かぐや姫の誕生     索引  

                    

 29 「狂心の渠」(たぶれこころのみぞ)の謎
          (世界戦略情報「みち」皇紀2670(平成22)年6月15日第318号)

 斉明天皇は「飛鳥寺の西、槻の木の下」にあった迎賓館で頻繁に国内外の客人を持てなした、と日本書紀に書かれている。そこには、漏刻(日本初の水時計)が置かれていた。
 槻(つき)とは欅(けやき)(けやの木)のことで、「けや」は「けやけし」(特別な)に由来する。二本の欅に由来して命名された両槻宮(ふたつきのみや)にも特別なものがあった。
 平成四年、酒船石のある丘の斜面にレンガ状の石垣の一部が見つかった。石は石上山で採れたものだった。その後平成一二年、万葉文化館の建設工事の折、偶然、ある遺跡が発見された。それは石垣に隣接する浅い谷間状の一帯で、一面に石畳が敷かれ、階段部分もあり渠が多数掘られている。谷間の底には湧水装置とそれに続く小判型の石造物、さらに亀型の石造物があり、それに続く暗渠が掘られている。ここには屋根の付いた建物があったと推定され、「酒船石遺跡」と名づけられて、両槻宮の遺構ではないかとされている。位置関係も日本書紀の記述と一致する(下の写真参照)。

小判型石造物と亀型石造物(奈良新聞より)

