みょうがの旅    索引 

                    

 みょうがの旅 14 ── おしほい 8
  (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)9月15日第367号)


●伊邪那岐大神(いざなぎのおほみかみ)の阿波岐原(あはぎはら)での禊祓により成(な)り(=生(な)り)ませる神々は、いずれも鹽(しほ)や潮汐との関わりが深く、とりわけ河と海が接する水戸(みなと)付近の葦津の原を連想させる。また葦津の水戸神(みなとのかみ)は速秋津日子(はやあきづひこ)・速秋津(はやあきづ)比賣(ひめ)の二神や速開都比賣(はやあきつひめ)と書かれることから、阿波岐原=ア(ハ)ギハラの言霊は秋津(=開都)原=アキ(ツ)ハラ…葦津原=アシ(ヅ)ハラに通じるのではないかと考えた。そして、河海の水と生物が八百會(やほあひ)に交じり合う汽水域の葦津原は、葦によって水質が浄化され、海の傍で鹽も入手でき、またその生物相豊かで、有機物の分解も活発な干潟が干拓されて田畑に変わり、食糧供給の中心地=クニの中心となってきたことが、速開都比賣の「開都」の二字に窺うことができた。さらに、これら生命維持に必要な水と鹽と米が最も基本的なご神饌であることも思うと、葦津原での生命維持の営み自体が、阿波岐原での禊祓に通じるのだと気づかされた。
●さてここで、鹽との関わりに言及できぬままだった、和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)について改めて考えておきたい。これは伊邪那岐大神の御衣(みけし)に成りませる神で、『日本書紀』では煩神(わづらひのかみ)と書かれるので、本誌第三六五号では紙幅の関係上、衣と煩悩の関係に終始した。
『古事記』にはこの御衣の素材が何であるか記されていない。衣は布から、布は糸から作られ、糸は繊維をより合わせたものだ。浅学非才の筆者がウィキペディアで調べると、そもそも繊維のことをワタと呼び、現代で普通にワタと呼ぶ木綿は江戸時代から普及し、古代のワタは一般的に真綿=絹を指す、とある。しかし、手元の電子辞書の広辞苑によると真綿は、「繭を引きのばして作ったわた。屑繭などから取る。…(中略)…主として防寒用衣類などに用いる。絹綿」で、絹綿は「屑繭の毳(けば)で作った真綿の一種」である。つまり、真綿は絹織物などにはならないものであり、そうすると単純に古代の綿=真綿=絹とはならないはずだ。今度は同じ広辞苑で綿を引くと、「…奈良時代のワタは絹綿。木棉は七九九年(延暦一八)に伝来したことが「日本後紀」に見える」そうだ。ところが、この時伝来した棉は熱帯種だったためにやがて枯れてしまい、本格的な栽培は江戸時代からとする説はインターネット上でも散見される。
 因みに、『延喜式』などに見える「木綿」はユフと読み、「楮(こうぞ)の皮をはぎ、その繊維を蒸し、水にひたして裂いて糸としたもの。主として幣(ぬさ)とし、祭の時に榊(さかき)につけた」(広辞苑)とされる。この説明からすると、木綿(ゆふ)は衣服にはあまり使用されていないようだ。
●昔の一般的な衣の素材は麻とする説もあるが、夏は良いが冬は寒い。現代人より我慢強く忍耐力のある昔の人々は冬は麻の衣を重ね着してしのいだ、との説もあるが、子供や老人もそれで大丈夫だったのだろうか?「温暖化」が人口に膾炙する現代の、例えば南国九州でも雪は降る。小学生時代に半ズボンで通した年もあった筆者は、情けないことに今の年齢で麻衣だけで空調もなしに何年も生活する実験をやる覚悟もない。ましてや、子供や高齢者に実験してもらうのは、「温暖化」の現代でも非難されそうで、非現実的だ。
