みょうがの旅    索引 

                    

 第5回 みょうがの旅 5 ── 一陽来復 2
          (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)4月15日第358号)


●八幡信仰もまた卯(う)と壬辰(みずのえたつ)に大いに関係する。壬辰の各字に女偏を付ければ妊娠となるが、八幡大神=應神天皇の母神の神功皇后は、妊娠されたまま朝鮮親征を敢行され、住吉三神など海の神々の神助をいただかれて凱旋の後、福岡県糟屋郡宇美町(かすやぐんうみまち)は宇美八幡宮の地で太子(ひつぎのみこ)を無事お産みになられたと伝わる(因みに、本号の発行日とその前日はこの宇美八幡宮と、仲哀天皇・神功皇后二柱が主祭神の香椎(かしい)神宮で御神輿が出る春の大祭が斎行されている)。そして後に應神天皇が八幡大神として三歳の小児のお姿で顕現されたのは、『八幡宇佐宮御託宣集(はちまんうさぐうごたくせんしゆう)』(宇佐宮別当弥勒寺(みろくじ)学頭、神吽(じんうん)の撰)によると、時は欽明天皇三二年辛卯(かのとう)の二月癸卯(みずのとう)、場所は宇佐の地であった。
 應神天皇を胎中(たいちゆう)天皇とも申し上げるのは、神功皇后の胎内ですでに皇位継承が決まっていたことに由来するが、妊娠中の神功皇后の胎中の太子、すなわち「一陽(いちよう)」が一旦西方の朝鮮に向かわれ、「復(また)(東方の日本に帰って)来」られたというわが国の故事も、穴八幡宮冬至祭の「一陽来復御守」には込められていると思う。宇美八幡宮の御神輿も西方の井野山(いのやま)の麓にある御旅所まで行って、東方のお宮に帰って来られることとも符合しようか。ただ、宇美八幡宮からみて井野山は南西にあるが、筑紫から北西の朝鮮も『古事記』では「西の方に國有り」と記される。香椎神宮、後述の筥崎(はこざき)八幡宮(應神天皇、神功皇后、玉依姫命の三柱)、宮地嶽(みやじだけ)神社(息長足比売(おきながたらしひめ)命=神功皇后、勝村(かつむらの)大神、勝頼(かつよりの)大神の三柱)の御神輿の御旅所もすべてお宮の西方にある。
 神功皇后の妊娠(=壬辰)中から既に天皇であらせられた應神天皇(胎中天皇)が、後に八幡大神として顕現されたのが卯年、卯月、宇佐の地で、いずれも辰から一巡し終える卯である。
『古事記』には「筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島里」(佐賀県唐津市玉島川)に神功皇后が到着されたのが「四月(うづき)の上旬(はじめ)」とあり、このとき神功皇后が御裳の糸で飯粒(いひぼ)を餌として年魚(あゆ)をお釣りになられたのが、四月=卯月上旬に女人が裳の糸で飯粒を餌にして年魚を釣る慣わしの由来とある。
 八幡大神ご顕現の旧暦二月初卯に基づく宇佐神宮の例祭は「宇佐祭」、豊後一之宮柞原(ゆすはら)八幡宮の例祭は「初卯(はつう)祭(さい)」と呼ばれる。筥崎宮では二月と一一月にも「初卯祭」がある。
 八幡信仰においてこれほど卯が強調されていることからして宇佐の「う」にはやはり卯の含意もあるであろう。人皇としての生誕地、宇美町からみた卯の方角(東方)の土地でもある。宇美の地名もまた、神功皇后が出産を遅らせるために御裳の腰に纏(ま)かれた石が残る「筑紫國の伊斗(いとの)村」(福岡県糸島市に鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮あり)や、前出の「筑紫の末羅縣の玉島里」からみて卯の方角にあることが意識されているのではないか。前出の『託宣集』によれば、大分(だいぶ)八幡宮(福岡県飯塚市大分)が宇佐宮の本宮であり、なおかつ筥崎宮の元宮でもあるが、宇佐宮は大分宮からみても卯の方角にある。
