みょうがの旅    索引 

                    

 みょうがの旅 18 おしほい 12 日向と湊川
      (世界戦略情報「みち」平成24年(2672)11月15日第371号)

●福岡県糟屋(か(や)郡新宮(しんぐう)町夜臼(ゆうす)の産土神の高松神社の丘の辺りまで、縄文時代は深い入り江になっていたようだ。その入り江に立花山から流れてくる川によって土砂が堆積していき、やがて北西方向の磯崎鼻(いそざきばな)まで広がり、新宮町内の平野が形成されて田畑に変わっていった。この入り江の名残が、高松神社の丘の傍を通り、玄界灘に注ぐ湊川(みなとがわ)だ。湊川の河口の北側は新宮海岸の砂浜、南側は磯崎鼻の岬である。磯崎鼻の突端からは北向きに堤防が築かれてその内側に新宮漁港があるが、漁船の一部は今も河口の手前の川岸に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の御(み)杖(つえ)に成りませる衝立(つきたつ)船(ふな)戸(どの)神(かみ)を思わせる杭で繋留されている。
 伊邪那岐命の禊祓の聖地、阿波岐原(あはぎはら)は葦が密生した葦津原(あしづはら)や秋津原(あきづはら)に通じるのではないかと考えるが、葦は砂地を好むので、新宮海岸の砂浜の河口にも葦が豊かにそよいでいたのだろうかと想像する。河口は水戸(みなと)とも呼ばれ、『古事記』の中で水戸神は速秋津日子(はやあきづひこ)と速秋津比賣(はやあきづひめ)の男女一対の神々とある。女神は『大祓詞(おほはらへのことば)』では速開都比賣(はやあきつひめ)とあり、その「荒潮(あらしほ)の潮(しほ)の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の潮(しほ)の八百會(やほあひ)に坐(ま)す」場所は、海水と淡水、そしてそれらの生息物も八百會に交じり合う汽水域だと考えた。
 湊川の元の入り江の奥に位置する夜臼の丘に祀られる産土神が、市場を主催する大市姫命(おほいちひめのみこと)と申し上げる理由を如実に物語るように、周辺からは旧石器時代の遺物をはじめ、奄美大島以南でしか取れないイモ貝やゴホウラ貝の貝輪や朝鮮半島に関係する土器や勾玉が発見されたことを前号ではご紹介した。遠近各地の人々と物産が集まり、その中で交々(こもごも)の取引が行われる市場もまた、速開都比賣の坐す「八百會」に通じるのではないか。人と物産の交流が盛んな場所も開けた都であるし、入り江もまた河海の接する水戸(みなと)であり、汽水域にもなる。そう思うと大市姫命と速秋津比賣=速開都比賣のご神徳も共通する部分が多いようだ。それ故に、現在では大市姫命ご鎮座の傍を流れ、磯崎鼻の岬と新宮の砂浜の間を通って玄界灘に注ぎ込む川全体がミナト川と呼ばれるのだろう。つまり、太古より国内外の人々と物産が「八百會」に交じり合う入り江の名残だから、「八百會に坐す」速開都比賣=速秋津比賣=水戸神の川としての湊川なのである。
●遠く海外からこの「八百會」の場を通じてわが国にもたらされた物産の中に稲もあったろう。稲はイネ、イナのほかにヨナとも呼ばれるが、ヨナとはまた海とも書く。ヨナタマとも読む海霊は稲霊にも通じる。大市姫命の鎮座地の傍で、縄文晩期のものと考えられていた夜臼式土器に稲籾の痕が認められたことは、夜臼の産土神が稲荷神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の母でもあるとする『古事記』の記述を考古学的にも証明することになった。そしてこの証明をさらに補強するかのように、夜臼貝塚の東隣には三代(みしろ)貝塚という弥生遺跡が発見され、高松神社の東南の丘には玉嶋稲荷神社が鎮座し、稲霊とその母神が互いに近くに並び祀られる形となっている。海霊が渡来して、磯崎鼻の岬から入り江=湊川に入り、奥へ進んで行って大市姫命に稲霊が宿る。そして女神の胎内のような夜臼式土器の中で稲籾が留められ、「みたまのふゆ」を経た稲霊が、春も意味する東(立花山側の三代)に遷(うつ)って稲作の神となられる。
●フユは「増(ふ)ゆ」にも、「冬」にも通じるが、磯崎鼻から望む高松神社、玉嶋稲荷神社、立花山は、果たして冬至の一(いち)陽(よう)来(らい)復(ふく)の日の出を拝する方向にある。この線上には、日向國に流刑にされた父の平景清(たひらのかげきよ)に会うことが叶わぬまま病死した娘の人(ひと)丸(まる)姫が、日向に向けて葬むるよう遺言した人丸神社も鎮座する。その人丸神社も含む一陽来復の日の出を拝む軸線は九州東海岸で日向國の国境に到達することも本誌通巻第三六九号で確認した。
 つまり、禊祓の聖地=竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばなの)小門(をど)の阿波岐(あはぎ)原(はら)が、筑紫國(つくしのくに)の新宮町では、筑紫嶋(つくしのしま)の日向(ひゆうが)の國(くに)にも至る、冬至の日の出の方向に延びる立花山の小門=入り江=湊川の土砂が堆積した葦津原として顕れ、しかもそこに稲作開始前後の時代の先祖たちが生きた=魂の修行をした痕跡が認められるのだ。
●魂の修行を可能にする生きる糧としての稲作の神=稲荷神=宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)には、大年神(おほとしのかみ)と申し上げる兄がいらっしゃる。常世國(とこよのくに)へ度(わた)られた少名毘古那神(すくなびこなのかみ)の後を継ぎ大國主神(おほくにぬしのかみ)の國作りを助けられた神で、『古事記』に「此(こ)は御諸山(みもろのやま)の上(へ)に坐(ま)す神(かみ)也(なり)」とあるので、大物主神(おほものぬしのかみ)に通じる神だ。
 元は磯崎鼻にあった磯崎神社には大己貴命(おほなむちのみこと)=大國主神、少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして大年神の父=素盞嗚命の三柱が祀られる。大國主神は、磯崎鼻から高松神社に続く入り江の土砂が堆積した土地を、弟分の少名毘古那神と共に作り堅めていらしたが、弟が突然に常世國に度られたので、悲嘆という陰気の感情に覆われる。だがそこで大年神が助け船を出される。その母の大市姫命は、磯崎鼻から入り江=湊川を経て冬至の日の出を立花山の上に拝む方向に鎮座される。ならば、「海(うなはら)を光(てら)して」顕現される大年神の神光も、陰気極まる冬至に、立花山に立ち昇る一陽来復の暁光であろう。 (つづく)