 民俗学者の柳田國男は「昔の人が寒暑につけて、天然に対する抵抗力の強かったことは、とうてい今人(こんじん)の想像の及ばぬところであるから、素肌(すはだ)に麻を着て厳冬を過したとしても不思議はないが、これ以外に多分は獣皮なども取り添えられたことと思う」と推測している(『木綿以前の事』岩波文庫、一九七九)。前号でも触れた宮本常一の著書『塩の道』(講談社学術文庫、一九八五)に所収の「日本人と食べ物」では、狩猟の目的が肉食のためだけではなく、雨や寒さをしのぐ皮衣を着るためでもあり、「中世の絵巻物などを見ますと、鹿の皮を着ている坊さんがずいぶん描かれています」とある。
 ただ柳田は一方で、「元来は葛(かずら)類(るい)全体の総称」たるフヂや、マダとも呼ぶシナの木、「いぬからむし」とも書くイラという山野の野生植物などの繊維で織った布から作った衣服が、各地で着用されていたことも記録している。また、木綿(ゆふ)も衣料にされたと主張する。
●外(と)つ国の文献になるが、『魏志』の倭人伝(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫、二〇一一)には、倭人の男子は「木緜(もめん)を以て頭に招(か)け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。……禾稲(かとう)・紵麻(ちよま)を植え、蚕桑(さんそう)緝績(しゆうせき)し、細紵(さいちよ)・縑緜(けんめん)を出だす」とあり、この部分は「木綿を頭にかけ、きものは横幅の広いもの、ただ束ねて連ね、縫いつけることはない。……いね・いちび・麻をうえ、蚕をかい、糸をつむぎ、細紵(いちび、ほそあさの布)・縑(かとりぎぬ・きぬ)・綿を生産する」と口語訳されている。
 だが、手元の『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹・藤野岩友・小野忍編)では、緜の字は綿の旧字だが、「絹布を作るに糸をつなぐ意」とある。ならば、縑緜(けんめん)はやはり絹糸なのか?
●ところで、この「木綿を頭にかけ、きものは横幅の広いもの、ただ束ねて連ね、縫いつけることはない」という、倭人の男子の衣装に近いものを、海外の民族衣装の販売などを行なっている有限会社ファテマのインターネットサイトで見つけた。中でも最も近いと思われるのはバリ島の男性用結婚式衣装だ。人形(ひとがた)に裁縫したものではない幅広の布を、一つは腰に、もう一つは先ず左肩に掛けてから胴に巻き付けて結びとめ、帯を胸元で締める。さらに、布製の帽子を被り、首飾りや腕輪も着け、背中に剣を挿す。特に帽子の上に逆さに立つ金色(こんじき)の枝葉の飾りは、日本の神楽で登場される神々の御頭に立つ榊を想起させる。その榊に付ける垂(しで)に昔は木綿(ゆふ)を用いていたので、倭人が頭にかけた「木綿」とは楮(こうぞ)から作るユフであろう。後に垂は紙製となるが、紙はカミソとも呼ぶ楮から作るからカミと読み、髪(かみ)の生える体の最上部の頭に付けて神々と繋がることを意識したから、上もカミと読むのかもしれない。
 タイの僧侶の衣も先ず布で腰を巻き、次に頭と右肩を通す布を被り、さらに別の布をやはり左肩は覆い、右肩は露出するように胴に巻き付け、その後小さな布を腰に巻いて結束する。日本の僧衣の袈裟も左肩を覆い、右肩を露出させる。両肩を覆う衣を着る如来への崇敬と左手を不浄とする信仰に基づくものと説かれるが、ファテマの公式サイトを見ていると、これはむしろ土着の風俗に仏教的な解釈を付けたものではないかと思う。
 こうして左の胸と肩を覆い、右の胸と肩を露出させる衣装ばかり見ていると、海人の宗像氏は胸と肩に入墨をしていたからムナカタと呼ばれたとする通説を思いだした。そしてふと、入墨だけでなく、胸と肩を左は覆い、右は露出した衣装が特徴的だったことにも由来するのではないかと、筆者のもつれた脳神経は妄想を膨らませる。
