みょうがの旅    索引 

                    

 みょうがの旅 17 おしほい 11 禊祓と稲作
      (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)11月1日第370号)

●前回で副題の「おしほい」の回数も十〇(とをまり)となった。途中で犯した過ちなどで遠回りとなった感もあるが、筆者の中では急がば廻れの諺のとおり、いろんなことが繋がってきて大変勉強になる道行(みちゆき)となった。しかし、それらのことが茗荷紋や摩多羅神の信仰とどう関係があるのかを論ずるには、まだまだ読者諸氏とともに確かめておきたいことが多い。「おしほい」自体も、茗荷紋と摩多羅神(またらじん)信仰との関わりで最も肝心だと思うことに触れるにはあと何回稿を進めればよいか不明である。それだけ「おしほい」もまた大きなテーマだと、書きながら痛感している。
 ただ、同じ副題が延々と続くと分かりにくいとの声もあるため、「おしほい」の中で毎回小見出しを付けてみようと思う。しかし小見出しの内容すらも一回で済むとは限らないので、その後に番号が付いてもご勘弁願いたい。毎回小見出しが変わるように無理にまとめても、内容が雑になるだけで、却って読者諸氏に対して失礼となろう。
 そもそも本稿のシナリオは「おしほい」に移った時点で大きく変わり、過ちを犯すたびにさらに変わってきている。過ちはわざと犯しているわけではないので、世の中に偶然というものがないとすれば、これは神仏祖霊の働きだろうか。そして、一見禍(まが)と思われる過ちを今できる範囲で直(なほ)そうとするうちに、予期せぬタイミングで予期せぬ気づきをいただいてきた。だからこそ、本稿が『みょうがの旅』たり得ているのだと、妙な自負心さえ抱いている。これが、茗荷紋や摩多羅神信仰について何でも知っているかの如く、読者に対して体系的に整理された論考を披露するようなものであれば、最早『みょうがの旅』ではない。能楽のワキの道行も決まったコースがあるわけでもなく、いつ、どこで、どんな神や霊と出会い、どのような話がいつまで続くのか、ワキ自身も知らず、ただひたすら話を聞く。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)も黄泉國(よもつくに)で何が待ち受けているのか、阿波岐原(あはぎはら)での禊祓の結果、どんな神々が成りませるのか、予めご存じだったかどうか。ご存じだったならば、黄泉國では驚かれたり、中瀬(なかつせ)では三貴子(みはしらのうづのみこ)のご誕生に大喜びされることもあったかどうか。
 かくして、本稿は筆者の過ちに読者の働きかけも相まって、結果的に誰も想定しえない道行となる。ただ神仏祖霊はこの様(さま)をじっと見守ってくださるだろうと思うと、迷妄な脳裏にぼんやりと、笑顔の翁面が浮かんでくる。
●福岡県糟屋(かすや)郡新宮(しんぐう)町の玄界灘に面した磯崎鼻(いそざきばな)と呼ばれる岬と立花山や中腹の六(ろく)所(しよ)神社(天照大神ほか五柱)及び獨鈷寺(とつこじ)(伝教大師最澄開基)とを結ぶ線が、冬至の朝に磯崎鼻から立花山の上に一(いち)陽(よう)来(らい)復(ふく)の日の出を拝む日向(ひむか)・日(ひ)吉(よし)の線であり、その延長線が九州東海岸で大分と宮崎の県境=豐國(とよくに)と日向國(ひゆうがのくに)の国境に至ることから、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばなの)…」という禊祓の場に通じ、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓には、陰気極まる冬至が明けると再び陽気が伸長しだす自然の摂理、また人間が不遇や苦境を禊祓によって克服していく姿に通じることに気づいた。そして、黄泉國(よもつくに)から戻られた後に禊祓をされるのは、人間の禊祓=魂の修行も生きている間こそ可能なことを示唆している。その生きる糧として稲作が最も尊ばれるのは、稲作が陰陽相半ばする春に始まり秋に終わるのに対して、収穫=仕事の成功で陽気の感情=喜びは秋に最高潮を迎え、ややもすれば傲慢や怠慢に陥り易い人間の心を、陰気極まる冬至がやがて訪れて戒めるというサイクルに適合するのも理由の一つとした。だから、水、鹽(しほ)、米という基本的な神饌が、生きる糧と同時に禊祓の象徴ともなる。
●果たして、新宮町内の日向・日吉の信仰の線上には、縄文、弥生時代の端境期=稲作開始時代前後の土器、夜臼(ゆうす)式土器の標式遺跡である夜臼貝塚が発見された。夜臼式土器はかつて縄文末期の土器と考えられていたが、夜臼貝塚では稲籾の痕が付いていたことから、縄文時代と弥生時代の区分や稲作開始の時代について当時の通説を大きく覆す契機となり、弥生前期より遡った弥生早期という時代区分まで生まれた。
 夜臼貝塚の近くの丘には高松神社という夜臼の産土神が鎮座する。その丘や立花山の中腹や相島(あいのしま)では旧石器時代の石器も見つかっており、新宮町内に一万五〇〇〇年ほど前から人が住んでいたのは確実といわれる。
 高松神社のご祭神は、大市姫命(おほいちひめのみこと)で、『古事記』では神大市比賣命(かむおほいちひめのみこと)とあり、大山津見神(おほやまつみのかみ)の女(みむすめ)、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の子(みこ)=大年神(おほとしのかみ)と宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)をお産みになった。境内の由緒書きには、市場を主催する神とある。確かに夜臼地区や東隣の三代(みしろ)地区では奄美大島より南の海底にいるイモ貝やゴホウラ貝の貝輪(かいわ)が出土し、韓式土器や朝鮮半島原産の石で作られた勾玉なども発見されている。太古から交易が盛んだった夜臼に、大市姫命が祀られたのは当然である。
 ここから東の立花山側に発見された弥生遺跡の三代貝塚の近くの玉嶋稲荷神社を遙拝すると、稲籾の痕を残す夜臼式土器が、後に三代でご活躍になる宇迦之御魂神を、一陽来復を祈りつつ胎内に宿していた母、大市姫命の象徴のようにも思われる。 (つづく)