みょうがの旅    索引 

                    

 第5回 みょうがの旅 6 ── 一陽来復 3
          (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)5月1日第359号)


●博多総鎮守の櫛田(くしだ)神社と八幡信仰の関わりについて、改めて祇園山笠から見ていこう。祇園山笠は櫛田神社のご祭神の一柱、素盞嗚(すさのを)大神のお祭りであるが、実は博多で疫病が流行ったとき、臨済宗東福寺(とうふくじ)派の祖であり、萬松山勅賜承天(じようてん)禅寺(福岡市博多区御供所(ごくしよ)町)の開山、聖一(しよういち)国師圓爾(えんに)辨圓(べんえん)が施餓鬼棚の上に担がれ、祈祷水(甘露水)を撒きながら博多界隈を回って疫病退散を祈祷したことに始まる。そしてこの神事に際しては、聖一国師の教えにより筥崎八幡宮社前の海浜で「お汐井(しおい)」を取ることになっている。
 実際に祇園山笠の期間中、参加者たちが法被、締め込み、地下足袋の姿でちで「流(ながれ)」(博多の自治組織)単位で櫛田神社から筥崎宮の海浜まで列をなして走って行き、玄界灘に沈みゆく夕陽を拝しつつ、お汐井を「テボ」と呼ばれる竹ひごで編んだ小さな篭などにに入れて持ち帰り、日々のお祓いに使用する。「お汐井取り」に行くときや山笠を「舁く」(=担ぐ)ときに「オッショイ」などとかけ声をかけるが、これは「お汐井」が語源だそうだ。
 お汐井とは海水に洗われた真砂(まさご)のことで、外出時や神社参拝の折に身に振りかけたり、建物新築の際の土地の清めや田畑の虫除けにも用いる。
 お汐井取り自体は神社の祭神にかかわらず福岡、とりわけ玄界灘沿岸に古くから伝わる信仰である。筑前一之宮住吉神社(福岡市博多区住吉)や、古代海人阿曇族の本拠地の志賀海神社等々、手水舎で両手と口を清めるだけでなく、お汐井を片手につまんで自分の身体に振りかけて参拝する作法が残る。現代ではこれを知らない参拝者も多いが、それでも境内にお汐井が盛られていたり、適量をいただいて帰ることができる神社は少なくない。一般に海神と呼ばれない伊弉諾(いざなぎ)尊、伊弉冉(いざなみ)尊、火産霊(ほむすび)神、天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊の四柱を祀る愛宕(あたご)神社(福岡市西区愛宕)は日本三大愛宕に数えられる福岡最古の神社だが、ここでも夏と冬の「御潮井受け」は大切な行事だ。海からやや離れた福岡県春日市の春日神社で初春に行なわれる「婿押し祭り」でも、祭りの重要な一部として「お汐井取り」が近くの春日川で行なわれる。
●これほどお汐井信仰が古く根強い福岡で、聖一国師が博多祇園山笠の際に櫛田神社の社前でも、また特に禊祓いのご神徳が良く知られる近隣の住吉神社でもなく、直線距離でも三、四キロ離れた筥崎宮の海辺での「お汐井取り」を指示したのは何故か?