●宇美八幡宮の傍を流れる宇美川が北西方向に下って博多湾を目前に大きく北へ湾曲し、今度は川筋が多々良(たたら)川の方向に変わる辺りに、宇佐神宮、石清水(いわしみず)八幡宮とともに日本三大八幡宮に数えられる筥崎八幡宮(福岡市東区箱崎)が鎮座する。ここは應神天皇御生誕の際の御胞衣(みえな)が筥に納めて埋められた地である。境内のその場所には標として植えられた「筥松(はこまつ)」が祀られ、特に安産や育児のご加護が仰がれる。
 ご本殿には應神天皇を主祭神として神功皇后と玉依姫(たまよりひめ)命の三柱がお祀りされている。各地の八幡宮の「八幡三神」は様々であるが、管見では應神天皇と神功皇后の母子神は必ず祀られており、八幡信仰はやはり母子神信仰が中核をなす。神功皇后の尋常ならぬ妊娠期間の長さや、霊石による出産時期の調整、身重のまま朝鮮親征に向かわれ、凱旋後無事ご出産されたこと、そしてその後も長く摂政として應神天皇を見守られたことは、安産と育児の母性を強調する神話である。
●ところで、現代巷間では記紀神話について、天皇家と、特に古代から中世にかけて権勢を誇った藤原氏にとって都合の良いように史実を神話化したものであるとか、現代の常識では想像し得ないような神功皇后のこれらの御事績などは非現実的とする見方がある。ここでは「史実の神話化」という考え方が抱える問題を論ずることはあえてしないが、顕幽両界を往来する「みょうがの旅」では神話を神話として、様々な伝承や伝説を、相互に矛盾があるとしても、信仰思想としてとりあえずそのまま受け入れていく。
 本誌第三五四号で能楽師ワキ方の安田登氏の著書『異界を旅する能 ワキという存在』を引いて、本稿をワキの「道行(みちゆき)」に譬えたが、ワキは「道行」の途中で予期せず様々な霊と出会い、その語る内容をただひたすら聞くのであり、それが霊の鎮魂となるそうだ。「みょうがの旅」も神話や民話、伝説などを語り、書き残してきた我々の先祖たちの思いを、「史実」と異なる点も、相互の矛盾も含めすべて尊重しなければ、「道行」とはならないのだ。
●筥崎八幡宮の近くには結縁寺の高野山真言宗瑠璃山医王密寺恵光院(えこういん)がある。御本尊の薬師如来や八幡大菩薩のほか諸仏諸菩薩諸天、鎮守の神々が祀られる。一一月の初亥の日に亥子(いのこ)金幣(きんぺい)祭(さい)という愛染明王(あいぜんみようおう)を御本尊とするお祭りがある。このとき丸い桶の中に銀杏を詰めた桝を二段に重ね、上段の銀杏の中に金幣を立ててお参りする。お接待には銀杏の炊き込みご飯が供される。丸い桶が「家庭円満」、銀杏の詰まった二段の桝は「益々繁盛」を意味するそうだ。「家庭円満」とは特に夫婦和合、「益々繁盛」は子孫繁栄と考えれば、愛欲の煩悩を悟りへの力に変え、男女の敬愛と和合(和合は子孫繁栄の前提)に導く愛染明王を御本尊とするのもわかる。金幣と銀杏の組み合わせは、穴八幡宮の「一陽来復御守」の中の金柑と銀杏を想起させる。
●「一陽」については本誌第三五五号で「銀杏」(いちょう)と「陰陽」(いんよう)の含意もあるだろうと指摘していた。まず「陰陽」については、「一陽来復御守」の金柑を陽、銀杏は陰に仮定する。金色は太陽の色を形容するのに用いられるし、また男根を「金精様(こんせいさま)」と称えて崇拝する信仰があるので、金柑を陰陽の陽とすることに異論はないと思う。恵光院の金幣も金色の幣が串、つまり棒状のものに取り付けられたものである。
