かぐや姫の誕生     索引  

                    

 30 かぐや姫はペルシア王女だった ─ 竹取物語縁起
   (世界戦略情報「みち」皇紀2672(平成24)年1月15日第352号)

 日本書紀の斉明天皇の六年(六六〇)の末尾に一つの童歌(わざうた)が記されている。意味は不明である。
 この年、斉明天皇から兵士と送(おくる)使(つかい)を賜わり、本国へと出発したペルシア人がいた。
 この歌をペルシア語の音訳として捉えてみると、まさしく、それは大それた望みを持って本国へと出帆した夫を気遣う妻の、航路の無事を願う歌であった。しかも、その歌から、その妻はゾロアスター教徒とわかる。歌の形式もペルシア風に繰り返しが多い。
 妻の名は舎衞女、夫の名はダラである。この解釈を本誌みちに発表させていただいたのは、数年前のことである。
 その後さらに、いくつかの発見があった。
 まず、ダラの朝廷での饗応は盂蘭盆会(うらぼんえ)の催された日、七月十五日の夜であり、偶然その日が、当時のペルシア(ササン朝)では、暦の混乱から新年を目前にしていること、ペルシアの新年は先祖の魂が帰って来る日であることから、この日に、この場で盂蘭盆会と、先祖の魂が帰ってくる事が融合してしまったと考えられる、と報告させていただいた。インドにも中国にもない風習の誕生であった。
 もともと、盂蘭盆会は盂蘭盆経に基づき催されるものであり、その盂蘭盆経とは、僧侶が三ヶ月にわたる修行を終えた七月十五日、盂蘭盆を供え僧侶を供養すれば、地獄に堕ちた先祖を救うことができると説くもので、そこには「魂」は一字もない。盂蘭盆とは、花や食べ物などを載せ盛った盆のことである。
 また、朝廷でダラが紹介したであろう魂の帰る日(旧暦)は、ゾロアスター暦(太陽暦)にあてはめると、その名も「オボン」日にあたる。
 日本語の「お盆」は、単に盂蘭盆会の略に由来するのではないであろう、との報告もさせていただいた。その証拠に、「お盆」は、「時」を表わす言葉である。
 さらに、ダラの出帆は、鹿児島県十島村の七島列島にササン朝ペルシアの、新年の風習を残した。七島正月とよばれる列島独自の正月がそれである。
 一六〇九年春の薩摩藩の琉球侵攻と重なり、その時期は旧暦十一月に移動したが、逆にこれによって、もともと七島正月がペルシアと同じく春分に行なわれていたことが明らかとなる。
 古来ペルシアでは、正月の前の晩に帰ってきた先祖の魂は、家族と共に数時間過ごし、新年の夜明けとともにあの世へ帰って行くのが習いであった。ところがササン朝になって公式にとりいれた暦のために、新年の在り方に混乱がおきたので、王は苦肉の策として、魂は新年の前の晩家族の所へ帰って来て五日間ともに過ごし、六日目の朝、あの世へもどっていくことに決定したのであった。
 このササン朝ペルシアにしかみられない新年の祝い方が、七島正月と同じなのである。
 七島正月とは、正月の前の晩、先祖の魂(親魂)が帰ってきて、五日間家族と共に過ごし六日目の朝にあの世に帰って行くというものである。別名、その名も「親魂(おやだま)まつり」と呼ばれる。
 ダラの船は、おそらく波の荒い七島灘辺りで難破し、ペルシア人兵士や馬は、島々に漂着して生き延びた。その風習を島民が伝えているのであろう。
 七島列島南端に位置する宝島は、昔はトカラ島とよばれた。そのため宝島で発見された日本の古代馬はトカラ馬と呼ばれ、七島列島は、今はトカラ列島と呼ばれている。
 ダラも舎衞女もトカラ国から漂着したと日本書紀には書かれている。それもそのはず、トカラ国つまりトカリスタンと呼ばれる地域は、ササン朝ペルシアの領土であったが、ササン朝は六五一年最後の王ヤズデギルド三世が亡くなり、滅んでしまった。彼らが渡来した時には、ペルシアはもう存在していなかったのである。
 亡くなるまでの一〇年間、王はトカリスタンの中で二回、首都を移し、そこには宮廷があった。ダラも舎衞女もトカリスタンにいたのであろう。舎衞女は、「シャー(=王)女」の音訳といわれる。
 童歌の中で舎衞女の歌う、「誤った仕事」とは、祖国復興をめざしたダラの大望のことであろう。
 舎衞女には、祖国復興など、どうでも良かったと思われる。六四一年のササン朝ペルシアの首都クテシフォン脱出以来落ち着かぬトカリスタンでの生活、山を越え砂漠を越えての唐への逃避の旅、そして船出、漂流。その果ての飛鳥での平和な生活は、舎衞女には何物にも代え難いものであったに違いない。 日本書紀によれば、ダラの出帆の前年二人は結婚し、斉明天皇にその報告をしている。そして、六六一年、ダラ女が生まれている。舎衞女は平和な飛鳥でダラと静かに暮らしたかったのではないだろうか。
 ダラ女の存在は天武天皇の四年(六七六)の正月に書かれている。ダラ女は十五歳、成人の報告であろう。もしくは、成人に達したために拝謁できたのかもしれない。