 一つは、聖一国師が宋から帰朝の折に玄界灘で嵐に遭遇したとき、八幡大菩薩に祈願して助けられたことも大きく関係するようだ。この神恩に感謝して承天寺一山の僧侶は毎年年始に筥崎八幡宮のご神前でお礼参りの読経をする慣わしで、今年はちょうど七七〇回目を数えた。禅僧たちは筥崎宮の後、筥崎宮結縁寺の高野山真言宗恵光(えこう)院にもお参りする。恵光院については、その亥子金幣祭(いのこきんぺいさい)と東京早稲田の穴八幡宮の「一陽来復(いちようらいふく)御守」や元別当寺の法生(ほうしよう)寺の「一陽来福御守」との関連性を前号で指摘した通りである。
●ところで、歴史研究において学界や巷間で「王権」なる言葉が使われる。二六〇〇年以上の皇紀暦を有するわが国のご皇室と、変遷を繰り返す他国の「王権」とは容易に比較しがたいとも思うが、わが国の「王権」の確立における海神と海人族の役割がしばしば強調される。山佐知毘古(やまさちびこ)(天津(あまつ)日高(ひだか)日子(ひこ)穂穂手見(ほほでみ)命)は鹽椎(しおつち)神の導きで龍宮を訪れ、海神(わたのかみ)の娘の豊玉毘賣(とよたまびめ)命と結ばれて天津(あまつ)日高(ひだか)日子(ひこ)波限(なぎさ)建(たけ)鵜葺草(うがや)葺不合(ふきあえず)命がお生まれになり、豊玉毘賣の妹の玉依毘賣(たまよりびめ)命が乳母、後には妻となられ、その間に神武天皇がお生まれになった。神武天皇の東征では、槁根津日子(さをねつひこ)命が水先案内をされた。神功皇后は朝鮮親征の際、住吉三神ほか多くの海の神々の神助をいただかれた。
 穴八幡宮の「一陽来復御守」には、太子(ひつぎのみこ)の應神天皇が母神の神功皇后の胎内にいながら一旦海を隔てた西方の朝鮮に向かわれ、復(また)東のわが国に戻って来られた故事も込められているだろうと前に書いた。しかしこの故事は、大和から海を隔てた西の九州から東征された神武天皇のご事績と通じるようにも思う。果たして穴八幡宮境内の西の一角には神武天皇遙拝所がある。西に向かって神武天皇を遙拝するのは、即位された大和の白檮原(かしはら)宮が東京の西方にあるからだけでなく、「一陽」が西から東に復来ることを願う信仰も重なっているように思う。
●このように思い及んだのは、先月下旬に本業の出張で上京し、本稿執筆のきっかけとなった東京穴八幡宮と元別当寺の法生寺にお礼参りに行ったときである。今回の参拝では、一の鳥居の傍の流鏑馬の銅像の下にあった「早稲田ミョウガ」の案内板は場所が変わったのに気づいた。他所でもこういうことはあるので、取材は到底一回で終わらない。本稿で触れている、特に福岡の社寺だけでも何度参拝したか数え切れないが、いまだに毎回何かしら新たな気づきをいただく。
 元別当寺の法生寺では、数日前の四月一八日に春のご本尊聖観世音(しようかんぜおん)菩薩(秘仏)の開扉法要があったことに改めて気がついた。上京日程からすれば開扉法要にも間に合うはずだったが、今回はお礼参りの行き先を選んだだけで、下調べをしていなかった。
 以前は神事や法要を見逃すと非常に残念がったものだが、旅を重ねるうちに、見たいものが見られなくとも、代わりに別の興味深いものに予期せず出会う方が楽しみになってきている。
 能楽の上演の前後に能楽師(特にシテ方)と司会進行者の対談が行なわれる企画に時々行くが、舞台に出る前に予めどういう風に舞うか考えてはいない、という話を何度か聞いたことがある。コツコツと稽古を重ね、段々無心の境地に近づいていって、演じる役の霊が演者に降りてくる状態を追求しているのだろうか。これと「みょうがの旅」を比較するのはおこがましいが、小さな祠や路傍のお地蔵さんにも掌を合わせ続けていると、その時々の自分に必要なものを見聞きさせ、次に行くべき所へ導いてくださるようにも思う。それらはあくまで予期せぬ結果である。予期せぬからこそ冥加なのだ。
●小さな壊れかけた仏像でも、ごく少数であれ実在の人々の具体的な願いや思いを受け止めてくださっている。自分がその人たちと何らかのご縁で結ばれているかもしれないし、その人たちがこれらの祠や仏像の前で抱いていた思いを自分は共有しているかもしれない。そういう風に思いつつ、時間や心の余裕がある範囲で掌を合わせている。
