みょうがの旅    索引 

                    

 みょうがの旅 13 ── おしほい 7
  (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)9月1日第366号)


●伊邪那岐大神(いざなぎのおほみかみ)の阿波岐原(あはぎはら)での禊祓により成(な)り(生(な)り)ませる神々のうち、本稿でまだ愚考が及んでいないもう一柱、飽咋能宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)(日本書紀では、御褌(みはかま)に成る開囓神(あきくひのかみ))について今の考えを述べねばならない。伊邪那岐大神の御冠(みかがふり)に成りませるこの神は、何よりも先ず葦と関係があるように思う。葦は特に河口付近に多い。海と河の境界の河口は水戸(みなと)とも呼ばれ、前にも触れた水戸神(みなとのかみ)=速秋津日子(はやあきづひこ)・速秋津比賣(はやあきづひめ)の二神(ふたはしら)の「秋津」も、葦が密生した津=「葦津」の含意を持つと思う。アキとアシは相通じるのだろうか。大祓(おほはらへ)詞で(のことば)は速開都比賣(はやあきつひめ)と記され、「秋」は「開」にも通じるようだ。

 荒潮(あらしほ)の潮(しほ)の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の
  潮(しほ)の八百會(やほあひ)に坐(ま)す速開都日賣(はやあきつひめ)
   といふ神(かみ) 持(も)ち加加(かか)呑(の)みてむ

 大祓詞のこの一節の「持ち加加呑みてむ」に、口を開いて囓む、囓ると書かれる開囓神を連想する。密生する葦によって水や土地が細分されたかに見える様も、開囓や、「加加呑みてむ」の表現に繋がるようだ。また、葦の密生する場所は、その土地が葦で飽和状態になった場所ともいえる。アシと相通じるアキ(秋)の豊穣に気を許せば飽食に陥る。飽食もアキグヒと読める。
 葦は直立する杭=咋のようにも見えるので、飽咋は葦咋でもあろうか。伊邪那岐大神の御冠の形状に言及はないが、以上の連想からすると、櫛の歯のようなものが直立の葦さながら密に並んでいたのだろうか?葦が水を浄化する役割を果たすことに注目すると、心身浄化の禊祓の過程でミカガフリと訓む御冠に成りませる飽咋能宇斯能神が、

 アキ(飽、秋、開)…
 アシ(水を浄化する密生する葦)