 もし、このダラ女が金髪、色白でアーリアンの美しい乙女であって、突然飛鳥のどこかに現われたとしたら、まるでかぐや姫ではないかと、ふと思い、竹取物語を読むうち、ますます状況が重なることに驚いて、そのご報告もさせていただいた。
 舎衞女は、ダラが申し出た人質であり、その子であるダラ女も同様朝廷で保護されていたと思われるが、舎衞女亡きあとは、ダラ女はもう人質ではないゆえに、ペルシア人の中に引き取られた。引き取るとすれば、舎衞女とともに、漂着した男二人、女二人であろう。
  現在も飛鳥にあり、竹取物語ゆかりの神社といわれる讃岐神社は、九二七年完成の『延喜式』の神名帳に記載される由緒正しき神社である。しかし、九〇三年完成の『三代実録』には、違う名前で記録されていた。散吉大建命神、散吉伊能城神がその神社の名であり御祭神である。竹取物語は飛鳥時代の飛鳥地方で展開するものであるから、その関わりは讃岐神社ではなく、それ以前の二柱の散吉神となるであろう。
 かつて「かぐや姫の真実」でご報告させていただいたように、散吉は「さるき」と読み、ペルシア語の「サルカル」=「長・及び敬称」の音訳である。それは、竹取物語の冒頭に書かれる竹取りの翁の名が、本来は「さるきの造(みやつこ)」であったことと呼応する。
 この二人は何ゆえに祭られたのか。
 日本書紀では、ダラ女が十九歳の年、六八〇年から天変地異が多く記載される。そして三年後、大伴馬来田(まくた)・吹負(ふけひ)兄弟が相次いで亡くなった翌年には巨大地震があり、翌々年から、普通にもどる。これは、ダラ女が十九歳で急死し、その事から二人の散吉(サルカル)に悲劇が起き、その直後から、天変地異が起き始め、その悲劇(二人の死)は、大伴兄弟に起因していたために、兄弟があいついで亡くなった後は、祟りだと村人が畏れ、散吉たちが祭られて、漸く天変地異は止むという筋が考えられる。実際に大伴兄弟は神社の近辺に住んでいた。
 何かの理由により二十歳を前に急死したダラ女は、ゾロアスター教の伝統により一刻も早く鳥葬にされたはずである。ゾロアスター教徒は何よりも死を恐れ、死は伝染すると考えていた。竹取物語でもかぐや姫の月の国への昇天は二十歳である。
 また、かぐや姫に求婚する実在三名のうち二人は、正確には実名ではない。ただひとり、大伴御行のみが実名である。つまり、大伴氏の関与が示唆されている。
 なぜ、二柱の散吉神から讃岐神社にかわったのかと疑問に思っていたある日、菅原文時にぶつかった。
 竹取物語がいつ頃、誰によって書かれたのか知りたく想い、富士山の噴火と、源氏物語の中の記述とを手掛かりに作者を捜している時のことである。
 菅原文時は道真の孫であり文章博士であった。しかも、文時は、延喜式の完成後、一〇年にわたる間、神祇・神階の誤りや訛りを直した人物である。にもかかわらず、二柱の散吉神が讃岐神社に変わっていることはそのままにしている。なぜなのか。
 おそらく、二柱の散吉神は、渡来人だったからであろう。御祭神として、由諸正しき範疇には入らないとの判断があったのではないか。
 しかし、文時は、道真の祟りを知っている。その無念さをも知っているはずである。文時の父高視(たかみ)も、父道真の左遷に連なり、土佐へ流刑となった。文時も六歳まで土佐で育った。五年後許されたものの、父は三十八歳の若さで亡くなった。
 文時は、なぜ二柱の散吉神が祭られているのか、調べたに違いない。神社を残すことのできない文時にできることは、せめても「散吉(さるき)」の名を残すこと。何もしないで二柱の散吉神を抹殺することはできない。それこそ、祟りがあろう。
 文時は、「さるきの造(みやつこ)」を書き出しにして、神社の言い伝えを巧妙に脚色した。そして、物語の正式名を『竹取翁()物語』とした。かぐや姫が中心であると誰しもが思う竹取物語の正式名が実は『竹取翁()物語』であることの意味は深い。
 文時は文章博士であったから、当然古今東西の書物には、詳しい。竹取物語は、漢文がもとだったのではないかともいわれているが、時々唐突に現われる教訓めいた表現は古事記や風土記にも見られる。万葉集や天皇の系譜の中から登場人物名を選ぶなど、訳もないことであろう。
 また、かぐや姫の昇天の有様は文時の時代に広まりつつあった浄土思想に基づいている。阿弥陀如来来迎図は、竹取物語の中の昇天の具体的描写そのままである。しかも、天女はこの世は穢土といい、かぐや姫に早く月の国(浄土)へ帰還するようにと促すのである。
 阿弥陀如来は月の国王と代わっているが、これは異国より渡来したことを示唆している様で興味深い。
 この物語は、そのおもしろさゆえに、すぐに広まった。写本も多く、口頭でも語られて多くの異本が伝わっている。
 ただ、皮肉なことに、「さるきの造」は、いつのまにか「さぬきの造」となってしまった。
 これは、トカラ島が宝島となったように、単に意味不明の音が意味を持つ知っている音へ変化したにすぎないと思いたい。(おわり)