みょうがの旅    索引 

                    

 第3回 みょうがの旅 3 ── 茗荷の冥加に導かれて 3
            (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)3月15日第356号)

●早稲田穴八幡宮の元別当寺の放生寺(ほうしようじ)の境内に神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の小祠を拝したとき、昨年一二月一五日発行の本誌第三五一号に掲載された、役小角(えんのおづぬ)への神変大菩薩諡号下賜と石清水八幡宮並びに賀茂神社両社の臨時祭復活についての栗原茂氏の記事がふと頭に浮かんだ。
 栗原氏の論稿は筆者の頭には難しすぎたが、これで「言を絶つ」と締めくくられた最後の記事にはつい感じ入ってしまった。というのも、数年前の一時帰国の際に天童氏から栗原氏にお引き合わせいただいた際、茗荷紋の研究をしていること、また翌日には石清水八幡宮を初めて参拝することを申し上げると、光格天皇のこれらのおはからいについてお話をされたからだ。
●栗原氏が常に強調される、歴史上の先達の行動や物事の展開の「意に通じる」とは如何に? と問われても、まだまだ答えに窮するばかりだ。しかし、栗原氏の記事を読んだほんの数日後に穴八幡宮元別当寺の境内に神変大菩薩の小祠を拝し、その翌日には皇居参拝の後に天童氏から茗荷紋について記事を書くべしと諭されると、もはや研究が不十分だのと言っている場合ではないと直感したのだ。これは、「意に通じる」ことになるのだろうか?
●このご縁ももっと遡れば、摩多羅神(またらじん)の話ならば、と天童氏に引き合わせてくれた友人のおかげである。留学先で知り合った彼とは初対面から意気投合し、付き合いは早や一〇年を超える。やはり早稲田に縁があり(早大卒)、近年知ったばかりだが、家紋は鷹羽紋だ。インターネットで知った範囲では、鷹羽紋と茗荷紋の両方が一緒に使用されている場合が結構あるらしい。鷹羽紋との関係は後々触れるが、こう振り返ると、「みょうがの旅」に出るに至ったのも、目に見えぬものの働きではないかと、今更ながら思いたくなる。
●目に見えぬものの働きは勿論、どの家紋の誰であろうと、また今いかなる境遇にあろうと、過去そして将来において仮に過ちを犯したとしても、受けているのだと思う。ただ筆者は、現地調査とはいえ、崇敬の念を持っての参拝が基本と心得て社寺を巡っているうちに、人生の様々な出来事の持つ意味とそれらのつながりやご縁について認識を常々改めていく「気づき」をいただく機会が増えているようではある。健忘症なので境内で失礼ながら写真もよく撮るが、「済みませんが勉強させてください。ありがとうございます」、と念じている。そして、できる範囲でゴミを拾う。見知らぬ家の墓でも茗荷紋を目にすると合掌する。遠方の社寺で見聞きしたことが後に新たな気づきにつながると、御祭神や御本尊を同じくする近隣の社寺へお礼に参る。自宅の仏前でも感謝の気持ちを述べる。
●すると不思議なことに、何気なく立ち寄った本屋で思いがけず好著に出会うことが多くなった。いい文献はないかとネットや図書館で血眼になって探すほうが見つからない。本稿で取り上げる文献は、まるでこちらの目に飛び込んできたようなものがほとんどだ。
 前に文献は二の次の研究だと書いたが、社寺の境内は書物の記載に漏れた情報の宝庫だ。神官や僧侶が常駐しない小さな社寺でも、祠堂や燈籠、手水鉢、手拭の図柄、紋、神石や神木その他の石や植物、庭や池、境内の中でのこれらの配置、周囲の地形等々、気がつくままに写真を撮っていると、小一時間位はすぐに経つ。そこへ関係者がちょうど姿を見せてお話をしてくださることもある。道端の小祠やお地蔵さんも拝むと、近くの大きな社寺の信仰の特徴がよく見えてくることがある。
 時には大雨に遭って立ち寄った喫茶店で、店主が自ら持ち出してきた本に、探し求めていた情報を見つけたこともある。旅費を節約せねばと思いつつも、各地の名物につい食指が動いて覗き込んだ店内で、研究上の示唆を得ることも少なくない。筆者のいう、目に見えぬものの働きとは、ほとんどがこういうことを指す。神仏や祖霊への感謝の心を忘れず、研究がその意に適うならば、食欲さえも気づきに導いてくださるのか?これもまた「煩悩即菩提」なのだろうか?
●春日大社の葉室賴昭(はむろよりあき)元宮司の著書『神道 夫婦のきずな』(春秋社)によると、神の奇跡とはありえないことが起こることと思われがちだが、ありえないものがこの世に現れることはなく、神のいのちは宇宙に充満しているので現れるのは当然で、現れてこない(見えない)のは我欲があるからだ。だから日本人は古来、罪・穢れ(我欲)を祓い続け、神のいのちが現れるように、神に近づこうとしてきた。
 本誌前々号で紹介した能楽師ワキ方の安田登氏の著書によれば、何かをきっかけに人生の深淵の暗闇を覗いてしまったワキが「道行(みちゆき)」=漂泊することも禊祓いであり、過去の自分を水に流し、新たな生を生き直すことになる。
「みょうがの旅」も自分の無明や煩悩を禊祓う道行であり、目に見えぬ神仏祖霊の加護に感謝しては、また新たな気づきをいただいていく。すると心の深淵にも笑顔が浮かび、笑い声も響く。行く手には光明らしきものもほのかに見えてくる。この感覚も復(また)「一陽来福」に似ている。