の言霊により、水戸で「持ち加加呑みてむ」速開都(秋津、葦津)比賣の禊祓のご神徳に通じることが窺われる。
●葦はわが国の神話で特別な位置を占める。『古事記』では早くも冒頭の別天神(ことあまつかみ)が成りませる天地(あめつち)の初發(はじめ)の段で、「葦牙(あしかび)の如(ごと)萌(も)え騰(あ)がる物(もの)に因(よ)りて、成(な)りませる神(かみ)の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備(うましあしかび)比古遅神(ひこぢのかみ)、…」とあり、最初に登場する植物だ。わが国の国名は葦原中國(あしはらのなかつくに)や豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂國(みずほのくに)であり、本州は大倭(おほやまと)豊秋津嶋(とよあきづしま)で別名は天御虚空(あまのみそら)豊秋津根別(とよあきづねわけ)である。秋が葦に通じるとすれば、これらの名は尚一層、葦の根本的な重要性を示していよう。
 現代の地図を眺めると、人口が集中しているのが主に海の沿岸部や盆地であることに改めて気づかされる。しかも大都市は比較的大きな河を中心に形成されている。人間が住み易いのは山間よりも平野だ。生命維持に不可欠な水も川の中下流域に当たる平野の方が豊かだ。江戸時代に城が平野に移ってくるが、それまで武士は山城に住んでいたのではなく、山城は有事に備えた要塞であった。その主な理由の一つは、山中では大人数の常住を可能にするような量の水資源に恵まれていないからだと、聞いたことがる。最近では名水というと山間の上流や湧水が思い浮かぶが、平野でもかつて葦原だった所は、葦によって水質が浄化されていた。インターネットで調べていると、フジクリーン工業株式会社のホームページの「水の話」の中で、葦の根元を数十センチも掘ると、そのまま飲むことができるほどきれいな水が溜まってくることを知った。
●生命維持には塩も不可欠だ。岩塩がほとんど産出しないわが国では、海水塩に頼るほかない。ならば、大昔は生活や生業の必要から山林に入ることはあっても、大方の集落は基本的には沿岸部に形成されたと考えるのが自然だろう。宮本常一著『塩の道』(講談社学術文庫、一九八五)では、山間部での塩の確保と流通の歴史がよく窺われて興味深い。ここでその内容に詳しく触れる紙幅はないが、「どんな山の中にあっても日本人というのは、海とのかかわり合いをもっていた」こと、そして「川が…(中略)…最初の塩の道であった」ことは特筆しておきたい。これは、綿津見、住吉、宗像などの海の神々が、阿波岐原(あはぎはら)の中瀬(なかつせ)や天安河(あめのやすのかは)という河で成りませること、そして山佐知毘古(やまさちびこ)を海中の龍宮へ導くのが鹽椎神(しほつちのかみ)であることも想起すると、宮本の洞察は一層興味深い。
 この阿波岐原の中瀬や天安河がある辺りと思われる、平野の河と海の接点の水戸の葦原は、満潮時は潮水が優勢、干潮時は淡水が優勢となる、低塩濃度の汽水域である。遠浅の場所では汽水域も広がる。遠浅の汽水域の好例といえる博多の那珂川の傍に鎮座する櫛田神社には、「霊泉鶴の井戸」と呼ばれる湧水がある。これは、一口目は自分、二口目は家族、三口目は親類縁者の不老長寿をそれぞれ念じつつ飲むものとされる汽水である。海水はそのままでは塩分濃度(約三パーセント)が高く、人間が美味しく感じるのは一パーセント程度の濃度だそうだ。
 勿論、そのように塩分を適量摂取するには製塩する必要がある。しかし、塩の種類や製塩方法をインターネットで調べると、情報発信者たちの立場などによって多少見解の違いはあるが、いずれにせよナトリウム以外のミネラル分も残すのはかなり難しいようだ。
 ただし、古代の藻塩焼という、海藻に海水をかけて乾燥させて焼き、釜に入れて加水して煮詰める製法は、技術的に生産量が限られていたものの、摂り過ぎると有害な苦汁(にがり)も抜け、有用なミネラルを含む塩ができたそうだ。藻塩を摂取していた「大和民族時代」(貝塚時代末期~神功皇后時代の朝鮮半島からの揚浜(あげはま)式製塩技術の普及以前)は、「百才以上長命し、体躯雄大、霊感に優れた人々が生まれた」との説もある。これは、昭和二八年~四七年に使用されていた流下式枝条架(りゆうかしきしじようか)塩田製塩の創始者、西本友康の説だ(『日本塩業の変遷と国民に及ぼした影響史』)。この製塩法は、インターネットでも容易に概要を知ることができるので割愛するが、江戸時代から普及していた入浜(いりはま)式塩田での製塩と比べても非常に効率的で、苦汁も少なく、味も良い塩ができたようだ。その後、イオン交換膜製塩による、塩化ナトリウムが九九パーセント以上のイオン化学塩が専売制で流通する時代を経て、現代は再び「自然塩」が出回るようになったが、本来の「自然塩」とは言えないとの指摘もある。筆者の一夜漬け程度の勉強でも、海水の有用ミネラルを残した健康に良い塩を量産するのは、現代でもこれほど大変なことだと分かる。