 斉明天皇は時代の先端を行く、人工湧水装置を備えた宮を造ろうとされた。しかも下水道完備である。漏刻の指導をした水工の勧めであろうか。ただ、そのためには、人工の谷を作り、人工の山を作り、山には石垣をめぐらし、谷には石畳が必要であった。多くの石と労力を費やした。
 六五四年、飛鳥板蓋宮で斉明天皇は重祚した。その翌年、天皇は一年間に三つも宮を建てている。後飛鳥岡本宮、吉野宮、そして「狂心の渠」と関わる両槻宮である。後飛鳥岡本宮の造営は、以前の飛鳥板蓋宮が前年火事にあったためであった。
 日本書紀では、両槻宮に多くの行が充てられている。
 田身嶺(たぶのみね)に、冠(かうぶ)らしむるに周(めぐ)れる垣を以てす。復(また)、嶺の上の両つの槻の樹の辺(ほとり)に、観(たかどの)を起(た)つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮(あまつみや)と曰ふ。
つづいて、
 時に興事(おこしつくること)を好む。廼(すなは)ち水工(みづたくみ)をして渠(みぞ)穿(ほ)らしむ。香山(かぐやま)の西より、石上(いそのかみの)山(やま)に至る。舟(ふね)二百(ふたもも)隻(ふな)を以て、石上山の石を載みて、流(みず)の順(まま)に控引(ひ)き、宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。時の人の謗(そし)りて曰はく「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)。功夫(ひとちから)を損(おと)し費(つひや)すこと、三万余(みよろずあまり)。垣造る功夫を費し損すこと、七万(ななよろず)余。宮材(みやのき)爛(ただ)れ、山椒(やまのすゑ)埋(うづも)れたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘(やまをか)を作る。作る随(まま)に自(おの)づからに破(こぼ)れなむ」といふ。 
 吉野宮についてはたったの一行のみ、「又吉野宮を作る」と書かれている。
 これら大土木工事は当時の人々の目には斉明天皇の無駄遣いとして映った。同年岡本宮がまたも火事に遭っている。宮の火事は放火で、人々の不満の現われといわれている。
 また孝徳天皇の皇子である有間皇子は、蘇我赤兄の謀に嵌り、謀反の企ての廉で捕まって藤白坂で絞首刑になってしまうが、その発端も、赤兄がもちだした斉明天皇の三つの失政であった。その三つとは、大いに倉を建てて民の富を蓄えること、長い渠を穿って公費を浪費すること、舟で石を運び積んで丘にすること、である。
 この時代、倭国を取り巻く海外事情は厳しいものであった。隋唐の影響力の下、朝鮮半島の三国、高句麗、新羅、百済は、それぞれ自国の内乱を期に抗争を繰り返し、隋唐の介入を招こうとしていた。こうした情勢を倭国では、隋唐、朝鮮三国からの使いや遣隋使、遣唐使などの交流を通しよく分かっていた。倭国を守るため今必要なことは、中央集権を確立し、税を集め、国力をつけることであり、朝廷側と蘇我側で競い合っている時ではないという朝廷側の判断が、六四五年六月一二日の乙巳の変につながったといわれている。二日後には早くも孝徳天皇が即位され、翌年正月一日、大化の改新の詔が発布された。そして孝徳天皇の九年間には地方豪族に対する支配強化や、新しい税制の施行などが進んだ。戸籍なども改訂版が作られ始めた。税も情報も、中央に集まった。まだ情勢が緊迫していなかった斉明朝初期には、一年に宮を三つも建てる力は充分にあったのだ。
 通説では、「狂心の渠」とは、書紀の記述に従って石上山からこの酒船石遺跡まで、一二~三キロに及ぶ運河を掘り石を運んだこと、となっている。
 はたして本当だろうか。
 一般に古代は水運が盛んであるが、当時は大和一帯も、水運が盛んだった。隋からの使者の裴世清も大和川沿いに飛鳥京に入ったとの記録がある。確かに現在の地図を見ても、飛鳥地方は、網の目とまではゆかずとも川が多い。多くの川が大和川に注ぎ込み、難波に至る。しかも、流れは現在とは異なり、当時は孝徳天皇の難波宮を横切っていた。難波と飛鳥とは直結していたのである。
「香山の西より石上山に至る」という部分は、次の「舟二百隻を以て石上山の石を載み……」に繋がっているのでないだろうか。なぜなら、石上山から飛鳥まで川で繋がっているからである。運河を改めて掘る必要はない。
 石上山から飛鳥を繋ぐ運河ではないとすると、「水工をして渠穿らしむ」という渠は何であろうか。
 自然の水路は、石上山からまず布留川を下り、流れのままに大和川に入る。寺川との合流点で船首を左に向け(控え)寺川に入る。さらに米川、八釣川を遡ると酒船石遺跡(宮の東にあたる)の近くへ至る。八釣川は香山(かぐやま)の西を流れている。八釣川は飛鳥坐神社あたりから急勾配になるため遡れず、ここからは運河としたのであろう。実際、飛鳥坐神社前から酒船石遺跡まで約四百メートル、この間、運河の遺構が発見されている(傍線部は日本書紀の記述にある)。
 酒船石遺跡は谷間の湧水装置を中心に、谷間を埋め尽くす石畳とその間を縦横に走る渠、そして暗渠から構成される。そして隣接する丘の側面には、石垣の遺構がある。
 普通、井戸水の水面は地面より低い。しかし、周りの土地を掘ってこの水面より地面を低くすれば、水面は高くなり、そこから水を引くことができる。これが人工湧水装置の原理である。酒船石遺跡では、この水面を保つためのレンガ状の石を積み上げた四角い石造物が谷底の中心にあり、そこから水を樋で小判型石造物に受け、ついで亀型石造物に受け、渠に流し、さらにそれに繋がる暗渠に流している。こうして水は常に流れ続ける。小判型石造物には、ちょっとした細工があって、穴が上部についている。樋からきた水に砂があれば、この底にたまり、水だけが亀型石造物へと流れる。そして暗渠へと流れ続ける。
 まわり一帯を掘って谷間にしたので地盤は湿っぽい。従って、石畳にして、地面を安定させる必要がある。水捌けをよくするために渠(みぞ)をめぐらす。谷間を作るために掘り出された土は、隣の丘に積む。積んだだけでは不安定かつ危険なので、石垣を組んでめぐらす。もとからあった丘の上には二本の槻の木があってその辺に観(たかどの)、つまり樓台を建てる。さぞや遠くまで見晴らしがよかったことであろう。見張り台でもあったかもしれない。
 機能からいえば、川から細い渠を引いてくれば済むところを、人工湧水による流水装置にするために、谷を作り石畳にし山を作り石垣を巡らすのは、確かに浪費と言えよう。つまり、これこそ「狂心の渠」の名にふさわしい。
 さらに、発掘によれば、谷間部分には、建造物のようなものがあったとされている。この時代、仏教寺院は中国渡来の、礎石を据え瓦屋根の建築様式であったが、宮殿は日本古来の掘立柱に茅葺き、草葺き、板葺きの様式であった。堀立柱というのは、地面に柱を直接埋める様式である。堀立柱は普通、もつのはせいぜい二〇年くらいで、柱の地面の辺りが傷んでくるのだそうである。二〇年毎の式年遷宮というのもこんな所に由来するのかも知れない。まして、湿っぽい谷間に建てられた堀立柱はすぐに腐り始めたであろうことは、想像に難くない。両槻宮の建設は何年もかかったらしい。建設の途中で「宮材爛れ」たのであろう。
 では一体なぜ、このような水流施設を作ったのであろうか。 
 ここで、日本古来の排泄物処理法は水洗方式であったことに触れねばならない。通常の処理法では、川や川から水を引いた渠に、汚物を流したことが分かっている。これは縄文時代から平城京にかけての遺跡にその痕跡がある。厠(かわや)という言葉は、つまり「川屋」なのだそうだ。
 穴を掘って埋めるという例もあったようだが、本来、汚物は川や溝に流した。穢れや不幸や厄も、水に流した。今も流し雛のような風習が残っている。「そんなことは、水に流して……」という表現は、古代よりの日本人の常識なのである。
 宮殿の中にまったく人工的に水を湧き出させ、流れをつくる。これは実に、画期的なことだったに違いない。
 斉明天皇が両槻宮に居られたことはあったのだろうか。即位されて七年目、風雲急を告げた百済を救うため筑紫に宮を移した天皇はそこで崩御された。少なくとも、石垣をめぐらした山は、ついに完成することなく過ぎたに違いない。
 以前、この山の上にある酒船石は、ペルシア人によってゾロアスター教の浄化に使われたと検証したことがあるが、おそらくこの石は今も飛鳥のあちこちに見られる謎の石像のような類を彫りだすために用意され置かれていたものであろう。石工は何らかの必要があって浄化の場を仲間のペルシア人のために彫りだした。この石工は亀型石や小判型石も造ったのであろう。将来いつか、この巨石からさらに幾つかの像が刻まれて両槻宮の人工の丘のあちこちに置かれるはずであったので、石の表面を彫っても、いっこうに構わなかった。ところが注文のないまま時が過ぎ、斉明天皇も崩御されてしまったので、石もそのままで、「謎の石」として現在に至っているのではないだろうか。(おわり)