二人の皇子以外は皆実名実在の人物である。江戸時代の国文学者加納諸平の研究によれば、石作皇子は多治比島(たじひのしま)、車持皇子とは、藤原不比等とされている。この二人に実在の三人を加えた五人とも大宝元年(七〇一年)の朝廷では最高の官職を占め、多治比島は左大臣、阿倍御主人は右大臣、そして大伴御行、石上麻呂、藤原不比等はいずれも大納言である。実名実在の三人は、いずれも壬申の乱(六七二年)の時に活躍している。
 物語はこのあと、噂を聞いた御門が工夫をこらした末、ようやくかぐや姫を見る場面へと続いていく。
 思うに、かぐや姫の話が実話だったがゆえに、作者は御門及びこの五人を登場させているのではないだろうか。ただし、実話を実名で記すことは差し障りがあったので、いろいろな脚色を加えてより面白くしたり、あるいは、ぼかしてストーリーを残したのだろう。大いにありうることである。
 例えば、歌舞伎の「盛綱陣屋」の話は当時の真田家の実話であるが、そのまま実名で演ずるには差し障りがあるので、時代の違う佐々木盛綱と高綱の兄弟にすり替え、脚本が書かれている。竹取物語の場合でもそれに似たことが行なわれているように思われる。登場人物は、実在のようでいておぼろげなのである。
 例えば、御門の御名はなく、二人の皇子は実在しない。しかも、実名の出ている三人のうち一番格好悪く、ついには死んでしまう中納言石上麻呂は、大宝元年(七〇一年)には大納言として他の実名の二人と共に高位の官職に就いている。つじつまをわざと外しているようである。
 では、なにゆえ全員を架空とせず、実名実在の三人を登場させているのだろうか。それは、この三人にどこか、実話と繋がっている部分があるからではないだろうか。それは一体何か? この三人の共通点は壬申の乱に関わる者だということである。しかもお互い敵味方であった。ということは乱自体よりも、それがあった時代を暗示しているのではないか。
 つまり、竹取物語では壬申の乱という実話との時代の繋がりを保ちつつ、話を面白くするために、わざと時代をずらして御門や最高官位の人々を登場させたのだと考えられる。
 壬申の乱の三年後の六七五年、ダラ女は成人して一五歳となる。実話での貴公子は実際に飛鳥に住む有名無名の若者たちだったのではないだろうか。
 現在、奈良県北葛城郡広陵町三吉にある讃岐神社は竹取の翁の住んでいた場所とされている。この辺りは昔から竹藪の多い所として有名だった。物語の中の五人の貴公子のうち、大伴御行と姓を同じくする大伴連吹負(おおとものむらじふけひ)は、この広陵町に住み、壬申の乱では、大海人皇子(後の天武天皇)側について飛鳥の地で大活躍をし、乱を勝利に導いた功労者である。とすれば、この大伴連吹負も実際にダラ女と会った可能性が大いにある。
 神社前の説明文には「……竹取翁の出身部族である讃岐氏は持統─文武朝廷に竹細工を献上するため讃岐国(香川県)の氏族忌部氏が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐姓は『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉郷があり『大和誌』では『散吉郷廃寺済音寺村』として現在の北葛城郡広陵町大字三吉の済音寺集落付近に比定している……」とある。
 これによると、三吉は「みつよし」と現在は呼ばれているが、もともとは「散吉」であっただろうことは容易に想像される。また、散吉郷については、「散楽」が「さるごう」と呼ばれたように、「散吉郷」も「さるきのこおり」と呼ばれていたのではないか。
 ところで、讃岐国から竹細工を献上するために忌部氏が移り住んだという記録はないそうである。(つづく)