みょうがの旅    索引 

                    

 みょうがの旅 15 ── おしほい 9
  (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)10月1日第368号)


●本稿には前号で再び過ちがあった。「みょうがの旅」に初回からお付き合いいただいている読者には「またか」と呆気に取られる方もいらっしゃるかもしれない。その過ちとは、「筆者の先祖が住んでいた土地も宗像神を氏神とするので、子どものころに沖ノ島に参拝したことがある」というくだりの傍点部分で、沖ノ島に参拝したのは実は三年前である。これは天童竺丸氏の考え過ぎで、それも善意に基づいて、筆者のために良かれと思って手を加えてくださったのだ。もちろん天童氏は印刷、発行の前の深夜未明に筆者にその通りで良いか確認を求めてこられた。しかし最終校正の返信をした後に、このような確認を求められるなど思いもしなかったので、睡眠不足が続いていたこともあって、原稿を提出した安堵から就寝していたのだ。また発行当日は筥崎八幡宮の放生会大祭に参拝する予定だったところ、朝寝坊して慌てて外出し、しかも土曜日ということもあって終日メールチェックをしなかったため、事後の確認となったのだ。
 このような次第で、せっかくのご厚意に対して失礼を犯してしまったが、確認を求められていたこの一文を目にした時、「どうして余計なことをされたのか」、「何故この日に寝坊し、メールチェックも怠ったのか」等々、まことに自分勝手な妄念が去来した。
 しかし、時すでに遅し。今更何を思っても、読者諸氏に発送されている。半月後は再びお詫びと訂正のようなことを書かねばならないのかと次号の内容についてあれこれ思案に暮れたが、むしろこの予期せぬ事態を今後の展開に活かすべきだと気を取り直した。今までは自分だけのミスだったが、今回は他者の善意も加わったのが興味深い。
 春日大社の葉室賴昭(はむろよりあき)元宮司の著書『神道 夫婦のきずな』にある、台風の襲来によって境内に被害が及んでいた頃、常に被害が実際よりも酷くなくて良かったと思い直し、むしろ台風に感謝していると、台風が善に変わり、懸案のままだった社殿の修復など、境内が以前にまして美しくなった、とのエピソードは前にも触れた。そこで、天童氏の常識的には余計なお世話ともいえる厚意と、知らぬが仏の筆者の安堵に満ちた朝寝坊と筥崎宮参拝をも何かの神計らいだろうと感謝しよう。
 その意味については後々も折に触れて思いを寄せるべきだが、よりによって挿入された「子どものころに」の一言にまず注目した。先祖の故地の氏神は宗像大神が主祭神なので、「子どものころに」と思い込まれたのもおかしくはない。それにしても、元の原稿にないことを敢えて書き込むという厚意は滅多にない。もしかしたら、筆者の「子どものころ」に関係する土地の信仰について、今この段階で改めて考えてみよとのご神意かもしれない。
●中学に入学する半年ほど前に引っ越してきた糟屋郡新宮町(かすやぐんしんぐうまち)の町名の由来には二説ある。一つは住吉大神の勧請、もう一つは和歌山県新宮市の熊野速玉(くまのはやたま)大社の速玉大神の勧請によるものとする。果たして新宮町内には二つの新宮神社がある。元は一つの神社だったが、明治に氏子内の意見の相違から、墨江(すみのえ)三前(みまえ)大神を祀る下府(しものふ)地区の新宮神社と、熊野大神(熊野椽樟日命(くまのくすひのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと))を祀る上府(かみのふ)地区の新宮神社とに別れたようだ。