 ところが、「鶴の井戸」の薄い潮水は、潮の干満で多少の濃淡の違いはあるものの、製塩作業抜きで生命維持に不可欠な水と適量の塩分、その他のミネラルを摂取できるからこそ、不老長寿の霊泉なのだろう。
●大幡主大神(おおはたぬしのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚(すさのおの)大神(おおかみ)が祀られる、那珂川のほとりの櫛田神社ご本殿の地下から湧出するこの「鶴の井戸」は、三貴子(みはしらのうづのみこ)のうちの二柱、天照(あまてらす)大御神(おほみかみ)と速須佐之男命(はやすさのをのみこと)が、天安河(あめのやすのかは)を間に挟んだ誓約(うけひ)で用いられた天之(あめの)眞名井(まなゐ)を想起させる。清らかな真水が各地で「真名井」として祀られているが、「鶴の井戸」のような汽水も当てはまるのではないか。誓約で「成(な)りませる」子神(みこがみ)については、後に「生(あ)れませる」と、「成」が同じくナと訓みうる「生」へ字が変わった上に訓みもアに換わる。この二字と読み仮名に変換が起きる神々が鹽(しほ)に関係することは、本稿で幾例も見てきた。天安河で天照大御神と速須佐之男命の間に生(あ)れませる八柱の子神も鹽に関係するならば、誓約の舞台の天安河は、やはり水戸(みなと)の汽水域にあると考えられる。
 伊邪那岐・伊邪那美二神の「みとのまぐはひ」による神生みの過程で、子神がさらに神生みをなされる記述がある。そのような記述があるのは、水戸神(みなとのかみ)=速秋津日子(はやあきづひこ)・速秋津日賣(はやあきづひめ)の二神と山神(やまのかみ)=大山津見(おほやまつみの)神(かみ)と野神(ぬのかみ)=鹿屋野比賣神(かやぬひめのかみ)(野椎神(ぬづちのかみ)とも)の二神だけだ。これは逆に、河海の接点と山野の接点が、新たな神々、即ち新たな生命が誕生する重要な場であることを強調するものではないか。古くから残る集落が、しばしば山や丘の麓=山野の接線辺りに形成されているのに注目すると、『古事記』の記述の意味がより明らかとなる。また、河海が接する生物相豊かな汽水域の水戸(みなと)が「みとのまぐはひ」の「みと」に通じ、神々や生命の新たな誕生の場であることは、もはや言を俟たない。
●そして何よりも先ず、水戸の遠浅の葦原の干潟こそ、堤防を築いて干拓され、田畑に変わり、食糧供給の中心地となってきた。だからこそ、(豊)葦原は日本人の生命維持と子孫存続に不可欠な水と鹽と米が豊富な場所、つまりクニの中心なのだ。水戸神は大祓詞で速開都比賣(はやあきつひめ)と書かれるが、「開都(あきつ)」(都を開く、開かれた都)も単なる当て字ではないのだ。生物相が豊かな汽水域の干潟で水質浄化の葦が密生する葦原は葦津原であり、アシヅハラの音はアキツハラ=秋津原、開都原へと通じ、またアキ(ツ)ハラの音は、ア(ハ)ギハラにも通じるだろう。
 生命維持に必要な水と鹽は、禊祓にも用いられる。その両方が入手し易い水戸の葦津原の汽水域を、伊邪那岐大神は禊祓にふさわしい阿波岐原(あはぎはら)の中瀬(なかつせ)として選ばれ、傍らの葦津の干潟は干拓されて水田に変わり、そこで育った水穂の秋の実りが米であり、そこが開拓されたクニの都=開都(あきつ)となるのだ。
 つまり、水と鹽と米という最も基本的な神棚へのお供えは、日本人にとって禊祓の象徴であり、同時に生命維持と子孫繁栄の象徴でもある。即ち、水稲耕作を基本とする生命維持と子孫繁栄は、禊祓に通じるとの信仰である。「住(す)む」と「清(す)む」、「生命(せいめい)」と「清明(せいめい)」が同じ音であるのも、これらの言葉が同根ゆえと気づかされる。
 河海の水も生物も大いに和する水戸(みなと)。その水を浄め、その水の中から天御虚空に向かって真っ直ぐ伸びる葦の根元に、様々な生命が生まれることも、日本列島の中心の本州が、大倭豊秋津(=葦津)嶋、また天御虚空豊秋津(=葦津)根別と呼ばれる理由の一つだろう。豊葦原の干潟を干拓した水田から葦さながら大空に真っ直ぐ伸びて秋に実りをもたらす水稲も、豊秋津根別=豊葦津の根元から別れて生(な)るもの、だろうか。ならば、豊秋津根別=水稲の秋の実りの米を最も尊び、その生命(いのち)をいただき、二足で葦のように地に直立し、神意に素直に生きる営み、即ち生命=清明を代々繋いでいくことが禊祓であると心得てきた日本人もまた、豊秋津根別といえる。本誌の「歴史の闇を禊祓う」など栗原茂氏の一連の記事の中で「意に通じる」重要性が繰り返されていたことを思うと、生命(いのち)はまた「意(い)の道(ち)」だろうか。(つづく)