 銀杏はしかし、金柑の陽と対をなす陰というだけではない。銀杏は御守の中で金柑(=陽)と一緒になり、その結果復(また)生じた新たな「一陽」を自らの内に宿した陰である。言い換えれば、男と一緒になった女が妊娠して胎内に子を宿した姿が、白い肌色のような殻の中に実を内包する銀杏に重なる。「いちょう」は「銀杏」とその中に宿る「一陽」を、音と内実ともに重ね表わす。「一陽来復御守」は夫婦和合と妻の妊娠の状態であり、妊娠は壬辰=陰気が去り、陽気が生じて万物が妊み動き出す時であり、妻の妊娠(胎児に恵まれること)で新たな段階が始まる家族の姿だ。應神天皇=胎中天皇と父神の仲哀天皇、母神の神功皇后が御祭神の穴八幡宮ならではの御守である。
●以上をここで少しまとめておこう。
 ①ウ…始源…天之御中主神…妊娠、安産、育児の守護
 ②ウ…卯、宇美、宇佐…應神天皇御降誕(…八幡大神顕現)と神功皇后…長期の妊娠、安産、長期の摂政
    …母子神信仰…妊娠、安産、育児の守護
 ③一陽来復御守…金柑と銀杏…陰陽和合、妊娠(=壬辰)
 ④一陽…銀杏…妊娠(=壬辰)中の母と胎児…神功皇后と胎中天皇(=應神天皇)…妊娠、安産、育児の守護
 ご由緒の中でやはり卯が重視され、神紋も真向きの兎である三尾(みお)神社(滋賀県大津市)の境内には天之御中主神を始め造化三神を祀る日御前(ひのごぜん)神社があり、安産と育児守護の神と信じられ、例祭では朝瓜に子供の名前を書いて奉納する。これを創祀した天武天皇の長子大津皇子の第三の姫宮の瓜生(うりう)姫は、また「卯龍(辰)姫」でもあろうか。
●銀杏に子孫が宿る姿を見出し、子孫繁栄を祈る信仰は、博多の総鎮守である櫛田(くしだ)神社(大幡主(おおはたぬし)大神、天照皇(あまてらすすめ)大神、素盞嗚(すさのを)大神の三柱)のご神木の一つ、「夫婦銀杏(めおとぎなん)」にも見られる。博多では銀杏を「ぎなん」と呼ぶ。これは雌雄同株の銀杏で、雄木二本と雌木一本からなり、しかもこれら三本に凌霄花(のうぜんかずら)(通称、愛染かずら)が根元から梢まで絡まっている。立札には雌木に「子孫を宿すところから夫婦円満、縁結びの霊樹」とある。「愛染」と「銀杏」の組み合わせには、恵光院の亥子金幣祭の御本尊愛染明王とお供物の銀杏も思い浮かぶ。櫛田神社の「夫婦銀杏」の真正面には境内社の夫婦恵比須(めおとえびす)神社(事代主(ことしろぬし)神、玉櫛比賣(たまぐしひめ)神の二柱)があり、またやや左に逸れる参道を進むと楠の下に白龍権現(はくりゆうごんげん)と子(こ)安(やす)観音を祀る小祠が二つ並ぶ。これらの神社と祠が「夫婦銀杏」と密接につながるのは誰にも明らかだろう。
●博多で銀杏を「ぎなん」と呼ぶのは、七月の一五日間に及ぶ櫛田神社の代表的な神事「祇園山笠(ぎおんやまかさ)」に関係していると思う。鎮座地の現住所は博多区上川端町(かみかわばたまち)だが、すぐ隣には今も祇園の地名が残り、最寄りの地下鉄駅も祇園駅である。京都の八坂神社の祇園祭では車輪付きの山鉾が市内を優雅に練り廻るが、博多の祇園山笠では、樹齢千年を超える「櫛田のお銀杏(ぎなん)」(夫婦銀杏とは別)の樹上の太鼓が卯の刻一分前(午前四時五九分)に鳴るのを合図に、人形などの飾り付けをした重さ一トンほどの「山笠」(車輪はない)を博多の七つの「流(ながれ)」(博多の自治組織)の男たちが順次担いで、全長約五キロメートルのコースを疾走してタイムを競う、「追い山笠」が神事のクライマックスである。古来活気ある博多の風土を象徴する神事といえる。ならば、銀杏を「ぎなん」と呼ぶ博多っ子の気持ちもお分かりいただけよう。わが国の言霊の発想を考える上で興味深い一例ではなかろうか。
 東京早稲田の穴八幡宮「一陽来復御守」の銀杏から、福岡の筥崎八幡宮結縁寺の恵光院の亥子金幣祭の銀杏、そして櫛田神社の「ぎなん」と祇園山笠へと話題が及んだのは、四月一日壬辰、本号に書く内容を決める前に櫛田神社を参拝し、その元別当寺の南岳山東長寺の大仏護摩供(御本尊釈迦如来)に参列したおかげか、博多の櫛田神社にも八幡信仰が大いに関係するように改めて思われたからだ。(つづく)