『養生訓』の著者として有名な福岡藩の学者の貝原益軒は、住吉大神を勧請して磯崎神社としたとし、それが新宮の地名の由来だと、『筑前國続風土記』に記す。磯崎神社は新宮町内で最も大きな神社だ。しかしご祭神は大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、素盞嗚命(すさのをのみこと)の三柱。かつて新宮浦と呼ばれていた西鉄新宮駅の近くに祀られるが、湊川(みなとがわ)を挟んだ対岸の新宮漁港のある磯崎鼻(いそざきばな)という岬が元の鎮座地だった。磯崎鼻については、潮の満ち干で水位が変わる小池の中央にある大岩の箱瀬(はこぜ)が、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓で御裳(みも)に成りませる時置師神(ときおかしのかみ)に通じると、前にご紹介した。
 磯崎神社が江戸時代に磯崎鼻の湊村から新宮浦に遷座した後、湊村に残った人々は、本村に当たる南隣の三苫(みとま)村(福岡市東区三苫)から八大龍王社を新たに勧請、明治時代に綿津見神社と改称し、現在のご祭神は綿津見三神だ。伊邪那岐命の禊祓で綿津見三神と住吉三神は双子のように成りませるので、本村の三苫に綿津見大神、枝村の湊に住吉大神=磯崎神社を祀っていたとする貝原益軒の説も一理あるが、磯崎神社に伝わる『新宮浦由来書上帳』には、紀州熊野新宮の速玉大神が勧請されて新宮大明神と崇敬されたとある。
●旧湊村の綿津見神社や磯崎鼻の箱瀬からは、東南の方角に立花山(たちばなやま)が見える。立花山は三つの峰(主峰の立花山のほか、松尾岳または白山と白岳の二峰)からなるが、磯崎鼻や新宮浦から望むと立花山と松尾岳が丁度重なり、二峰の山に見える。立花山の別名の二神山(ふたかみやま)は、まさに磯崎鼻や綿津見神社から見た場合の呼び名であろう。この東南の方角とは、冬至の朝日を立花山の上に拝む方角と思われる。国立天文台のホームページによると、福岡の冬至の日の出の方角は真東からほぼ二八度南寄りとなるが、これは太陽の上辺が地平線に一致する時の方角であり、平地(里、浦、河口、港など)の視点から太陽が山上に現れる方角はさらに南寄りにずれる。それ故か、立花山と松尾岳の二峰の北斜面の中腹の中間に天照大神を主祭神とする六所神社が鎮座し、そこは磯崎鼻の真東から約三〇度南寄りの場所となり、地平線からの日の出の方角に近づく。六所(ろくしよ)神社のすぐ傍には、伝教大師最澄(でんぎようだいしさいちよう)が唐での留学から帰朝して最初に開いた天台宗寺院の獨鈷寺(とつこじ)がある(本尊は聖観世音菩薩(しようかんぜおんぼさつ))。最澄作と伝わる薬師如来も祀られる。
 天台宗総本山の比叡山延暦寺を守るのは、東本宮に大山咋神(おほやまくいのかみ)、西本宮に大己貴神(おほなむちのかみ)を祀る日吉大社である。東本宮の大山咋神は京都の松尾(まつのを)大社のご祭神でもある。それに対応するように、磯崎鼻から東南の方角(冬至に日の出を山上に拝する方角)の立花山と松尾岳には、天照大神を主祭神とする六所神社と東方瑠璃光浄土の教主薬師如来を本尊とする獨鈷寺があり、逆に立花山と松尾岳から北西方向(夏至の日没方向)の、玄界灘に突き出た磯崎鼻には西方極楽浄土の教主阿弥陀如来を本地仏とする大己貴命もご祭神に加えられる磯崎神社が鎮座していた。冬至の日の出と夏至の日の入りを拝するどちらの方角も、日吉(ひよ)しの方角と言える。磯崎鼻と立花山の日吉しのラインが、新宮町の町域の基本軸になっている。
●ところで、磯崎神社の旧社地に鎮座する綿津見神社の勧請元の三苫の綿津見神社の裏手の公園からは、立花山の三峰が見える。この山容には大和國一之宮大神(おほみわ)神社のご神体の「三輪山(みわやま)」や「三諸岳(みもろのおか)」の御名が連想される。実際、三苫の綿津見神社から立花山の山頂に引いた線上には福岡市東区の下和白(しもわじろ)地区に大神神社(大物主神=大国主命=大黒様)が鎮座し、神功皇后のご征韓にあたり、この地に駐屯していた大和の将兵が勧請して航海の無事を祈願した、と伝わる。奈良の三輪山は円錐形である。それに対して立花山は、松尾岳と白岳という特に頂の部分が円錐形の峰が二つ並び、両峰の間に覗く主峰は幅広いすべり台を思わせる斜面を持ち、まるで地から天に昇り、また天から地に降るための坂道のようだ。この山容もまた、「三輪山」や「三諸岳」、あるいは三峰が美しく調和する「美和山」と呼ぶにふさわしいと言えば、お国自慢が過ぎようか?