●しかし、『古事記』の記述によると伊邪那岐大神は裳(も)と褌(はかま)もお召しだった。阿波岐原で最初は杖、帯、裳、衣、褌、最後に両手の手纏(たまき)の順にお捨てになるので、衣は裳と褌の間にお召しだったと思われる。広辞苑によると、裳はスカートのような形状で、男性の礼服(らいふく)としては表袴(うえのはかま)の上に着用したものだそうだ。『古事記』でハカマと読まれる褌には、道や河が二手に分かれる様(さま)に通じる御名の道俣神(ちまたのかみ)が成りませるので、褌はやはり今のズボンのような二股に分かれた袴だろう。ならば、『魏志倭人伝』の中の倭人の衣装とは異なり、縫製され衣を伊邪那岐命はお召しだったのだろう。
 そんなことを考えていると、この同じサイトの中でマレーシアの男性民族衣装の写真に目が留まった。縫製されたジャケットとズボンの上からさらに、スカート状のものを腰から下に履いている。つまり、伊邪那岐命と同じく、上衣=ジャケットは裳=スカートと袴=ズボンの間に位置する。
 とまれ、タイもバリ島もマレーシアも本誌で稲村公望氏が紹介されている黒潮文明の地域であり、わが国も黒潮文明の一角をなす。伊邪那岐・伊邪那美の二神が生みませる大倭豊秋津嶋(おほやまととよあきづしま)を中心とする大八洲國(おほやしまくに)が『魏志倭人伝』中の倭人の百余国に通じるものがあるとすれば、タイやバリ島やマレーシアの民族衣装も、伊邪那岐命の御衣を考える上で参考になる。
 そして、『古事記』に描かれる伊邪那岐命の御衣は、『魏志倭人伝』が書かれた頃ではなく、後世に稗田阿禮(ひえだのあれ)が口誦した時代や太安萬侶(おほのやすまろ)が編纂した当時の日本人の衣装だったのではないかと思われる。この時代性の影響は、他の神々の着衣や持物、その他言及される諸々についてもそうだろう。例えば、『魏志倭人伝』によると倭人は料理を手で食べていたそうだが、『古事記』では高天原を追放された速須佐之男命(はやすさのをのみこと)が出雲國に降られたところ、肥河(ひのかは)に箸が流れ下ってきたので、その河上には人が住んでいると判断されたとある。
●先ほど宗像氏について、胸と肩に入墨をしていたからだけでなく、右の胸と肩を露出する衣装の特徴にも由来するのではないかと考えたが、ならば、宗像氏は『魏志倭人伝』に描写されるような衣装をしていた可能性もある。それはまた宗像氏が、黒潮文明のわが国でもっとも早くから生活していた氏族の一つであった可能性にもつながる。『古事記』で胷形之奥津宮(むなかたのおきつみや)、中津宮(なかつみや)、邊津宮(へつみや)にそれぞれご鎮座と記述のある多紀理毘賣(たきりびめ)、市寸嶋比賣(いちきしまひめ)、田寸津比賣(たぎつひめ)の三姉妹の神々は、天安河(あめのやすのかは)における皇祖天照大御神と速須佐之男命の誓約(うけひ)で最初に成りませる神々だ。そして、その三女神の中でも最初に生(あ)れませる多紀理毘賣命が鎮座される胷形之奥津宮は、現在も禁足地であり、年に一度だけ男性のみ参拝が許される宗像市沖ノ島にある。宗像市の離島の大島から漁船で北西に、順調なら一時間ほどで行ける孤島だが、黒潮本流から別れた対馬海流に洗われ、亜熱帯性植物の自生北限地だ。筆者の先祖が住んでいた土地も宗像神を氏神とするので、子供のころ沖ノ島に参拝したことがある。南東に位置する宗像市の大島や本土よりはるかに暖かく感じたのが、上陸して最初の印象だった。バリ島やタイに行ったことはないが、胸肩の特徴的な民族衣装が、妄想癖の筆者には倭人宗像族の衣装にも見えてくる。市寸嶋比賣はそもそも神を斎祀る(いつきまつ)巫女とされ、宗像三神を主祭神とする安芸宮島の厳島神社(いつくしまじんじや)の社号にも通じる。ならば、市寸嶋比賣命は邪馬台国の卑弥呼の姿にも通じようか?(つづく)