 福岡市天神のある交差点に雨合羽を着たお地蔵さんが立っている。その場所では筆者も時間や心の余裕がないのか、合掌したことがなかった。ところが先月三日、西日本から東日本へと吹き荒れた台風並みの暴風の中、乗っていたバスが「雨合羽地蔵」の傍を曲がるとき、一人の中年女性が笑顔で駆け寄っていくのを認めた。彼女は化粧もせず、バッグも持たない。ただ一房の桜花を握っているだけだ。女性は桜をお地蔵さんの足下にお供えすると、より一層の笑顔で合掌してどこかへ走り去った。地蔵尊の周りの花壇の花は暴風でほとんど横倒しになりながらも踏ん張っている。その宝前で初めて合掌すると、少し前に参拝していた博多の住吉神社の境内の桜も枝が折れんばかりに揺れていたが、花びらはあまり散らなかったさまを思い出した。
 美しいままに散りゆく桜に日本人はよく「潔さ」を感じ取るが、今度の大暴風にも耐えて花を散らさぬ桜には、東日本大震災で被災しても自らを律して生きていく人々の姿を、「雄々しさ」と表現された天皇陛下のお言葉を思い出した。桜に「雄々しさ」を感じたのもこの日が初めてである。日本人が昔から桜に特別な気持ちを寄せてきた理由が今少し分かった気がした。
●東京での「道行」に戻ろう。穴八幡宮から諏訪通りを進み、境内に銀杏が多い諏訪神社(ご祭神は大国主(おおくにぬし)命と事代主(ことしろぬし)命、江戸時代初期に武御名方(たけみなかた)命を合祀)を経て、全国でも珍しい干支祈願が行なわれる稲荷鬼王(きおう)神社(新宿区大久保)で桜草を拝観した。本稿が「一陽来復御守」に始まり、その信仰と相通じる干支の壬辰(みずのえたつ)を取り上げてきたからでもあるが、先述の通り今年は桜など花々にも関心を強めているからだ。稲荷鬼王神社の社号は紀州熊野の鬼王権現(月夜見(つきよみ)命、大物主(おおものぬし)命、天手力男(あめのたじからお)命)を大久保村の氏神稲荷神社に合祀したことに由来すると知った。
 JR新宿駅に向かう帰り道では新宿総鎮守の花園(はなぞの)神社の前に出た。土地勘のない筆者には予期せぬことで、花に関心を持ち出した矢先でもあり、この社号に冥加を感じた。社報『花その』第二〇七号の表紙には「桜の開花四月一日」と付記された写真が載っている。四月一日の干支も壬辰だった。
 花園神社の由緒書には、大和の吉野山より勧請とある。役行者が開祖の修験道は、紀伊半島ならば大峰山脈の熊野側を胎蔵界曼荼羅、吉野側を金剛界曼荼羅と捉え、金胎(こんたい)不二の曼荼羅を本尊とする。金柑と銀杏の「一陽来復」の穴八幡宮→元別当寺で役行者も祀られる法生寺→銀杏の多い諏訪神社→紀州熊野から勧請の鬼王神社→大和吉野から勧請の花園神社へと、図らずも新宿の一角で修験道由縁の聖地を巡拝する形となった。因みに、この日会った得意先も王子の紀伊神社の氏子である。不二は富士でもあるが、鬼王神には富士信仰の浅間神社が、花園神社には芸能浅間神社も祀られる。富士信仰はまた諏訪信仰とも関わりが深い。
 帰り際に花園神社の社号入りの石柱に彫られた「皇太子殿下御降誕記念」の文字に気づいた。出発地点の穴八幡宮でも、明治以後中断していた流鏑馬が、今上天皇陛下のご生誕を奉祝して昭和九年に再興されたことを思い出すと、忝い気持ちで一杯になった。
●ご皇室の四所宗廟(ししよそうびよう)として伊勢神宮、宇佐神宮、石清水八幡宮とともに、福岡市東区の香椎神宮も加えられる。香椎宮には主祭神の仲哀天皇と神功皇后の他に應神天皇と住吉大神が祀られる。すなわち、伊勢神宮の他残る三所はすべて八幡宮ともいえる。
 博多の櫛田神社は伊勢からの勧請とされ、天照皇(あまてらすすめ)大神の祭祀は主祭神の大幡主(おおはたぬし)大神より古いそうだ。大幡主大神は、天照皇大神が三輪山から伊勢へご遷座されるまでお供をされた大若子(おおわくご)命である。聖一国師が博多祇園山笠の際に筥崎八幡宮でのお汐井取りを指示したとき、四所宗廟に窺われるような伊勢信仰と八幡信仰の関係性も意識していたのだろうか。(つづく)