●磯崎鼻の箱瀬には、神無月に出雲に行かれた磯崎神社の三柱の神々が、帰途は大変難儀され、近くの相島(あいのしま)付近で日没となり、暗闇の中で途方に暮れていらしたところ、ふと聞こえてきた鶏鳴の方向に舟を進めて辿り着かれたのが箱瀬だった、との伝承がある。箱瀬もまた、相島から東南の方角にある。つまり相島、磯崎鼻、綿津見神社(磯崎神社旧社地)、立花山・松尾岳また六所神社・獨鈷寺は北西から東南へ、つまり立花山の山上に冬至の日の出を拝する一帯に並ぶのだ。ならば磯崎神社のご祭神が、出雲から筑紫へと黒潮に逆らう船旅で大変難儀され、ようやく相島付近を航海しておられたときに暗闇となったというのも、ただの日没ではなく、旧暦の霜月に入った、日照時間が最も短い冬至の日没を暗喩しているのではないか。その陰極まったときに、磯崎鼻の箱瀬や立花山のある東南方向から響いた鶏鳴は、冬至を過ぎる夜明けの象徴なのだ。鶏鳴を頼りに箱瀬に上陸されたその時、産土の神々は立花山から陽光が立ち昇るのを目にされたのだろうか。湊村や新宮浦の漁民たちも、毎年の冬至にはこの産土神の歓喜を分かち合ってきたのではないか。鶏が伊勢神宮などで天照大神の神使と考えられてきたことをここで付記するのは、もはや蛇足かもしれない。
●冬至の日の出を意識した信仰は、このライン上に鎮座する人丸(ひとまる)神社の由緒にも認められる。ご祭神は平景清(たひらのかげきよ)の娘の人丸姫命。子宝に恵まれぬ平景清が神仏に祈願していたところ、夫人は旭が昇るときに懐妊を覚え、女児を産んだ。「旭」の字は「日」に「丸」と書くので人丸姫と命名された。源頼朝暗殺の計画が事前に発覚して捕らえられ、両目を潰されて日向国に流罪となった父景清に会うべく、一三才になった人丸姫は乳母とともに現在の新宮町まで辿り着いた。が、景清の旧友である獨鈷寺末院の僧から旅の続行を断念するよう説得されるうち、長旅の疲れから病気になり、死を覚悟した人丸姫は、死後は塚を築いて日向に向けて葬り、印に松を植えてほしいと遺言し、建久三年一一月九日に亡くなる。
 人丸姫の命日は新暦では一一九二年一二月一五日、初七日は同二一日となり、ほぼ冬至である。現在の境内に印の松は残っていないが、社殿は東南の立花山に向いている。冬至の旭を六所神社と獨鈷寺、また立花山と松尾岳の上に拝む方向だ。しかも地図上でこの線を延長すると、本当に九州の東海岸で大分と宮崎の県境辺りに至る。即ち、冬至の朝に伊邪那岐命の禊祓にも関わる磯崎鼻の箱瀬に立つと、一陽来復(いちようらいふく)の朝日に向かった先には立花山が聳え、そのまた先は日向国に至る。筑紫国(福岡)の日向の橘(立花山)のラインは、筑紫嶋(九州)の日向国に向かうラインでもあるのだ。そして図らずも、前の副題=「一陽来復」と、現在進行中の副題=「おしほい」の禊祓までもが重なることになった。
 天童氏が筆者の沖ノ島参拝を「子どものころ」とされた思い込み、そして原稿校正後の再確認などなかろうとの筆者の思い込みも、禊祓えば煩悩即菩提の冥加だったのだ。 (つづく)